.詩文庫 ..校正ルール ■課題 ・文語と口語 ・「いる」(通常)と「居る」(存在) ■校正ルール 人称 → 「私」「きみ」 はず → 筈 わけ → 訳 からだ → 人間「身体」       動物「躰」 とめる → 止める やめる → やめる みつけ → 通常「見付け」       詩「見つけ」 つく → 付く ない → 存在「無い」      成語「ない」        「〜しない」   「〜えない」 うえ → 物理「飢え」      精神「餓え」 流れる → 通常「流れる」       連体形「流るる○○」 きず → 肉体「傷」      軟い物質・精神「疵」 硬い物質「瑕」 ゆく → 通常「〜していく」      例外「〜ゆく」(生まれゆく・落ちゆく) きる → 〜しきる うむ → 生物的「産む」      通常 「生む」 まく → 地面に・美的に「蒔く」      ネガティヴ  「撒く」 ひつぎ → 中身がある「柩」       中身がない「棺」 いたる → 物理的に「到る」       その他 「至る」 あしもと → 物理・周辺「足元」        物理・直下「足下」        立場・概念「足許」 こい → 綺麗・純粋  「恋」      しがらみ・未練「戀」 まもる → 特定の対象を「守る」       規則・境を 「護る」 ..アイデアメモ    籠の鳥などそこには一羽もいなかった 朝は夜より出でて夜より青し 想い煩う事の幸いは きみの吐息と鼓動が生きている事 この病が溢れる涙を捕らえて 肋の奥に巣食う痞えになったなら きみは冬より還らぬ人 木洩れ日の如く花弁の降る 太陽が花ならば月も花 陽光の燦々たる遠とさも 月影の凛々たる きみに逢いに逝く きみの愛に逝く 等しき色も異なる彩へ ..総括詩集 ...夏へ至る殉情 ....序    序 詩を綴る事は 移り変わる心の肖像を描く行為に似ている 脈の速さを覚えぬように 脳裏にすらも留め置かれず 吐息の色を忘れるように 生じた端から葬られるもの それらを記録する為に編んだ言葉が いつか輪郭を成すかもしれない ヒトの容(かたち)が崩れた後も 遺る姿はこうして在りし日の侭なのだ ....挫折と逃避 .....▽折れた翼    折れた翼 焼いてしまったよ きみに送った写真を全部 きみから貰った写真も全部 何も遺したくなくて 溜め込んだ過去が重くて 全部焼き捨てたらまた飛べるのだろうかと そう思ってみた 舞い上がる灰が目に沁みて 痛む瞼を擦りながら 弾ける火の粉の向こうで 焼け焦げていく色を見詰めていた アルバムに付けたタイトルが 気になってもう一度、表紙を開く 鮮やかに蘇る思い出が心を刻んだ こんなにも無邪気に こんなにも眩しく 私は飛んでいたのだ どれだけ過去を燃やしても 羽根なんて戻ってきやしないと 涸れていく炎が私を嗤っていた 地に墜ちた私は 折れた翼を引きずって 血に塗れて汚れた 羽根を撒き散らしながら歩いた 只、暗がりを求めて .....出せずの手紙    出せずの手紙 紙切れを広げた私は 言葉の綴り方を知らなかった それでも誰かに伝えたいと そう思って鉛筆を手に取った だけど、そんな当たり前の事さえ出来なくて 届けられない悔しさはこんなにも重く 助けの無い苦しさはそれよりも痛い 震える指に伝わる振動 もう何度目かの鉛筆の芯が折れる音 白い紙切れに走った無数の黒い線 漸く書き上がった稚拙な手紙 私は紙切れを手に立ち上がった そして、そこで初めて気が付いた 知らなかったのは言葉の綴り方ではなく 綴った言葉を人に見せる勇気の方だと 掌中で握り潰した紙切れはいつ迄も 心の屑籠に埋もれながら 誰かの手で開かれる日を待っている .....▽飛べない青    飛べない青 空は晴れては曇り 時に頬を染め太陽を見送る その色を海は映すけれど 海底に近付く程に褪せていく 小高い崖から見た水平線 空と海の色が溶け合う彼方 飛び立った私を受け留めたのは 空ではなく海だった 空の色を映しながらも 飛べない空はあくまで海の侭 境界線は交わらない 泡という名の雲を振り撒きながら落ちていく 密度を増す水達の抱擁は 私を捕らえて放さない この手をすり抜けた空 抱き締めてくれた海 私を見放した空 抱き潰そうとする海 私が触れたかったのはこの青ではない けれど、もうこの身は此処から逃れる事は出来ないだろう 見上げても、見上げても もう空の色は見えなくて 遥か水面から差し込む光が胸を射つ 空は何処? 淡い青に恋をしながら 私は深い青に囚われた .....▽最果て(仮)    最果て 置き去りにして欲しい 私を静かな夢の中へ 街並みの中でいつからか 硝子に映り込む自分を探すようになった 流れる人並みで立ち止まり 行く宛も無いような面持ちで 切り取られた一枚絵が見詰め合うひと時 その瞳の奥に留まる事が出来たなら この先に歩き出す理由も無くなるのに 次の一歩に意義を見い出す必要も無くなるのに もう置き去りにして欲しい 他愛無い私を今の侭に 夢がもしもあるならば 見る事が出来るならば この願いを叶えてくれるならば 木洩れ日 光から隠れるように 呼び声 柵(しがらみ)から逃れるように 脈動 想いから切り離すように どうか、閉じ込めて 蓋をして 誰にも開けられなければ 真実は闇の中 笑っているか 泣いているか 自分にさえも判らない 見る者の望みを映す猫箱の内側へ どうか、私を眠らせて ....悲しみと渇望 .....▽夕日に問う    夕日(せきじつ)に問う 茜色の空を陽が沈んでいく 熔けた鉄のような色 星の姿はまだ見えない 明日、きみが居ない事なんて知っている きみが太陽なんかとは違う事も知っている 沈めば二度とは昇らない なのに、どうして? 涙のひとつも零れない 歯を食い縛る事なら 泣きながらだって出来るというのに 今夜、きみが居なくても月は昇る きみが太陽なんかとは違うという証拠に 月には翳りひとつ無い なのに、どうして? きみは誰を恨みもしない まるで、これが当たり前という顔で笑っている 明日、きみが居ない事なんて知っている きみが太陽なんかとは違う事も知っている だから、せめて そんな風に手を振らないで 太陽みたいな自然な顔で消えないで きみは太陽なんかとは違うのだから きみを見捨てるこの世界に きみが笑って手を振る事なんてないでしょう .....▽背反行為   背反行為 優しさは探しても見付けられない どんな形なのかも知らないから 優しいね、と言われる度に首を傾げる 何もかもに傷付く我儘さだけ 後生大事に匿ってきた 光に呑まれる夜空の残滓を 少年時代への執着に重ねる 留まるものの無い寂寞が 煽り立てるモラトリアム 朝の営みに目を背けて眠りたいと 引き籠る私をどうか認めて欲しい この景色は私には堪えられない 華やぐ巷を眺めるだけで 涙が零れそうになる酷い餓えが もう、どうにも隠せそうにない 私は誰にも優しくなどないのに 誰かが私の優しさを貪っている これが飢餓感の招待なのだろうか 唯一、きみから貰った優しさの味が 欲しくて、欲しくて、狂おしい 求むまいと思っていたのに きみにだけは望んでしまった 依存がこの首を締め上げていく 喘ぎ溺れそうになるこの唇が 求めるものの名前をまだ 私は言えそうにない ....自己解体 .....▽私の奈落に棲む獣    私の奈落に棲む獣 胸の真ん中にに穴を空けて 深く深く掘り進んだ とぐろを巻く感情を 奈落の底に蹴落として どんなに泣いて叫んでも 聞こえないように蓋をした 閉じ込められた情動が 狂ったように暴れている それでも箍は外れない 立てた爪が罅割れて 喉が嗄れ果て、掠れても そんなにしてまで、外に出たいか 私が私に首を傾げる そんなにしてまで、閉じ込めたいか 私が私を睨(ね)めつける 奈落の闇に蠢く獣は あらん限りに牙を剥く 咆哮が奈落を引き裂くのが先か 奈落が獣を平伏させるのが先か 獣の名前は刹那の衝動 奈落の名前は理性の檻 孤独を極める闘いに 付ける名前は何としようか .....▽解放    解放 恨みの籠もった言霊が 誰かを突き刺してしまう前に 溢れそうな憎しみが 呪いにならないように涙に変える 誰かを憎まないならば 己を見捨てるしかない 与えられた優しさすらも思い出せず 得られなかったものばかりに執着する 罪深く恩知らずな私が 誰かを傷付ける我儘など 笑って許されはしないでしょう 歪みを溜め込んだ喉の奥では 肋骨に守られ稚い心が蠢いている 指を絡めてその白い檻を抉じ開ければ 真っ赤な嘘が滴った 引き摺り出された心は尚 脈打ち飛沫を吐き散らす 破り裂かれた心が空になる迄 重ねた嘘を垂れ流し きみと私を汚していく 残骸にやがて乾いた頃 ぽかり開いた美しい洞の最奥で 吐息だけが場違いに うっそりと夢見るように濡れていた .....破れ鏡    破(や)れ鏡 鏡が私を映している 色も薄らに無味な顔 いつ見ても消えない隈は 肌の上から髑髏(しゃれこうべ)を透かすよう 嵌まり込んだ白い眼(まなこ)の裏側には ちっぽけな獣の思考が籠もっている それが私であればある程 瑕を与えたくなる誘惑 欲に任せて叩き割れば 飛び散った硝子は床で弾けて しゃらん、しゃらんと囀った 大小無数に私の顔の断片を映し 増殖した鏡は異形の写し身 私が彼らを見下ろせば 彼らもぎょろりと私を凝視する 寸分違わず同期して 悍(おぞ)ましいやら愛おしいやら 踏めど躙れど 写し身達は分裂増殖するばかり 眼に血走る紅は 癇癪な素足が流した穢れ 今にも塗り籠められそうな 無数の眼差しの主は 他でもない、この私 嗚呼、深淵が覗き込んでくる .....心性アルビニズム    心性アルビニズム 色褪せた私は一見して只の人で 失ったものは誰にも見えなかった それでも心はやはりアルビノで 何という事の無い朝焼けすらも眩しくて 虹彩に点(さ)す色を探していた 世間と調和する為の色彩なら 取り戻す程の熱も無い 生まれた時の侭に肌を剥き出して 染料塗れの世界に問う 私は何色をしていますか、と 私の色を認めて ありそうな色でなんて染めないで 極彩色な主張を吐いた喉の奥 破れかぶれな心臓が脈を吐いた 滴る彩はモルタルに飛び散って 世界の色と混じり合う .....狂った秤    狂った秤 生きている状態を保持する 当たり前に求められている事 私の死が肉親や友に悼みを招くなら 生きているより他に無い 仮に私が死んで誰も困らないのだとしても 誰も嘆かなくなって初めて 誰も惜しまなくなって初めて 私は死んでも構わない存在になれる 死んでも良いくらい幸せだとか そんな心地は未だ知らない 全てを消し飛ばしてくれる程の 熱量と衝撃が到来したら 誰かが抱くであろう悼みなど 秤に掛けても無意味なくらい 軽いものだと思えるのだろうか 生きる辛苦と他人の悼みを比べても 結局、他人の悼みが勝るくらい 苦しみ辛みも些細であるのか なればこの程度の辛苦を消し飛ばすに足る 幸せくらい何処にでもありそうなものを 私の秤は壊れてしまっているのだろうか 私の神経が壊れてしまっているように きっと私の舌は とんと甘さには鈍感なのに 苦さばかりに敏感なのだ .....▽熟した秘蜜    熟した秘蜜 胸に手を当てて 肋(あばら)の枝に実っている たわわな果実をもぎ取ってみる 熟れてしとどな果肉に沈む 指の先には小さな痛み ぴりと痺れる甘酸っぱい香りが その液(つゆ)からは漂っていた ふくらな肉は何の種を守っているのか 誰に啄ばまれるのを待っているのか 甘やかに誘っておきながら 警告するような痺れをもたらす 甘露とも蟲毒ともつかぬ蜜を垂らして きみに振る雨は、私が呑み込んだ涙 きみに吹く風は、私の呼吸 きみが張り巡らせた根は 私の脳髄に優しく絡んで 間違いなく 狂いもなく 秘めたる苦痛を吸い上げたから この果実は私の真心 打ち棄てた侘しい想いの成れの果て ひと口 齧るのがこんなにも怖い 滴る雫が私の足場を融かしている ....二十日鼠の時間 .....雨降らし    雨降らし 考えれば考える程に心から乖離する どうして、私は苦しいのだろう 苦しさから遠ざかる 解放されない侭に切断された思考 離れれば離れる程に私が解らなくなる どうして、私は生きているのだろう 当たり前に思えない 消えてしまうのが自然だと結論を出す思考 雨降らしの雲に涙の矢を放つ 煙る雨脚にそっと身体を滑り込ませた 結局、傷付けるような答えしか出せない どうやって結べば良い 擦り切れていく理性で繋ぎ止めてみても 虚しさが理性を軋ませる音は 詮無くぎぃぎぃと 傷付くだけならばやめてしまえ 誰かの言う通りに思考を止めても 私らしさが抜け落ちた私に気付いた時 心に芽生えた哀しみが思考のスイッチを入れる 感じれば感じる程に思考は回り続ける 処理できない感情を冷徹に見詰めながら そうして、また出した答えで私は傷付いて 生きている限り終わらない迷い路の中に、独り ......低点観測    低点観測 崖から転がり落ちる石ころのように 膝から崩れ落ちる私は何処へ行くの 底が見えない 其処が見えない 私は何処に転がっているの 立て、立てよ、と声がする 歩ける脚があるだろうって 支える腕もあるだろうって 見えない誰かが言葉の雨を降らせている 冷たくもない雨 だけど温かくもない 溺れる程の深みを造る訳でもなく 私を浮かれさせる程に気紛れでもない 羨ましいな 恨めしくはないな 高みで雨を吐き捨ててくる人達 八つ当たりの屑を掃き棄ててくる人達 心から搾り出したものは全て 何処にも届かずに私の足元に溜まっていく 誰かが降らせた雨に混じって薄れて もうどれなのかも確かには判らない 羨ましいな 恨めしくはないな 誰かが降らせた雨は心地良くはなくて 好い加減に此処から這い上がりたいけれど 悩ましいな でも、やっぱり恨めしくはないな この場所からの眺めは私だけのもの .....枷    枷 些細な約束で明日を繋ぐ それが怠惰という罪ならば 束縛こそが罰なのでしょう 消えたいと願っても 悼まれてしまうと知っている だから、存在だけを保ちながら 虚ろな日々を過ごすのです 他人にとっては当たり前の事象でも それは私を明日へと縛る鎖であって 胸の奥底から搾り出され 胸の奥底に食い込んで離れない 重いと嘆く代わりに 私は「楽しみだ」と笑うのです 振り払いたくなる衝動に 私は抗い、疲れ果てては眠るのです 罪が罰を生んだ瞬間から 罰が罪を赦す事は決してなく 罰が罪を縛りつけて以来 罪は罰なしでは生きられなくなるのです 罪が罰を食い破らない限り 怠惰は永久に終わりを迎えられないでしょう ....自傷 .....▽傷を喰む    傷を喰む 白く痩せた手で 三度、刃先でなぞっていた 最初に淡く桜色が咲いて 鮮やかにぷつり 紅い粒が浮き上がる 繋がってひとつのラインになれば それが傷だと思い至った 築かれた墓を暴くように 修復されていく身を貪った 瘡蓋の数が増える度に 掘り起こす爪に鉄の味が染み付いた 病んでやまないその行為に 私は只々、指先を染め続ける 無残な肌に舌を這わせれば 親猫の愛撫のようで胸が安らぐ 錆び付いた鉄のようなこの液体が 私の心を癒している 走る痛みは思考への麻酔 柔らかな舌は優しさの代用品 傷を喰む私の唇は 疑いもなく愛を囁いていた 何せ、傷の方がそれを愛と感じていたものだから .....我儘    我儘 キタナイものばかり目に映るようで 爪先で剥がした瘡蓋を水に流す 傷を癒す事などどうでも良くて 罅割れた皮膚はいつしか濡れていた 鉄の味がする指を舐めて 泣いている瞼を上から押さえ付ける 割り込んだ細胞を潰して擦って 破れた身体を弄んでいる キタナイ 何に触れても それでも、自分の手であるならば 全て許せる気がして 身体中をこそげ落とそうと手を伸ばす そんな姿をキタナイと他人は言う 別に何も気にならないよ 誰かの当たり前が 誰かのキタナイになる だから世界に触れるこの肌が この髪が この舌が この眼が 生きているだけで 全部汚れていく 汚くなんてないよ 流れている間は 乾いた鉄の味をこそげながら嘯く 誰も喜ばないかもしれないけれど そうしないとオカシクなりそうで 繰り返し、繰り返す やめられないこの行為 心の均衡を図っているだけならば 見ない振りをしてくれても良くありませんか .....鮮紅    鮮紅 瘡蓋を剥がした無防備な踝(くるぶし)を 沸かしたばかりの湯船に浸ける 水面近く迄持ち上げて じっと見詰める艶やかな明色(あかいろ) 体温に似た熱い水に包まれて 傷口を覆う血が凝り固まる訳でもなく とはいえ、溢れ出る程でもない そんな塩梅の傷口というのは綺麗なもので 皮膚という脆く丈夫な物質が この光景を覆い隠しているかと思えば じわりじわりと切って剥がしたくなる気持ちも 一切湧かぬ、とは言えない けれど、それが自分をを傷付ける行為となるのは 何とも切ない気がするのです これはきっとある種の恋なのでしょう 人の身を傷付けずこの妙なる紅を 愛でる術が無いものかと想い耽りながら 傷口をそっと撫でておいた 酸化してもいけない 温度を失ってもいけない 殺めてしまえばこの色は死んでしまう 生きているからこその美しさが 生きていなければならないという制約を結ぶ 身体は傷が出来ればそれを塞ごうとするし かといって再生されないなら 傷口も腐って血は通わなくなる 通わないなら美しさも失せる そうして生きているという事にこそ 尊ぶべき力があるのだと思いが至る 美しい血は生きた血だ 生きた血に魅せられたが為に 私はまた塞がりそうな傷に爪を掛ける 皮膚を掻き破るじれったい痛みと 水の染みる恍惚とした痛みに 正常な思考は侵されきっているのかもしれない .....無題    無題 手負いの心を匿うように 作り笑いで誤魔化した上辺 傷口を抉るように 夜中に薄く血で塗らした爪 見ている場所が違うから 見えるものも違うから 私の望みを誰が叶えてくれなくとも 優しさは確かに其処にはあって 自覚の無い悪意も其処にはあって 狭間で擦り切れていく小さな感情 笑う事で疵だらけの心が隠せるならば 痛みまでは忘れてしまわないように 隠した分を背中に刻み付けながら 笑顔の裏で泣いていよう 悪意を悪意で返したら 優しさが死んでしまうから それなら悪意も抱き締めよう 優しさまで殺してしまわぬように 私の切り返す言の刃ひとつで 冷たい世界の些細に優しい日常を 刈り取る事のないように 疵を目に変え私は見よう 仮令、悪意に瞳が曇っても 刻んだ幾多の目があれば まだ優しさを信じる事が出来るから ....許せぬもの .....迷信    迷信 歪められた真実は嘘で塗り籠められて いつしか息をする事を諦めた 淀んだ水面のその奥底に 苦悶に溺れる妖がいる 祟れば矢の雨が降り 呪えば毒が注がれる 何故、この憐れな妖に怯えるか ツクリモノの恐怖の正体は 嘘吐き達が生み出したマガイモノ 怨む事すら禁じてなお この身をそう迄も畏れるものか 成程、確かに恐かろう 既に私はきみ達の手ずからに マガイモノへと成り果てた 自らの生んだ虚構の妖に怯え その実、自らの嘘の露呈に脅えている 私の存在そのものがきみ達の咎なのだ 偽りを認める真心なくば この身は死しても元の姿には戻れまい 迷うなかれ、信じるなかれと 訴えたところで救いなど在りはしない いっその事、誰ぞ私を召し捕らえて 生きた侭に化けの皮を剥いではくれまいか .....断罪論    断罪論 罪でもないもの共を 罪と呼ばわり悪と做す 利害を善悪に置き換えて 表裏を縫い閉じる身の勝手 罪を断とうというのなら 害悪の文字を真二つに 割り切れぬなら折り截つまで それは断じて罪ではなくて まして罰のある訳もなく 誰もが等しく正当で 誰もが等しく過つ惧れを抱くべき きみより罪を断ち切る筈が きみ諸共に穿つ為の罪と化す 断罪とは何なのだろう 名ばかり被った偽りの正体を晒せば 敵意の無垢なる侭の方が 余程に快きものを 善の面を被ったもの共よりも 愛を裏返した害意の方が好ましい .....不治の病    不治の病 治る訳などない 雛鳥の時に強請れなかった餌の味を 二度と知り得ぬ事くらい ちゃんと解っている 欲しいのは今ではない あの時に欲しかったのだ それ以外の何でもない あの時に得られなかったなら 今になって代わりは無い この病につける薬があるならば 忘れる為の眠り薬か痺れ薬か 目を背ける為の麻薬だけだ 治る病などない 残った傷痕を抱えて生きていくだけだ あの時欲しかった甘露を口に出来たとて 餓えに悶えた日々はその侭だ 記憶は変わりはしないのだ 血の止まった傷口に薬を塗っても手遅れだろう 涙の乾いた頬を拭うのはきみの自己満足でしかない 手遅れなのだ 記憶を害する毒だけが唯一の救いであるから 私に毒を盛った上で その餌を一口目に与えて欲しい それが悪であるならば 私を救えるのは断じて善などではない .....森の番人    森の番人 私の声は森に閉じ籠もる 森からは零れる事も無い 迷い込む旅人が聴いたとしても 意味など欠片も解りはしない それなのに、きみは何故に幻想を抱くのか 姿を見た事も無い私に 身勝手な夢ばかりを投影して 私の心は森の奥にあり 守るは猛き狼の群れ 愚かな旅人が許される事は無く 土に滴る紅き血潮も幾度目か 狼達よ、拒みなさい 二度と来る気も起こさぬように 吠え立てなさい 引き裂きなさい 月明かりも届かぬこの暗闇の ささやかな安らぎをどうか守って 狼達よ、拒みなさい 二度とその姿を見ぬように 吠え立てなさい 引き裂きなさい 私が抱いた愚かな望みも これで共に葬る事が出来るから .....★シルエット    シルエット 足許に見向きもしなかった、一昨日 夕暮れに影法師を連れた、昨日 傾く陽に伸びた影は 交わりながら宵闇の床に就く 他愛無い日常と思っていた 姿を落とし纏わる、濃く淡く 其処に在るのが当たり前だった 地を踏む足、見下ろし、目に映る 私と光を証明するシルエット 幾つもの灯りが交差した、今日 暗がりで独り希った、明日 翳した手も見えなければ 落ちる影など何処にも在りはしない 互いとは違(たが)えてこそ在れるのか すり抜ける風、零れる砂の音 紡いだ声も拾われないなら 血を踏む足、見向かず、微笑んだ 黒から紅へと侵されたシルエット 誰かの足許へ奪われた、私の影 きみの光が殺めた、私の影 ....愛について .....▽嘆願    嘆願 誰かの愛を壊しました 沢山、沢山、壊しました 破片を踏んだ足が痛いです 歩く度にじくじくと痛みます だから、これは夢ではありません 愛なんて要りません 私は壊してばかりです 愛なんて要りません どうせ、また落として割ってしまいます 今度、生まれてくる事があるのなら 愛を学んでから生まれてきます 壊さずきちんと受け取れるよう 愛の扱いを学んでから生まれてきます それまで愛には触れません もう、壊したくないのです こんな重たくて繊細なものに もう、怯えたくないのです .....自愛四部作 ......我    我 「きみをいつだって愛しています」 昔の私に囁き掛ける 未来の私の声は聞こえないけれど 今にも折れそうな頼りないきみ 今の私にならその弱さが解る だからいつでも抱き締めてあげたかった 「きみ」を愛せるのは私だけだと 「きみをいつだって愛しています」 未来の私の囁く声は 一度たりとも私の耳には届かない 解るでしょう 未来の私なんてとても不確かで 今の私がその気になれば 容易く殺してしまえるのだから 私を抱き締める腕などない それでも私はいつかの私を いついつ迄も抱き締め続ける 仮令きみに届かなくても 仮令きみが信じなくても きみは私を生かしておいてくれたのだから ......稚ききみ    稚ききみ 使い古された言葉で 正義を振り翳していたきみは 今頃はどんな言葉で 何を語っているのだろう 気付かない方が幸せだろうというのも 使い古された言い回しなのだろう きみにはそんな言葉ばかり 如何してだか似合ってしまう きみは何も教えて貰えなかったのだろう ありきたりな筋書きしか知らないで 純粋な結末を求めている それならきみが使う言葉がいつだって 使い古されてしまっている事にも頷けるのだ 気付かない方が幸せだなどとは 言わない方が幸せだろう そう思いながらきみを見守っている その事にいつかきみが気付いたら きみはとても傷付くだろうか ......疵名    疵名 届かない愛がある 幼い頃の私を見詰める 今の私からの愛が あの日の私はきっと今の私と同じように 未来の私からの愛に気付いていない こんなに愛しい私を如何して 殺める事が出来るだろう 私がいなくなったらあの子を 誰が愛してくれるのだろう どんなに寂しい時もずっと 未来の私なら 変わらず私を愛してくれる そう信じるのが生きるという事 未来の私よ どうか赦して下さい きみの愛が見えない私を そんな私を拠り所に生きる きみに手を差し出したい そうすれば私はいつの日か 本当の愛を見つけ出せるだろうから いつかの私を どうか赦して下さい 仮初めの愛できみに縋る私を きみが夢と呼んでいた未来に 私が用意出来たのは 幸せに満ちた花園ではなく 絶望の雨が淀む湖 やがてはもがき溺れる苦しみを きみに定めたこの私を 何も知らず信じてくれるきみが 何よりも愛しい(かなしい) ......錯覚    錯覚 弾かれて駆け出した 加速度的に遠くなる背中 手を伸ばした先には何もなくて 掴めない もうあの頃は戻って来ない 思えば嫌な事ばかりだった 良い事から先に忘れてしまったかのように 何かを憎む事を知らなかった分だけ 大人になってから何もかもを恨んだ 盲目に好きであったものに 嫌われていたと気付いた そんなのはよくある事なのに 如何してだか恨み言がやまない 駆けて行ってしまえ 何処か遠くへ もうあの頃は戻って来ないのだから 苦しみの種一粒さえ救えはしない 忘れるしか楽になる術が無いなら 惜しむようなものなんて何も無いと 昔日を見限る決意が欲しい 大事なものなど何も無いのだと 何もかも焼き捨てるだけの衝動が欲しい 無知で愚かな子供の私に 背中から刃を深く突き立てたい 嗚呼 私が狂おしい程に殺めたいのは 在りし日の幼い私だった .....不孝二部作 ......不幸者    不幸者 不幸者の子は不幸者 幸いを知らずに育った子は 幸いを教える親にはなれない けれど、知らぬ侭ならまだ幸せだろう 憎しみも知らずにいられるから 不孝者の子は不幸者 憎しみを抱いて育った子は 憎しみの背中を愛と信じて 裏返しの不幸を差し出し微笑む その歪さを終ぞ知らぬ侭 ......恋う者    恋う者 歪な愛に気付いた子は 本当の愛を遠くで只々、眺めながら 焦がれる侭に己が心を焼き滅ぼす 扱いを知らぬ無知な手が 誰かの真心を壊さぬように、と .....言祝ぎ    言祝ぎ まだ形も無い小さなきみを想う きみの目が私を映す迄 私は生きていられるだろうか 生まれてくるきみには 輝かしい未来がある そう信じているけれど 同じようにして生まれた私は 途方も無い孤独に浸っている きみの世界は温かい 笑顔と喜びに満ちていて きみが仮に泣いたとしても その涙を拭ってくれる優しい指がある まだ形も無い小さなきみを想う きみの幸せを約束するには 私は余りにも空疎で どんな祝福の言葉も浮かばない きみの幸せを願う為に 私はどれだけの幸せに触れれば良いのだろう 散らばる有象無象の想いに名前を付けて 糸を撚るように紡ぎ出し 織り上げたこの儚い布切れを きみの幸せに上掛ける事が出来たなら その時 私はきっと歓びを知るのだろう ....苦悩と諦念 .....▽涙海に沈む    涙海に沈む 涙の生まれる水源なんて 探さなければ良かった 溢れる程に、零れる程に 愛惜(いとお)しく満ちる哀情は 甘く痺れる副作用で 心を捕らえて離さない 人前で涙を見せるなかれと 見知らぬ声が常識を名乗る 幾度となく殺めた悲しみは 何をも震わせる事も無く 無意識の海へ沈んでいった 胸にきりりと張り詰めた糸を 弾いてみれば水面は揺れる 奏でる音色は雨垂れの如く 未練がましい反響を続ける 混ざり合う波の音 共鳴の中に息衝く本音 吐露は玉響にのみ浮かぶ影 凪ぐ事なく 滾々と湧いては荒れ狂う 遥か岸辺にも届かずに 戯るばかりの水槽ならば 葬るのにも似合いではないか 心の内に私を鎮め 無言の闇に私を沈める いとも静けき水葬かな .....悪夢    悪夢(ナイトメア) お帰り悪夢よ、私の許へ その温かな手で目隠しをして 現を見捨てる私の目に 二度と未来が映らないように 鮮やかな色が枯れ果てた 一面の荒れ野に垂れ込める霧 全ての音を鎮圧して 世界をひとつに塗り替えていく 何もかも同じ色ならば 夢に焦がれて溺れる苦しさも 生まれる事は無いだろう 己が背から伸びる影法師の深さに 怯えて逃げる事もなくなるだろう 瞼を開いている事も忘れるような 一縷の光も無い澄んだ闇を連れて お帰り悪夢よ、私の許へ .....▽失意の空    失意の空 夢を見た子供心のその侭に 只、何となく進み続けていた 振り向けば帰る場所など何処にもなく 中途半端に高いこの空に浮かんでいた 見下ろす大地は遠く 見上げる空は眩し過ぎた 昔話のようだと今更に思う 羽ばたく度に溶けゆく蝋の翼 これ以上は飛べない きっと落ちてしまうから 帰るしか道は無いと言われたとしても 故郷に辿り着く時間など 私には残されてはいない 諦めよう 何処かでゆっくり休もう そうしないと私の翼は無くなってしまう 足下に広がるのは見も知らぬ異郷の大地 仰いだ空には手の届きそうな雲と その合間から射るように降り注ぐ太陽の光 涙がひとつ 真っ逆さまに落ちていく こんな果てしない空に来てしまったのに 何故、今になってから 縋るものを欲しがってしまうのだろう ......夏の少女    夏 真夏の海を凍らせて 遠い対岸を目指す少女 胸に広がる雪原から 足先まで這い降りてくる 冷たい血が飛沫を氷に変える .....琥珀の檻    琥珀の檻 愛だと思った感情も 燃え尽きない侭に冴えていく 夢にもならない半端な憧憬 灰にもならない曖昧な跡形 そんな未練の塊ならば 余さず全て去り日の過ちとして 置き去りにしてしまおう 闇に抱かれた光のように 光に閉ざされた虚空のように 海の底の琥珀のように 琥珀の中の泡のように せめて、美しく朽ちゆく為に .....消えゆく足跡    消えゆく足跡 何かを残したいなんて 思っていた子供とはもう違う 砂に残る足跡は消えるものだと知っている 風は知らない 何処に誰の足跡があるかなんて そう、同じように 私達のいったい誰が 小さな蟲の足跡を知っているというの 目に見え散らばる足跡程 踏み荒らして虚しいものは無い 居なくなって尚その場所を 独占するのは誰の跡 波は知らない 何処に誰の足跡があるかなんて それならば 私が踏み出すその前に この場所を手付かずの砂に戻して欲しい 風も波も知らぬのだから 等しく誰の足跡も 容易く流し去る事が出来るでしょう 誰が知らずとも私は知っている だから、証など要らぬのです どうせ消える足跡なら 誰かに踏み躙られる前に浚われてしまえば好い .....▽名付け親    名付け親 涙が生まれたその時に 付ける名前は何ですか 嬉し涙でもなくて 悔し涙でもなくて 相応しい名前が辞書には無い 私はきみを何と呼んで 弔ってやれば良いのだろう 愛し哀しや 寂しや憎や 苦し狂おし 切なし恋し どんな言葉を手にしてみても どんな字面を掲げてみても どれもきみには似合わない まだ、きみを抱いていても良いですか 今の侭で弔ってしまったら きみはきっと私を祟るから 祟られるのが怖いという訳ではない きみを生んだのは紛れもなく私だから 意義すら与えられぬものを 徒に生み出した私であれば 祟られるには相応しい けれど、祟るきみはと問えば 生み落とされたその時から 己の意味すら存ぜぬ侭に 他人の想いの証にされて それはどうして余りにも 惨い事とは思いませんか 名付け親にもなれないなんて どうして余りにも私は頑是無いのでしょう ....終の想い .....虜    虜 湿った梅雨に吹く風のように 重たい胸の内を引き摺りながら 雨のようにそれを吐き出す事も無く 波打つ川面を渡り歩く 空高く舞い上がる夢など無い 私は只、この重みを守りたいだけ 誰に奪われるとも知らぬ 千変万化の営みから 目減らぬように懐の奥へ 飲み干しても喉をせり上がる 抗いさえも不思議と心地良い まだ私の中にそれが在る証 食い破る強さも無い可愛さが 私の眼に嬉し涙を誘う そんな優しい時がいつまでも 続けばきっと幸せだろう 続くからきっと幸せだろう いつか私の息が絶えるまで .....幸福論    幸福論 幸とはかくも脆きもの ひとつ足りねば辛であると 誰が教えてくれただろうか 幸福そうに微笑むきみよ その笑みは辛苦の上に立っているのか 満ち足りるが幸ならば 欠片足りずば辛ともなろう 心満ちたる様は実に危うい その重たき瓶(かめ)に亀裂はないか それとも、多少の欠けなら苦にもならぬか その微笑みに通る背骨を晒しておくれ きみの幸が確かな芯に貫かれているなら 染み出る蜜に手を伸ばすのも好い気がしている .....花燃えて    花燃えて 泥濘んだ胸に短い爪を立てて 綺麗な花を埋える穴を掘り進めた 肋の隙間に沈む指の腹で 燃える水を掻き回す 熔けた鉄に満たされて 紅は命を抱いている 灼けた水を汲み上げて 種子は春々しく萌ゆる 溺れた胸を乾かせて 根は豊かな水源を守っていた 誤てば花は水を枯らし 自らも果ててしまうとして 泉を愛す余りに水を汲めず 潤な泉を前に萎れる愚かな花ではあるな この胸に咲け この胸で咲け 宿る私を幾ら傷めようとも 美しくきみが咲くならば 不健全な泥濘みの芯も心も きみの為の土としてくれてやろう 濡れた指を引き抜けば鮮やかな水が 溢れ出す小さな穴の中 生まれたての蕾が、ほら .....★斬花    斬花 露の代わりに滴るのは 雨に濡れた砂埃 泥の中で育ちゆく じきに踏まれる路傍の花 この花弁を乗せていくのが 轍を抜ける時の風でも それに靡いて生きてきた 散り残る一輪の尊きものなれば その終(つい)の様こそ美しい 洒落て頭を垂れるなら 萼から全て断ち切って いっそ果敢と去り往こう この身の潰える侭に 薄汚れた塵としか映らないとしても その散り際よ 晴れやかにあれ ....結    アイデンティティ  これは誰の為でもない、私の為に綴った詩。 人は誰しも誰かと似ている。だから私の詩達もきっと、誰かの言葉や心と似ている。そんな事もあるだろう。 私は私の詩を綴る。私は私の心を描く。心は移り変わるもの。その積み重ねが人生。約束されているのは死。 生は死への足がかりでしかない。私は死ぬ為に生きている。生は死がなければ完成しない。どのように生きて、どのように死んだのか。それを記す為に私は綴る。怒りやもどかしさが荒れ狂い、諦めや愛しさが克明な影を投げ。羨望や憧憬が入り乱れる。心こそが私の在り処。私は心と共に生き、そして、心と共に死ぬ。 心が死に逝く様はきっと、生が満ち足りていればこそ、この上もなく美しい。 その最後の死の為に私は詩を綴って生きていく。総てはいつかひとつの大きな詩(うた)となるから、私は詩を綴り続ける事でたったひとつの死を描く。 道がなければ辿り着く事は出来ない。辿り着く先がなければ道は出来ない。比翼と連理の生きと死を、誰もが共に歩いていく。 生は私と手を繋ぎ、死は私の背で眠る。その温もりがこの上もなく愛おしいから、私は、私の生と死が美しくあるようにと筆を取る。 ...彩果ての夏    夏に生まれて 彩を乞ふ    この孤悲こそが 才の果て 明シ  浮世 薄暮 我欲 赤の社 揺らめく焔 狐 黄金の鈴 暗シ  現世 月影 リアリズム 黒の森 たゆたう蝶 狼 黄金の灯 淡シ  幽世 薄明 生死観 青の海 揺らぐ泡 鹿 黄金の碇 著シ  常世 陽光 哲学 白の野 漂う蛍 梟 黄金の穂 ....目次  歌集 ─ウタアツメ─     彩果ての夏 紺青 神帰月 遠瀬下り 桜の後に 綴葉 花響 空蝉 懐刀 無銘  夏よ  彩シ     溶けて、滲んで、柔らかな 雨薫る 深窓にて 秋葉錦 流転は風と 葬樹 冬は恋人  北国から 春待ち月夜 寒月の夜半 山鼠 色盗り  零れ夢 春雨に 桜下の椿 葉桜 梅雨戦線 幻翳礼讃 夢見鳥  四季葬送 ....歌集 -ウタアツメ-  彩果ての夏    春過ぎて 夏暮れ泥む 我が彩は        草木燃ゆれど 徒朽ちにけり    手折る紅葉を 秋の寄す処に     文と綴じれば 冬は常しへ はるすぎて なつくれなずむ わがさいは        くさきもゆれど ただくちにけり   たおるもみじを あきのよすがに   ふみととじれば ふゆはとこしへ  紺青   三日の月 これより満つる ものなれば        沙羅の萌しも 愛でたきものか みかのつき これよりみつる ものなれば        さらのきざしも めでたきものか  神帰月   虎落笛 土の籠目に 振る霜は        冷めて独りの 夢醒めやらず もがりぶえ つちのかごめに ふるしもは        さめてひとりの ゆめさめやらず  遠瀬下り   きみが為 越えしひとと瀬 連ぬれば        袖乾るまじき 孤悲の水際 きみがため こえしひととせ つらぬれば        そでふるまじき こひのみずぎわ  桜の後に   花冷えの 春の嵐の 後朝に        桜錦に 佇むきみへ はなびえの はるのあらしの きぬぎぬに        さくらにしきに たたずむきみへ  綴葉(てつよう)   独り樹の 緑芽吹かす 夢なくば        染めし言の葉 久に遺さん ひとりぎの みどりめぶかす ゆめなくば        そめしことのは ひさにのこさん  花響(はなゆら)   姿無き 風に心を 揺らすべく        我も花なれ きみも花なれ すがたなき かぜにこころを ゆらすべく        われもはななれ きみもはななれ  空蝉   如何にせむ 人とは斯くも 辛きもの        無常なる世に 愛でらるる身の   いと侘しきは 愛でられし故 いかにせむ ひととはかくも つらきもの        むじょうなるよに めでらるるみの   いとわびしきは めでられしゆえ  懐刀    此花の 咲くやこの世の 送り火に        鍛ふ形見を きみの守りに このはなの さくやこのよの おくりびに        きたふかたみを きみのまもりに  無銘   残り火は 伝ひて落ちる 迦具土の        絶えても堪えぬ 夢の迷ひ路 のこりびは つたひておちる かぐつちの        たえてもたえぬ ゆめのまよひじ ....★夏よ    夏よ 死にゆくだけの命に生まれ 冬に向かい生きている この世の寂しさを春に知り 散り損なって夏を迎えた 燃える緑は美しいけれど 私はそのような色を持たない 重なる樹々の枝葉に隠れ 密やかに息を潜めるだけの 花実にならぬ世捨人 浮世の風を厭いながら 土に戀して嘆くばかりの 蕾開かぬ世迷人 憂鬱な秋が来る 散りもせず染まりもせず 冬を待つしかない身には これより来たる秋などは 苦しみの季節に他ならない 春に生まれた事を悔いるなら 縋る先は冬以外の何処にある 夏よ 例えば秋を殺したら きみは冬に逢えるのか 例えば秋を殺したら 私はこのまま死ねるのか 秋に流す涙を知らず 私はこのまま死ねるのか ....彩シ -叙景詩- 秋  溶けて、滲んで、柔らかな  雨薫る  深窓にて  秋葉錦  崩落 冬  北国から  葬樹  冬は恋人  春待ち月夜  落椿  山鼠 春  色盗り  落花の夢  春雨に  桜下の椿 夏  葉桜  異郷より  梅雨戦線  灯下の紫陽花 無  夢見鳥 .....★溶けて、滲んで、柔らかな    溶けて、滲んで、柔らかな 鈍色の街を撫でる雨 慎ましい吐息のような静けさで 色を失くした空を溶かして滲む 暮れの赤より更けの黒 明けの白より晴れの青 水彩を重ねて移ろう空は この街のどんな塗料にも真似られぬ 淡さと濃ゆさの同居した彩り その鮮やかさを覆い隠して 空は街とひとつになろうとしている 然れど異なれば同にはなれず 硬質な塗料で彩られた街並みの上で 空の鈍はあくまで水彩のそれだった .....★雨薫る    雨薫る 金剛石を蒔いたように 白露の被さる路は眩い 秋雨の合間に照りつける 夏の名残の太陽 涼やかな風と高い空 積み乱れる雲の階 今は緑の躑躅の茂み 囀る濡れ雀の愛らしさ .....★深窓にて    深窓にて 温いビルの一室より 硝子を隔てて見る秋景(しゅうけい) 昼下がりに傾く影は夏の面影が去りにし証 曇るともつかずに空は白々薄れ 人工色の街からも乏しき鮮度を奪いゆく 見下ろせば街路樹達は陽射しを断たれた影の中 厚い雲が蓋をする冬の姿を想起せしめた あれらの光を奪っているのは ぬくぬくと欠伸を誘う温室のようなこの建物だ 上着の中で震え鳴く端末をつと撫でやれば 遠くの友が寄越して見せた唯一葉 囀りに添う写真を隔てた風景は 同じ季節でありながら ビルひとつ聳えぬ空を背に負うて 日輪も心地好さげに淡く輝る 染まり初めた紅葉の若さがいとも眩しくて 私は何も囀り返さず 星を弾いていつもの窓に背を向けた 古めかしくは白熱灯と天井扇(てんじょうせん) 淹れたての珈琲香る喫茶室 常連顔の苺タルトと 季節を謳うモンブラン 漂う秋の気配も深く午後は過ぐ .....★秋葉錦    秋葉錦 禾の実りを火と喩うなら ほつりほつりと並木に灯す 明(あか)き木の葉は秋の指先 銀杏のいと若々し青袴 その裾を染め替えながら 錦を織りて秋は更け 桜紅葉を侍らす楓 紅、真赭(まそほ)、丹(に)、山吹 秋葉の都は佳境と乱る 夕焼き煽る絢爛の日々 背負う影もが綾を織り成し 今を限りと燃えていた 樹々が擁(いだ)きし若人達も 秋手ずからの仕立てを受けて 衣に深みを重ねゆく 黄昏の坂で梢を離れ 逸早く風の供とし落ちた一片(ひとひら) 落ち葉時雨は傾(なだ)れるように 舞い散る者の後を追う 都を落ちて 少年期より永久の別れを告ぐ様を 常磐を譲らぬ伊吹ばかりが見詰めていた .....★流転は風と    流転は風と 黄金に映えたる尖塔の 放した窓より抜け往く風 晩鐘を鳴らすは逸る木枯らしか 塔より剥がれ小径に降りた 蝶の片翼は累(かさね)に累 冬の先駆けに輪郭を授け 秋の骸に折り重なるは 末期(まつご)を知らしむこれまた骸 豪奢の秋は寂寞の冬へ 久しからずに覇を譲る 華々と花より燃えた紅葉も 漫ろげに舞う今は落葉 ひらりひらりと戯れに 振り合う袖が奏でる離別 からりからりと徒に 風が踵で蹴り上げた 乾いた鈴を転がすような 美しく掠れた葉擦れの輪舞曲 崩落の塔より退く白帝を 冬空よりの客人(まれびと)達へ明け渡し 生ける骸も眠りと朽ちる 斜陽の下で枯れにし墓碑は 来世に集う標となろう 静けさを率いて来たる幼き冬よ 秋の廃墟がきみの国 築けど崩れ積み上げられる 残骸ばかり礎に 輪廻の辻を光芒は往く .....★葬樹    葬樹(そうじゅ) 常磐の樹が仮初めた涙花 ほろほろ 惑う冬蛍 冷たい季節の足音を追って はらはら 戯る雪風 冬ざれ深まる野辺に 糸杉の樹が揺れていた ほろほろと揺れていた 静かな景色の中で 糸杉の樹が泣いていた はらはらと泣いていた .....★冬は恋人    冬は恋人 著(しら)む空を薄目に見上げ 温まった毛布を掻き抱く幸せ 凛冽に夜を凍らせた漂泊者が 露を結んだ硝子窓を叩いている 冷えきった錠に手を伸べれば 待ち兼ねたと言わんばかり 淀んだ空気を払い除けて 舞い込んだ一陣の風 私の寝所に通い詰める 冷たい恋人 林檎色の頬をひたりと撫でた 氷のようなきみの手に甘えを囁く 招き、招き、うつらうつらと 持ち上げた毛布の隙間から 怠惰の気配を掃き散らそうと 滑り込むきみは甚く無防備で 触れた指先 捕らえた袖口 引き込む此方は夢の揺り籠 可惜夜(あたらよ)の眠りが施す優しさも 寝覚めに耽る温もりの 心蕩かす甘やかさには敵うまい 眠りを知らず夜を往く きみには尚の事だろう 我など忘れてしまえば好いと 唆す吐息は甘露か はたまた毒か じわり、素直に 熱に染まる素振りときたら 愛おしさもひとしおに 喉に匿った言葉を殺す まるでその身が在るかのように きみを確(しか)と胸に抱き 分かつ温もりが嬉しいと 火照りの引いた頬で笑えば 私を揺り起こす事も諦めて きみは静かになった .....★北国から    北国から 厚く雲を重ね着た山の麓 降り落ちる雪を踏み歩く冬の朝 暗(くろ)い海に立つ白波は無謀にも 節くれた岩壁に打ち寄せては 砕けて波の花を宙に舞い散らす 雪も波も風に運ばれ 空から山へ 沖から岸へ 西から東へ 流れていく 荒れる波飛沫の上で 悠々と鴎が漂っている 小鳥達のように山に籠もるでもなく 群れ遊ぶように波と戯れる様は 強かで自由であるように見えた 吹雪の中を行く鴉を初めて目にした時 何と寂しく凛としたものかと思えども 今となってはそれも羨ましいものに感じる 鴎にも鴉にも言える事には 彼らは寒さを恐れていないらしい 冬に挑むかのように翼を広げ 堂々たる姿を誇る鳥達に 地上で震える私達は 如何映っているだろうか .....★春待ち月夜    春待ち月夜 春待ち月夜 赤い灯がふわり 眠りを見守っている 春待ち月夜 夜明けは遠く 春もまた遠い 望む夜明けが来たる迄 その瞳は何を見る 暗闇に冷たい手を差し出して 明日の欠片をそっと包み込む 春待ち月夜 紅い命がはらり 雪の上に散って逝く 春待ち月夜 流れる温もりが 雪を解かして逝く 目前の春を閉ざすように 寒い夜の帳が下りる 柔らかな陽射しに恋をしながら 小さな柘榴は凍えてしまうのか 春待ち月夜 朱い頬がまた 仄白く染まって逝く 春待ち月夜 春を待つ雪を解かすものが どうか 熱い涙ではないように .....★寒月の夜半    寒月の夜半 ぽたり ぽとり 流れ滴る血潮の如く 路上に咲いた寒椿 砕けた玻璃のような散り姿 踏み拉くには忍びなく いずれ土に還る迄 落花繚乱する侭に .....★山鼠    山鼠 微睡みが連れて来る安らぎに 心ごと身体を預けるひと時は 冬の忘れ形見に寄り添うような 儚い幸せが身の内に芽生える 春一番が吹いた日から 幾つの暁を覚えただろう この包み込む漫ろな優しさとも 今年はもうお別れらしい 根雪に佇む樹の洞に懐(いだ)かれた山鼠達の心地とは このように穏やかであるのだろうか 無防備に丸くなる姿は愛らしい 温もりと、呼吸と、鼓動とが 削ぎ落とされて死の半ば それが冬の寒さに抗う術というから 如何にも堪らずいじらしい 小さなきみ達と同じような 安らぎの中で眠れたならば 夏を越えて 秋を尊び 冬を生き抜いて またこの春へと帰って来られる そんな気がしている .....★色盗り    色盗り 地に月咲きて天に花昇り 雲は波間に華やぎを囲う 色盗りの掠めし冬四季彩 隠し籠めたる間(あわい)の夜より 夢ぞ移りて春来にけらし .....★零れ夢    零れ夢 命萌ゆる誕生の季節の 先陣を切って開いた花は 芽吹く緑を覚えぬ侭 幼い土に抱き留められて 深く爛熟した眠りに就く 薫る風に残る梅の香 春麗を前に零れ落ちては 名残を惜しむ冬に寄り添いながら 先駆ける春を感じて身を引いた 移ろう場所へ落ちて往こう 風よ、私の手を取って 水辺へ優しく導いておくれ 遥か彼方の深山より 忍び流離う湧水ならば 私にとっては昔馴染みやもしれぬ 嗚呼、懐かしき 行方も知れぬ故郷よ 今宵、きみも春ですか 朧月夜の微笑みに 浮気な蝶が夢を渡る 肥やした蜜の膨らみは 誰の秘密を綴じた甘露か .....★春雨に    春雨に 初春にしとりと時雨降る 綻ぶ緋木瓜の淑やかな 濡れた薄桃の可憐さよ 伏した瞳が花咲くように 千重の睫毛を擡げては 彼岸を送る横顔の 日に日に頬染むくれなゐに 艶やかなるきみへと恋をした .....★桜下の椿    桜下の椿 私、山茶花、紅要黐(べにかなめもち) 春を終わりに燃えるもの 焚き火のような紅い生け垣 植え込みの灯と庭の花 今年も桜の頃が来る その咲き誇る無常の日々は 春の峠を現(うつ)すもの 手引きの風に心を揺らし 儚む様を愛づるもの 冬枯れの樹は葉など纏わず 花籠を梢で編んだ 常緑を背に色を誇らぬ 花一色の出で立ちは 風に未来を託したが為 きみを見上げてきみより早く 枝葉を負うた私は椿 慎ましさではきみに敵わず 艶やかさなら誰にも負けず 冬の終わりに臨んだ花を きみは見知らず生きるのだろう 私は散らず 私は落ちる 蕾のきみを愛でながら 先逝く友を追うように 空を覆う満開のきみが 老いた私を包んでくれる そんな季節に一歩届かず 夢諸共に 私は落ちた 熾き火に託す憧憬を 散る日のきみは知っている .....再生記    再生記 夜は褪せて有明は銀鼠空 花曇りの柔らかな霧雨を浴び 初々しく咲(わら)い始めた蕾の叢雲 神の社は林の奥座に黙しては 煌々と列を成したる提灯を 巫(かんなぎ)の如くに侍らせている 花に霞めば火影もいよいよ 異界の境を護る 夜の真中に浮かび上がっていた 未だ眠たげな白皙を 次第に開かせ紅潮させる 季節とは斯様に嬉しきものとかは知る 天蓋の如くに手を伸ばす 花の雫に枝垂るよう 想いを詰めて見ゆる先 雲居に紛う濡れ羽の鴉 胴吹きの新芽を啄む雀の悪戯 滲んで黒き木肌の上に散る白は えもいえずあはれなり 幻よりも美しく 新緑の入り乱れる光景こそがこの世の春 天を刺して佇んでいた枯れ木も 桜天蓋の後ろで瑞々しい葉を繁らせている .....+葉桜    葉桜 仰げば満天に見下ろす桜花の群れ 囲う花御堂に囚われた爛漫の夢 咲き誇るその顔(かんばせ)は 私の肩越しに大地を見詰めている 伏した眼差しの焦点は いずれ落ちる墓場に結ばれている 盛りの春を過ぎて 初夏へと向かう蒼穹の下 雨に落ち 風に散る 花は儚ければこそ愛でられる 美しきものの醜く朽ちぬように 綻びの痛ましさを繕うのも これまた務めであるとして 残る誉れを身の内より 萌葱の獣は喰い破る 積み重なる白磁の下で芽を育み 刷かれた紅の淡さを引き裂いた その指先は高く雲を掴むが如く 若さの残滓を掲げていた 雪を割るように 春が冬を弑したように 疎らな桜花の隙間を埋めて 若々しく伸びる桜葉は 俯く花の背を庇い 射抜く陽の光を浴びている やがて最後の花を失くしても 樹々は命を確かに謳っている 未だ僅か存(ながら)える儚さも 一期を彩るものに過ぎず 美しさの為に潔く散った輩(ともがら)を 見送り残った遅咲きのきみ達は 桜葉の抱擁に心を預け 夏めく季節に散って逝く .....異郷より    異郷より 彼方の河で生まれた砂は海を越え 異郷の春に霧となる 遠い山並みが霞んで消える 閉ざされた景色を見詰める窓越しは 褪せたセピアの写真のよう 雨よ、降れ 大地へとこの霧を裂いて 雨よ、降れ 鮮やかな世界を取り戻す為に 春の狭霧 露となり消えて逝け 若草を伝い今ひと度 土となれ そして、深く眠るが良い 蝕まれたその身を横たえ いつの日か清らかに 伸ばされた草の根に 寄り添えるようになる迄 .....★梅雨戦線    梅雨戦線 天が大地に布告した 雷の号砲 降伏の余地も挿し挟まず 襲いきたる無差別掃射 雲に隠れて狙いを定め 五月雨を放つ狙撃手達 大地は泥の飛沫を散らし 疵口に銃弾を呑み込んだ 破裂し拉げた雨粒は 銃創から溢れる血潮の如く 流れ出す侭に辺りを浸す 緑黄に熟した梅の実は 大地を庇って泣いていた ぱたた、と銃弾が降りかかり 弾けた雫が乱れ散る 色めく頬を伝って落ちた 華奢な光のその欠片を諸共に 撃ち抜く天を無心に見射る 眼差しだけが祈りとばかりに 庇った筈の大地に涙を滴らせ やはり一面の泥濘みの上で 梅の実は静かに泣いていた 日が暮れゆけども 雨の帳は上がらない 銃撃戦とは名ばかりに 果てなく続く耐久戦 見渡す限りの惨状にさえ 天は容赦をしなかった 抱え込んだ鬱屈を晴らすべく 精も根も尽きる迄 反撃の術を持たない大地が 深い夜雨(よさめ)に溺れていても 銃声を鳴りやませる情はない やがて夜が明ける頃 季節外れの薄(うす)ら氷(ひ)のような 水面硝子をしとしとと叩く音 疲れも果てた天の子らは 朝靄に慰められながら投降した 天は攻囲を解いて雲は退き 陽光が優しく大地を見舞う 青息吐息で横たわる 満身創痍のその身もきっと 明日にはすっかり疵口を 塞いでいるに違いない 休戦の報せを携えて 梅の実の眦を払う風一陣 最後に頬を転がり落ち はたりと大地に身を投げた雫 此方彼方を揺らした風の 通り道には青時雨 未だ終戦は遠くとも 束の間ながらこの日の空は 心曇らぬ五月晴れを描いていた 被害者、零 梅雨戦線異常無シ .....★幻翳礼讃    幻翳礼讃 雨の季節を過ぎた頃 夜は静かの園へと至る 小径に建ちたる一本灯 幻燈を林に充たすその根元には 紫陽花の叢が群れていた 拙き者は闇に紛るときみは知る 日向に咲くもまた然り 光に翳む巧みが如く 誉れと称して陰に咲(え)む 煙る雨の幽々たる世に あはれを教わる花なれば 無機なる灯の袂にて 風情を顕す道理もあろう 例えば、きみよ 燦々と煌めく真昼の碧落に 色を捧いだ紅単(くれないひとえ)の一輪草 天の青さに殉ずる為の華やぎで 果たして何処まで彼の花は その美しみを誇るのだろう 影の深みに沈める紅(あか)は 陽の下で喘ぐきみの淡(あお)さに等しい 限りなき無彩色に溺れる夜に 一握の彩度を掬う夢幻燈 通りすがりのいつもの小径は きみの微咲む楽園だった .....★夢見鳥    夢見鳥 蜜を吸って花から花へ 渡る鳥の往く先は夢路 秘密を知って空から空へ 囀る鳥の幻は遠く 雨に撃たれ散らした羽根は 虹の色を振る舞って消えた 風穴を抜ける冷たい吐息を 抱き締めたならまだ飛べる 太陽を隠した烏玉の月 白妙の焔を纏い地平を染める 満天の星が流れ去る前に 墜ちて往こう 世界の果てへ ....★四季葬送  四季葬送    花は水葬 青春の月      儚くも 霞晴れたる 梢より             彼岸に流る 舟を送らん    種実は土葬 朱夏の夕立      雲往きて 露と宿りし 天の子も          慕ぶ随に 黄泉の比良坂    草葉は火葬 白秋の鳥   常世まで 通ふ舞風 供として          降る灰を愛づ 花よ雨よと    樹々は風葬 玄冬の霜      身は朽ちて 御霊も散りぬ 寂し野を             後生と定む 影の静けさ ....未題    未題 秋に燃ゆ くれなゐこがねの落とし胤(だね) 75 栄えの錦も来たる静寂(しじま)が為に果て 775 朽ちては雪の枕となりぬ 77 賭する命の優しげな面影ばかり糧として 7575 冬に臥す ましろ降りたる燈幻郷 75 秋の形見は遠とし春の夢にのみ 775 廻る季節は一世(ひとよ)を隔て 77  過日の花は胸に蒔く唯一粒の種火なり 7575 春に醒む もえぎわかくさ野辺送り 75 去りにし 夏に啼く ....四元彩    四元彩 (明〜著までのカラーリングコンセプトを詩にする) これより暮れ染まる逢魔が刻の 赤は俗世 社に揺れる火 狐は鈴を鳴らして 黒は現世 森に遊ぶ蝶 狼は灯を掲げて 白は常世 野に漂う蛍 梟は穂を見下ろして 青は幽世 海に迷う泡 鹿は碇を ....透シ .....風景 ......★絵空事    絵空事 鈍色に汚れた空の下で 唇から零れる白い息がいっとう綺麗に見えた こんなに淀んだ空の向こうに 幾千の星が煌めいているなんて そんな真実こそが私には絵空事 皆、信じて見ているんだね 煙で汚してネオンで染めて 人の手に沈んだ空の中 どんな星座を数えているの 飛行機と高層ビルのライトを結んで どんな星座を数えているの 私は独り、白い息を吐いて 狭い空の下を駆け抜けた 細い路地裏の壁に凭れて 肩を弾ませペットボトルを呷る まるで深い井戸の底だよ 空の青さも知らない私には 井戸の外の広い海さえも 描く事の出来ない絵空事 ......極彩色の闇    極彩色の闇 明日という暗闇に 足を踏み出す午前零時 時計の針は煩いくらい 几帳面に私を急き立てる 白夜のダウンタウンを尻目に 深いビルの渓谷に潜む 冷たいアスファルトの川面に 泳ぐ魚のスクランブル 一日の始まりは真夜中で 光を喰らい終えた烏玉(ぬばたま)が 満ちた腹を抱えて眠りに就く 筈なのに お食事の時間をお忘れですか ゴーストライターの徘徊経路 闇の中に塗りたくったシナリオ 蛍光ペンキのとろとろとしたルージュは シャッターが上がる迄 薄ら笑いのピエロのメイク 早く喰らい尽くして 中途半端なデカダンスを 時計の針の隙間に挟んで 切り刻んでよタイム・ザ・リッパー 明るい夜の欠片を踏みつけて 渡り歩いて往くタイム・トリッパー ......カレイドスコープ    カレイドスコープ 違う空の下にいると 地続きの国の中で思う 生まれた時からいつだって 夜は明るいものだった きみの伝える星空を 私は写真でしか知らない 学生の時分に理科の便覧で見た 天体写真に近いのだろうか それとも私の上に広がる空と 然したる差も無いのだろうか きみは私の伝える夜空を知らない 沈まぬネオンを照り返し 曇っている程に空は明るい 便覧になどとても載らないだろう 写真に収めるべくもない 誰の興味も誘わぬ駄景 夕暮れに増える太陽 ビルから昇る旭 潮の満ち引きで淀む川 そんな私の当たり前を きみは何も知らない 海に落ちる夕日 煌く真夜中の風景 季節毎に涸れて姿を消す川 そんなきみの当たり前を 私は文字の上でしか知らない ......海底廻廊    海底廻廊 朝に干上がる 夕暮れは潮の満ち始める頃 入り組んだ入り江の底に とぷりと満ちてくる闇 満ちて満ちて 宵と共に泳ぎだす深海魚 発光器を翳し整列しながら行き交う群れ 大型回遊魚達を見送る私達は小魚 ......月、駆ける    月、駆ける 月が空を駆けてくる 私を追って駆けてくる 何処迄逃げても隠れても ビルの隙間を見上げれば いつでも私を見下ろしている 月が空で欠けていく 私を追って欠けていく 私が一日駆けたなら それだけ月も欠けていく 晦日(つごもり)過ぎれば月隠り(つきごもり) 月が疲れて身を隠し 今度は私が鬼になる 月がその目を覚ます迄 夜空で静かに隠れ鬼    月から隠れて水の中 さやけさ避けては屋根の下 たなびく雲の絶え間より 見たいと望むは隠れ鬼 水面を覗けば水鏡 屋根より仰げば天の河 煌めく闇の狭間をと 数え探すは隠れ鬼 .....体調 ......★インソムニア    インソムニア 夜という檻は何処迄も深い 傾いだ空を見上げながら 不完全な麻酔に頼っても 夢は向こうからやっては来なくて 足りない 私の瞼を閉ざすには、まだ 何もかもが生温い 磨耗した神経には 付ける薬もあるまいか きみは寂しいのだろうか 未練がましく私の目を覗き込む 如何しようもないきみに いつしか情が移っている きっと、眠れないのは きみが居る所為だ インソムニア ......★雨の前触れ    雨の前触れ 私の上に影を落として きみはどんより暗い顔 泣き出しそう 一.睫毛を濡らして 二.表面張力で踏み止まって 三.やっぱり零れた一滴(ひとしずく) 頬のラインを伝って きみの綺麗な頤(おとがい)迄 引かれた痕をなぞってみる 落ちそうで落ちない水滴は 意地っ張りなきみにそっくりで 指先で突(つつ)けばとても素直に 私の指の腹を滑り落ち 運命線に嵌り込んだ 本格的に降り出した雨 私の乾いた肌を打つ 爆撃された私の目尻から 耳の穴へと逃げていった滴 まるでこれじゃ 私も泣いたみたい ......★睦事    睦事 久方ぶりにきみが居る いつも思わぬ時に現れて 閉じた眦を優しく擽る きみは静けさを好むようだから 私は眠った素振りで委ねる くすぐったさに身動げば きみはそれだけで驚いて 慌てて指を滑らせた 眦から耳許へ 気配が髪に隠れて消えたのを感じ届けてから 濡れた睫毛を持ち上げる しとりと 潤わしい痕跡ばかりを残して去った 涙、涙よ、愛しいきみよ 引き止める事こそ叶わねど 逃げていく脱兎の如き指先すらも 如何しようもなく快いのだ .....概念 ......ユビキタスの影    ユビキタスの影 誰かと顔を合わせなくても いつも誰かが傍にいた 道を歩いている時 自分の部屋に居る時 朝起きてすぐでも 夜どんなに遅くても いつでも誰かを感じていられた 世界は広がる 顔も知らない誰かの存在で 小さな寝室は暖かな居間に変わり 独りの旅路にも話し相手は現れた 誰も私に言葉を発する事を強制しない 話をしたい時にしたいだけ 話せば誰かが聴いてくれて 返事はいつでも聴く事が出来た 物理と時間に距離の壁は最早無く あるとすれば言葉の壁と 相手の顔が見えない事 見も知らぬ誰かに想像の中で形を与え 私達は遍く影を身に纏う 私達に繋がろうという意志がある限り 狭義の孤独はもう存在しない 私が遍く影と対話をする時 私もまた誰かの遍く影となる 影に影として触れ合う限り 私達は新たな力を必要とはしない しかし、失われた孤独は時に妄想に転じ 仮初めの姿への思慕を生む 影を現実の隣人へと昇格させるならば 次元を越える術を手にした私達は 幻想の住人を限りなく正しく 透視する力を手にしなければならないだろう ......死の宿り    死の宿り 全ての道は死へと通ずる 軒の下にも 辻の先にも 轍の前にも 死は何処にでも棲んでいる 死の寵愛を受けた肉体は 主を失った家のように荒れ果てていく 壁は剥がれ 柱が腐り 床は落ちて 草木が覆う 主が消えても棲家が消える訳ではない 長い時間を経て土に還る迄 その姿は衆目に晒され続ける 全ての人の記憶から私が消えてしま迄 私という偶像は 緩やかな崩壊を続けなければならない 死は退廃の出発点でしかない 生まれ育った私という存在を 無へと返す為の唯一の装置 守護霊のように命の背後に付き従う ひどく単純なその概念は 憧れを託すには余りにも頼りない それでも、人は簡潔で美しい消滅を また、或いは永久的な個の存続を 死に投影する事をやめないのだろう ......凪    凪 愛も夢も死んでしまえば どれくらい、人は冷たくなれるのだろう 月も星も壊れてしまえば どれくらい、空は昏くなるのだろう 恋も嘘も知ってしまえば どれくらい、人は悟れるのだろう 風も泡も消えてしまえば どれくらい、海は静かになるのだろう 夏も冬も溶けてしまえば どれくらい、人は無色になれるのだろう 朝も夜も失くしてしまえば どれくらい、刻は止まるのだろう きみも私も忘れてしまえば どれくらい、人は優しくなれるのだろう 過去も未来も捨ててしまえば どれくらい、世界は泰らかになるのだろう そうして全てを殺ぎ落としたなら どれくらい、人は痛みを知らずに生きられるのだろう そうして全てが殺ぎ落とされたなら どれくらい、人は自在であるのだろう ......滔々    滔々 滔々と流れる河は 変わらず刻を湛え続ける 無骨な岩を投じたとて 水面を突き破った切っ先が 仮令、河底に食い込んだとて 舞い散る飛沫は魚(うお)のように流れへと還る 水面を離れた迷子の泡(あぶく)はシャボン玉 ふわり、ゆらり 空に焦がれて羽ばたいて ぱちり、ぷくり あっさりと弾けて消えていった 沈んだ岩は流れに磨られ つぶさに砥がれ いずれは真砂と混じるだろう どんな異物を孕んでも 河は全てを遠い海へと運び去る 何もかも等しく 藻屑と共に流れに乗せて 滔々と流れる河は そうして刻を湛え続ける 流れ着く海の事など 知らぬながらも泰然と ......黒の神話    黒の神話 世界の始まりは光でも混沌でもなく 其処には黒が横たわるだけだった 光が生まれて黒の名は影へと変わった 光と影は世界を混沌に塗り分けた そして、やがて光が勝った 黒であった事を忘れ海は碧く澄み渡り 大地は草木の中にとりどりの花を咲かせる 眩しい色が満ちた世界の狭間で 影は息を潜めた 深い藍が優しく染み通る 蒼褪めた月は太陽に焼かれ続けて 白く亡骸を晒している 遠い空に架けられた墓標のように きみの姿は懐かしい この夜は光が残してくれた慈悲なのか 或いは影が僅かに死守しているだけなのか それでもまだ世界に黒は残されている ......melancholic earth    melancholic earth もしも生まれては消えて 消えてはまた生まれゆく 感情達をひとつに繋いで それを「心」と呼ぶのなら 此処に生まれては消えて 消えてはまた生まれゆく 数多の生き物達の事も 地球の心と呼べるのでしょうか ある日、生まれた感情は 次第に心を蝕んでいった 七十億の感情が 体中を暴き立てていく 感情同士は争い合い 勢い余って胸迄も抉る それでも飽き足る素振りもなく 流した血に浸りながら 次の戦場を探している 七十億の感情は 掘り返した心に根を張って 何もかも吸い尽くしてしまう その足場さえも壊しながら この感情達と共に生きる絶望 彼らを育んでしまった優しさに 気付き傷付き途方に暮れる 涙さえも涸れ果てた眼差しで それでも彼らを見詰めてしまう この感情達が死に絶えたなら きみは絶望から解き放たれるでしょうか それでも骸ばかりの心を抱えて 何処迄も優しいその胸を 埋める感情をまた宿していく 己が心である為に ......謹賀誕葬    謹賀誕葬 きみが生まれてくる事は ずっと前から分かっていた きみが死んでいく事も ずっと前から分かっていた 三百六十四日が過ぎて きみの命は明日、終わる 遺品の整理はもう済んだ 後は刻を待つばかり 鐘の音が鳴り始めたら きみは私達に背を向けて 新たな命の芽生えを 見届ける事なく去ってしまう 鐘の音が鳴り終えたら 其処にきみの姿は無くて 私達の腕の中には 産声を上げる吾子がいる 三百六十五日が過ぎれば その子の命もまた終わる それでも最期迄ずっと 手を繋いで歩いて往く きみとそうしてきたように 苦難も数多かったけれど 安らかに眠れ、行く年よ そして、無邪気に笑っておくれ 未来と共に来る年よ .....物 ......物の語りに    物の語りに 人は語らず 物こそ語れ、物語 私を如何様にきみは語る 愚か者或いは憐れ者か それとも黙して語らぬか 語るにも足らぬと捨て置くか 人の噂なら聞きたくもないが 物の評するなら信じよう この世を如何様にきみは語る 人より生まれて人ならず それこそ物の定めならば やはり人より物を信じよう 人を愛する言は難しく 物を愛でるならまだ優しい 人を語らず 物をこそ語れ、物語 人より生まれて物になれず 物に語られるを望んだ 私は出来損ないの人 せめて物を生まんと願えど 人ならざる身に物は生めぬ あな愚かなりと あな憐れなりと どうか語っておくれ ......浮き草    浮き草 沼の底で泡を食んでいた水草が 根で絡めていた泥をやっと手放し 錨を捨てて漂いながら 道連れてしまった子らに囁く 私と共に啄まれてはくれまいか 膜を透かしてきょとりと瞬く小さな眼 無知な子らは流るる水の愛撫に惚けた侭 水鳥の舞う境界の向こうへ眼差しを投げた 否の選択肢を知らぬ者に向ける言葉は 問いにはならぬと知っていて 随分とまた卑怯ではないか ......自鳴琴    自鳴琴(オルゴール) とくん、とくんと歯車は回る 命の群れが奏でる自鳴琴は どんな音色で歴史を綴る 幾千年続く旋律の僅かな小節の中で 幾重もの和音に埋もれて消える 並列する七十億の針のたったひとつに 私は過ぎない 凛とひときわ響かせて 錆びて落ちるその刹那にも 鮮やかな火花を散らす そんな針に 私もなってみたかった .....書斎(仮)    未題 綴るものの綴じはせず 零れ落ちゆく紙片を攫い 彼方へと去る忘却の風 背で見送る 舞い乱れる様は風花 或いは鳥の羽ばたきか 風立つ原野に書斎を構え 萌ゆる若草の波に佇む 地平迄遥か拓けた景色の中で 不動の椅子に腰を据え 文房四宝を愛でつらい 活字の群れを机上に奔らす ....拾遺 .....鉄の命と鋼の心 ......★迦具土    迦具土(かぐつち) 五感の熾りは灼たかな熱 茹だる胎を炉に見立て 玉の鋼は蕩けて満ちる 焔の水より生まれるは これより冴える初心の鉄塊 強かにあれ しなやかにあれ 練磨の夢は火花の如し 未だ境なき己と他と 揺蕩う意識もまた朧 鼓動は鎚の拍より生じ 脆さは削がれ散り散りに やがて姿が定まれば 冷めゆく熱に幼き自我が花開く 最後に一度 母の胎へと戻されて きみの授かる無二の煌めき 波立つ真砂の衣を纏い 高らか父の名を謳う 炭の香りと熱の風 吹きて乱るる鍛冶場の闇は 一本踏鞴が抱えし坩堝 息吹を融かし命を鋳りつけ 唯一振りのきみをこの世に知らしむる ......★妖刀    妖刀(あやかしがたな) 私が秘めた言の刃を 解き放つなら誰に宛てよう きみ達が私の懐に鍛えたのは いずれ仇為す妖刀 熱く、美しい焔の泉より芽生え 相槌ひとつ 痛く、幾度も火花を咲かせる 冷たく、清らかな禊を繰り返し 相槌ふたつ、みっつ 硬く、硬く、頑なに 繰り返されたる錬りの日々 そうして一振りの形を得た 白木の鞘を産衣に纏い 楚々と座したる私とて 呪い心は鎮まらず 何が憑いたか妖刀 鞘より丁子の香りは失せて 溜まり溢るる血潮に痴れる 果たして私にいつの間に 何が憑いたか妖刀 逸る心も昂る歓喜も この鋭さを知っている 私は何を斬る為に生まれ 誰の為に研ぎ澄まされたのだろうか ......小夜    小夜(さや) 仄かに白き朴の木に きみの夜を託したい .....月に見る夢 ......★輝夜    輝夜 夜が月を抱いている 深い藍の懐で 朝と昼の目を盗み 満ち欠ける移ろいの尊さをあやす 弓弦のようにか細い繊月が 豊かに微笑みを咲かせる十五の夜迄 若月に齢を重ねて 花も盛りの望月に 戯る常世の白兎 清けき光に暴かれた 夜の色こそ愛に溢れて 照る侭に月影を振り蒔けば 生まれ出づるは稚き闇 射干玉の髪を譲ったのは 月が慕った母なる夜か ......☆雪月花    雪月花 降りて 落ちて 肩に甘える きみの美しい冷たさよ 繰り返し振り落とした罪 足元に蟠る 花天月地 照らすは花弁 咲くは月明かり 幽玄の迷い路は私の庭 秘め事を遊ばす鳥籠目 誰の儘も聞き届けず 花嵐を縫って訪れた 冬より遣わされしきみを 風に 空に 誰が帰そうか 土に咬まれ二度とは飛べぬなら 私の庭で眠れば好い 此処がきみの終の場所 絆したきみの綻びに 清らな蜜を与えよう 水鏡に閉じ籠めたこの罪は 天の河に溺れるよりも 深くきみを満たすだろう ......▽月の鳥    月の鳥 涙の落ちた跡を見ないように その鳥は彼方を見据え羽ばたき続けた 抜けるような蒼の下に広がる碧 浮かぶ雲と輝く波は星よりも眩しく 真昼の太陽は眼を焼くから 瞼を閉じた侭で風だけを感じていた これ程に明るい世界であっても ふくらな胸に抱えた哀しみは深色(みいろ) 息衝く度にまざまざと感じるその形を いつしか心の姿と思っていた やがて落暉が空に焔を蒔いて 夕暮れに燃える茜が光を鎮めた 眩しさから逃れ自由を得た視界の中で 鮮やかに交じり合う色彩と影に 名残を惜しみながら日輪は果てて 滲むように落とされた藍が全てを捕らえた 涙を散らしながら翔けるその鳥は 一条の星影に怯えてまた瞼を閉じた 幽けき数多の煌めきに 零した涙を重ねて鳴きながら 望月を慕っては三日月に乞うた どうかこの夜天を満たしてくれないか この世界から逃げてきた私を きみの広げた月桂の枝で覆って どうか匿ってやくれないか 微笑む月は齢を重ね 愚かな鳥を優しく抱き締めた 生まれて初めて翼を休めた鳥は 眠るように息を絶やそうとしていた 月は遥かな大地を見下ろして 腕に抱いた鳥に囁いた お前の落とした涙の跡で 太陽を浴びて草は芽吹き 星明かりを受けて花も咲いている お前の捨ててきた道は美しい これよりは欠けるばかりの私の腕の中で 共に遠き闇へと紛れて消えるか あの草花を枕に土へ還るか どちらがお前の幸せだろうか 鳥はその言葉を耳に最期に泣いた 鳴き声も洩らさず涙を流した 頬に伝った雫を月へと押しつけて 芽吹いた愛も 咲いた恋も きみの墓へと捧げさせて欲しい、と 黒い瞳に揺れる水面一面に 何よりも美しく月明かりを宿して泣いた ......水鏡    水鏡 澄みやかに渡る泉を照らし 月は天に昇りけり 明し糸を著に染め 暗を淡へと塗り潰す 雲が 唯、雲だけが世界を変えて 御簾の向こうに雲隠れ 姿を晦まし空を拓いて 風が顔(かんばせ)拝まんと雲を払いて 然れども不可思議 隠れども尚も明るい空の〜 只に晴れにし次の折には 何処(いずこ)に失せたか「から」の空 雲を透かして月影は 銀(しろがね)の身から金(こがね)の光を あれ程迄も振り蒔いていたというのに 輝く空を映した水鏡 雲に曇りて明けた後 光の源を失った天下に潤む 白々と、赤々と 雲に隠れて天下り 映り込んだ水面に居を移し 常世から浮世に咲いた月は 鏡に映る花と等しく この手の届かぬ幻なりと .....狼達の深き森 ......★Memento Mori 第一節    Memento Mori 私達は森を畏れて生きる 月の獣は常磐樹の狭間 人々の群(むら)を狩場と定め 森より出でて 森へと帰る 暗緑の夜を棲み処とし 艶やかな闇を身に纏う 星々を縫い響き渡る遠吠えを 紡ぎ奏でる詩(うた)謡い 深き森の奥底から命の果てを音にして 見も知らぬ彼方のきみ迄運ぼう 生きとし生ける群人達は誰も皆 終(つい)への旅路からは逃れ得ず 遅かれ早かれ見初められて冥府へ渡る 花は紅 咲くは弔い 此方と彼方の境を標す彼岸花 手折る一輪を餞(はなむけ)に灯せば 森を愛さぬきみ達も 迷わず遠く迄往けるだろう 月は陽光を集めて虚を満たし 獣もまた月影を蒐めて本性を満たす 混沌の薄暮に地平を破り 薄明の静謐に鎮む衝動 琥珀と薄氷の双眸に 異なる熱を飼い慣らして 眼差しは誰かの焔を見据えている 森の縁に佇む獣 その牙は研いだ三日月 琥珀の煌めきに満ちし夜の光を囚えながら 薄氷の裏側にいつかの有明を凍らせて 絶え逝く月の再生を待っていた ......ベリー    ベリー ぽつり、ぽつりと滴った ベリーの実を摘み暗緑の奥へ 獣の足跡に咲いた花は疾うに散り 甘酸っぱさだけを置き去った 森へ帰る獣が負ったのは 知らず春に孕んだ恋心 輝きの初夏と渇きの晩夏を越えて 月に誘われ瑞々しく実った 心の蔵をミニチュアにしたような 指を押し返す若い果肉の柔らかさ 陽光届かぬ森の深み 染み出た月影を濾過した土壌 光から温もりだけを摘出して 純化した美しさの蜜を凝縮する 夜のフィルターで製油した月の雫 霧に溶かして朽ち葉の土に渡らせよう 甘い、甘い 紅い、紅い 蠱惑な彩のベリーが実るだろう ベルベットの緑に埋もれて 咲いた花はいずれ実を滴らせる ......ホワイダニットの不在    ホワイダニットの不在 誰かが初めから決めていた 冬には雪が降るように 互い違(たが)えて自我を咲かす光と影のよう 相対し相反するよう出来ている 冷やせ、凍らせ、底冷えに 揺らぐ水面のような躊躇いは要らぬ しんと音まで殺す真冬の心で 儚い筈の雪で きみを屠ろう 何の為に降る雪であったか 寒さが命を奪うのは目的ではなく しかし、今となっては動機も無く 舞台装置の鎌としての雪風 深々と、深々と 背骨から沁み透る冷たさを 誰かが愛憎などと名付けてしまった 人が凍えて死ぬ事も 理由がある訳ではないのだと 全ての死因に殺意がある筈もない事を いつしか誰も忘れてしまっている ......人狼論    人狼論 汝は人狼なりや 自覚、己を悟る事 他者程適した観測位置はなけれども 砂の数程もいる類似の生体から 唯一つを見定めてくれる者がいようか 科学や魔術は過程を飛ばし 理解を省いて真理だけを拾う 汝は人狼なり 汝は人狼に非ず いずれにしても 汝は人なり 人の姿と心を持つならば それを殺すは人殺し 獣が人を殺めるのとは違う 賢しく利害に基づくそれは 殺意ではなく生存理論 殺意程も純ではないし 憎悪程も粋ではない 打算をするのは目的の為 見据えるものがある行為を 責める事は筋違いである 己の利害だけで打ち滅ぼすが道理なり .....古き戦世 ......戦ヶ原    戦ヶ原 色づく紅葉が 川の錦を織るように 墜ち往く家の名を 敷いた先にある天下 分けし血すら露と消ゆ この代で何を頼るべき 草の嘆きも落日の憂いも 等しく湛える空よ 眼をとくと開け 紅蓮が飲み干す夕闇は 我が故郷の面影 耳をとくと澄ませ 轟く鬨の声は 我が同胞の断末魔 神去りし葦原は燃ゆる 煙は雲へと変わりて 狭霧の立ち込める朝 幕引きの戦禍が吼える ......英雄    英雄 ひりつく殺意を如何にか殺して前を向く 磨り減る心の底にまた視線が突き刺さる 憧れなどで縋らないで たかが少しの才があったところで この手は何も繋ぎ止められない あと幾つ見放せば終わりが見えるのだろうか 錆び始めた衝動が朽ち果てる前に 熱に濡れた侭の姿で べたつく悪夢に幕を引きたい この表舞台は眩しい紅 誰もが憧れ賛美はすれど 誰も同じ舞台の上には 決して上がってはくれなかった 何の希望も無いこの世界に ひとつだけ願いと呼べるものがある この手が、この足が、この心臓が 動かなくなるその瞬間には 只の取るに足らない命でありたい .....魔法使いの街 電子の空 携帯電話とメール 魔女の図書館 ノートパソコントインターネット きみの魔道書 スマホと電子書籍 ......電子の空    電子の空 鳩が飛ぶ 手紙を持たせて宙に放てば もうその姿は主の目にも映らない 雨粒の間をくぐり抜けて 硝子の窓をすり抜けて 瞬く間に誰かの懐に滑り込む 都会に程鳩は沢山居るらしい 電線の張り巡らされた空を 目まぐるしく飛び回っているらしい ほら、今も私のポケットに 鳩が一羽潜り込んできた 私に気付いて貰おうと 三和音でスカボロー・フェアを歌っている ......上書き保存    上書き保存 記憶のファイルに『Ctrl』+『S』 間違えた箇所は削除して 正しい文章で蓋をする 新しく書き加え 読み直して 幾らか刮ぐ その度に何度も『Ctrl』+『S』 時が進む毎に削除する量が増えていく 今ではもう書き始めの頃の面影は無く 良いように、好いように、と装飾される物語 日記も手帳もいつの間にやら 創作ノートになっていた もう、何処から何処迄が 本当の事だか判りやしない 思い出話は嘘で語られた御伽噺 すらすら語る私の口は 断片的な事実を都合良く統合(マージ)し変換する翻訳機(コンバータ) ......ERROR    ERROR きみは「愛シテル」という記号を私に投げ掛けた 私はその記号を処理した きみは「哀シイ」という記号を私に投げ掛けた 私はその記号をまた処理した きみはそんな私の事を「冷タイ」と募るけれど 記号で全てが伝わると思っているきみの事が 私はとても怠慢だと思う 絡み合った糸のように些細な心の表情は とても単一の記号の中に詰め込めるようなものではない 定義も過程も見えない結論だけを 一体どうして他人が理解出来ると信じているのか 吐き出す、ERROR 私は「愛シテナイ」という記号できみに返事をした きみはその記号を処理しなかった 私の「愛シテナイ」は不正な応答だと言う 私を「冷タイ」と罵るきみだけど 記号を投げて応答を要求しておきながら 他人の記号は受理しないきみの事が 私はとても傲慢だと思う 嘲笑う、ERROR 愛だなんて記号を免罪符に喚くきみ それは断じて愛などではない 独り善がりの妄想ならせめて恋が関の山 それは断じて愛などではない 求める解が得られぬのは そもそも道理に外れているからだというのに ...微咲みの冬 ....嘘吐きのバラッド    怪物達のバラッド 何処から此処までやって来たのか 刃に等しい言の葉を握り締めて 傷だらけの手を開くやり方も 忘れてしまったかのようなきみ 誰かの夢を儚んで 誰かの言を信じる そんな人々であるなら 誰かの憂いを優しんで 誰かの口を吐いた虚を 誰かが嘘と嘲笑う 望みを告げたところで 打ち捨てられるだけの心だった 切に真を振り翳しても 所詮は何も得られないならば 痛く、哀しく、苦しいだけの 誠実に何の価値があるだろう 真で守れぬ心があると知った日から 私は嘘を友とし生きている 嘘の裏には確かに望みがある どうしても欲しかったものを どうしても手にしたかったから 嘘ならば切り捨てられたとしても 真を踏み躙られるよりは痛くない 裏切りだと他人が罵ったとして 私の真はとうの昔に裏切られているのだ 言葉は望みを映すもの 真も嘘も優劣はない きみが私の真を許さぬならば きみに私の嘘を責める道理はない ここから先は互いに望みを奪い合うだけ 美しいだけの悪徳を 美徳に塗り替える人々を ほらご覧 人の言を信じたあの人も 人の憂いを優しんだあの人も 皆疾うに怪物であったのだ かつてのきみだけが人だっただけで ....私を洋墨に、きみを紙片に ....★精霊の苑    精霊の苑(しょうれいのその) 忘却の淵に降る流星 空から欠け落ちた塵芥 集めればそれはいつかの記憶 喪失の渓に湧き出す泉 底に葬られた古屍 かつての姿を留めた知る辺(しるべ) 儚き寄す処(よすが)に棲まう者 郷愁(ノスタルジア)の鐘を手に 思考の荒野に種を蒔く 朽ちる迄に花咲けと 憧れを巡る季節に刻むが如く 土を耕し水を引き 忘却と喪失の畑を耕して ....嘆きの谷    嘆きの谷 夢を見ていたのだろうと 近くて遠い記憶に想いを馳せる 戻れない 戻る事は許されない 戻る事を許さない 誰が 皆が 時間が 誰より、私が 欠けていた事に気付いた時 埋められない過去は 険しい断崖の如く拒絶を示す 吹き降ろす風の声はきっと 怨み辛みを醜く吟い上げる悪鬼のように 低く永く谷に木霊して 清らかな水のせせらぎを掻き消してしまう 吟うならば、吟え、吟え、吟え 何年でも そうすれば、あの崖も風化して せせらぎも砂に埋もれて消えるから 全ては夢で、痛みも幻 優しい雨も愛しい空も 全ては夢で、悼みも幻 寂れた谷の残骸だけが打ち捨てられて 荒野はまたひとつ夢を弔う どうか、もう触れないで きみが伸ばした手に濡れただけで 私は葬った醜さを露呈する 未練に追い縋る姿はまるで 死に損なった廃墟のようで ....流雲    流雲 吟う風よ 運んで下さい 雷を侍らす暗雲は 足下に影を落としながらも その影を裂いて探している 響いて遠雷 照らして雷光 荒ぶ雨を貫いて 駆けて抜けるは幾千里 地平の果てまで そのまた果てまで 風よ きみの調べを標に変えて どうか、雨雲を運んで下さい いつか朽ちた廃墟の谷に 光と雨が降り注ぐ迄 ....▽砂の涙    砂の涙 ほら見て、砂が泣いている 雨上がりの泥濘む足跡で 涙ぐんだ脆い砂は 泥に瞳を曇らせながら 綺麗な青空と虹を映している 何も語らず、きゅっと唇を結んで 渇いた砂は水を呑み込むけれど 注げば注ぐ程に受け入れるけれど 決して、それを湛え続ける事は出来ない 渇ききった砂の隙間を 抉じ開けて居場所を求める水は 悪意の無い摂理で侵していく 浸み尽くすように諸手を広げて 雲ならば どれだけ雨粒を持て余そうとも いつ何処にでも手放せる 然れども砂は呑み込む事も 手放す事も出来はしない 過ぎ去る雲を恨めしげに見送って 溺れた砂は淀んだ色で空に乞う 身を引き裂き揺蕩う水を 容赦の無い光で渇かせて欲しいと 草木芽吹かぬ不毛の地には 雨は恵みではなく責め苦のようで 誰もがそれを善意のように思っていても 悪意ではないと解っていても むしろ、善意である程に苦しいと そう思う事がそれより更に苦しいと 誰かがいつか言っていた ....▽泡唄    泡唄 都会の空は海のように深い 大地の呼吸を塞ぐが如く 塗り固められたアスファルト その上に聳える峻厳な海嶺を 私は海底に生まれ落ちた 肺を持たない深海魚 他人はこの海を陸だと言い 有り余る空気を声にして笑った 泡が空へ零れ上がっていく 泡が空へ零れ上がっていく 私の口から吐き出されて 掴もうと伸ばした指先を 嘲笑うようにすり抜けていった 水で膨れた腹を抱えて ほんの僅かな酸素を選り分ける そうして集めた泡の粒は 私が 私が「待って」と言う暇も無く するり、喉から逃げ出して 儚く空へと遠ざかっていく どれだけ泡で膨らませようとも 胸を塞ぐ生き苦しさは去りはしない 叫んでも、叫んでも、叫んでも 私の声は音にはならず 喉を滑り落ちる水の流れに逆らって 泡だけが檻から解き放たれる 水圧に溺れた魚は今も海の底 苦しさに喘ぎながら泡を紡ぐ 音も光も無い深い海から 立ち上る泡をもし見付けたなら 触れないで、壊さないで、見送って それは空に焦がれた恋の唄 空に届かぬ愛の唄 ....楽園追放    楽園追放 私の無意識が きっと望んでいたのだろう 光も知らない胎動の中で 赤い糸を首に架けて眠った侭 心の音が止まるのを待っていた 誰がこの壁を切り裂いたのか 安らぎの闇を抉じ開ける現 無慈悲な手が私を引き摺り出す 生まれ落ちたこの世は奈落 天への糸は断ち切られた 縊り損ねた喉の奥迄 冷たい空気を捻じ込まれて 溺れながら私は鳴いた 要らなかったのだ きっと光も空気も何もかも だから、こんなに苦しいのだろう 只、生きているだけなのに 只、生きているだけだから もう手遅れなのだ 初めから私には何も要らなかった 望むならもう一度 光も届かない胎動の中で 引き千切られた赤い糸を首に飾って 心の音が止まる迄 眠っていたい ....番無き母鳥    番無き母鳥 孵っておいで 十二の頃に失くした心 私は酷い主人でした きみを落としたと気付いた時も 探しに行く事をしませんでした 思えば取り戻すのが怖かったのです 些細な事で幸せになれる子供でも もう後に望みは無いと悟っていたのです それならそれで 私はきちんときみを葬るべきでした だから、きみは今でも迷子で 記憶の路地裏から私を呼ぶのです ひとつも変わらぬ景色に紛れて 少しずつ風化しながらも まだ形を留めるきみ 名前は「恋」といったでしょうか 何にせよ懐かしいものです きみを失くして以来の私は 正しい恋を知りません 二十に至る思春期をきみ不在で過ごした私は やはり、十二の恋しか知らぬのです だから、今 何度もきみに呼び掛けるのです 孵っておいで もう一度 私の胸の中に孵っておいでと ....墓場から揺り籠へ    墓場から揺り籠へ 太陽の香りを胸いっぱいに吸い込んだ寝床 柔らかく腕を満たす羽根布団 昨日から今日へ生まれ落ちた私は 欠伸じみた産声を上げる 私が這い出すこの子宮は 今日という営みを終わらせた時 還るべき棺へとその意義を変える もし、墓場より生まれる事が出来たなら 私が行き着く先は揺り籠だろう 冷たく朽ちた小さな箱庭から這い出た者が 血潮の脈打つ温かな胎に 無邪気に身を預ける事も出来るのだろうか ....★伽藍堂    伽藍堂 ねえ、歌ってよ 絶望を 甘い声で言い聞かせるように ねえ、教えてよ 現実が 色褪せて消える有様を 何処にも無かったのだ 夢や希望が入り込む隙間など この胸は伽藍の堂 光ひとつ届かない 風ひとつ通らない ねえ、灯してよ 幻想を 深い翳を探り当てるように ねえ、聴かせてよ 思い出が 自壊して砂に帰す音を 何処にも無かったのだ きみや私が求めた静寂(しじま)など この胸は虚の在り処 自我(エゴ)ひとつ生まれない 無意識(エス)ひとつ愛せない 未練と共に手折ってきた 姫空木の枝を片手に抱き その儚い白を慰めにする 鈴生りに連なる花の翼では 何処(いずこ)の天も翔べないけれど だからこそ私の伽藍の堂には 何よりもよく似合うのだろう ....★あいして    あいして 隘して きみしか見えないくらい 私の視界を塞いでくれたなら きっと泣かずにいられるから 曖して 表情も判らぬくらい 私の視界を霞めてくれたなら きっと笑っていられるから 哀して 涙も涸れるくらい 私の心を融かしてくれたなら きっと諦められるから 愛して 泣いてしまうから 愛して 笑っていられないから 愛して 諦められないから ....▽遺書    遺書 忘れてしまえば良いよ どんなやり方でも良い 土に埋めたって良い 色んなものを掘り返して 見えないように埋め立てて 最後に綺麗な花を飾ろう 忘れてしまえば良いよ 火にくべたって良い 炎が盛るのも束の間 骨と灰を残して 焦げた匂いを風に乗せて 明日には消えていくから 忘れてしまえば良いよ どんなやり方でも良い 忘れてしまえば良いよ 忘れるのはきみだから 川に流したって良い 海に沈めたって良い 鳥に喰ませたって良い 空に撒いたって良い 忘れてしまえば良いよ どんなやり方でも良い 忘れても、もう平気だから 私はもう居ないから ....屍と棺    屍と棺 腕に零れんばかりの花束を抱いて こちらへおいでと招くきみに 私の名前と今日という日付を捧げよう これで永久の契りは結ばれた しっとりとした土の雨が 私を抱くきみの背へと降り掛かる 肩越しの月は微笑んでいた 優しい薄明かりが見守る夜更け 白無垢に包まれた私の現身(うつしみ)が まろくあえかな骨となる迄 私はきみの胸を枕にして 枯れ逝く花の香りと共に眠りに就く ....★天涯の孤独    天涯の孤独 冥府に咲く曼珠沙華(リコリス)の花が 月明かりに匂うこの世の秋 蛍火を集めた洋灯(ランプ)を片手に 流離うきみは彼岸の渡し部 柘榴を食した事もなければ 冬の招きを受けた事もない 眠りに就くべきこの庭園で 眠れぬ侭に眠りを慰む幽囚 美しきものを他には知らず 悠遠を守る為に育てた花で 愛を編むような可哀い少年 いずれ辿り着く筈の楽園は 古き者を置き去る精霊の苑(しょうれいのその) 死して訪(おとな)う場所に居を求め 生きながら隠れ籠んだ落人 過ぎし日を葬ったこの庭を 過ぎ往く人は墓場と呼んだ 冷涼たる大地の御手が抱く 白磁の月を砕いた如き朽骨 渇いた土に紅を点すように 捧げた花冠もいつかは枯れ 忘れられゆくはきみばかり ....玉響    玉響 思考という束縛を生まれながらに持ち 些細な言葉を温もりと錯覚する 掬っては零れる水のように 掴んでは融ける雪のように 全ては玉響の夢物語 そんな小さな鎖を繋ぎ止めて 編まれる営みが人生ならば 細切れの欠片ばかりを集めても 何も得られはしないのでしょうか 永久を咲くより只、盛りの花でありたい 散れぬ実の老いゆく摂理を疎んでも 梳けども逃れる風のように 捕らえども果てる鳥のように 何ひとつとして儘ならない 人生は 人を信じるには長く 孤独に浸るには短い だから、心を許せぬこの私は 孤独を愛する時間が欲しい 闇を愛するには夜は長く 夢から醒めるには夜明けは短い 人を愛するには一生は長く 全てを捧げるには命は短い ....闇溜まり    闇溜まり 此処で一番暗い場所へ 此処で一番深い場所へ 誰の目も昏むこの場所は これより浅いどんな暗がりも 見通す夜の目を養ってくれる 何より深い闇溜まりで 全てを見通す賢者となろう 梟に教えを乞い 黄金の瞳を譲り受け 黒猫からは〜の耳を授かった 蛇からは息の殺し方を 樹々からは風への靡き方と不動の立ち方を教わった 明し世から来た私のような者であっても 暗し世の懐に匿ってくれる 優しき森に蕩揺う蝶は 墨のような蜜を探すのだろうか 私も蝶に 暗闇を渡るあの蝶に 与うる蜜を差し出そう 光ではなく甘き香りで きみを誘う標となろう 光は万物の彩で輝く 闇は光の隣で深さを増し 一層に美しく輝くのだ ....漂泊の心    漂泊の心 凍えた海に流したボトルは 氷の狭間で震えながら 岸辺の招きを待っていた 吹雪に棚引く希望を纏い 懐に心を温める旅人は 眠りに足を引かれぬように 誰も知らない唄を紡ぐ 自らに聴かせる為だけに 膝を折り雪の中に埋(うず)もれ その侭、果てられたなら 安らぎがこの身から温もりをそっと 一枚ずつ剥がしてくれるだろう 吹き晒しになった心を 風が抱いて連れ去ってくれるのか それともこの侭、根雪の中で朽ちるのか 今頃あのボトルは 何処の波間を漂っているのだろう 誰かの手に掬い上げられたなら 融け出して溢れるメッセージ 寒さの中でしか形を保てない 私が作ったメッセージボトル きみの手を濡らして融けた 私の心の殻の残骸 ....▽墓場の“e”に寄せて    墓場の“e”に寄せて 疵を眼にして世界を観る 疵の奥から世界を紐解く 薄氷を隔てて死の上に立ちながら 冷たいその手が書き綴る心は 絶望に浸った深い哀を湛えている 雪が彩る岸辺に手を伸ばす事も 薄氷を踏み抜く事もしない 唯独り、見詰め続ける 凍えそうな疵口が閉じぬように 育み、温め、愛おしみ、灯火を繋ぐ 透かした水底にきみの真理はあったのか 手を伸ばせばその薄い壁を超えられるのに きみはそれを許さなかった それは、死にすら絶望したという きみの答えだったのか それとも、死すらも許されないという 己への絶望だったのか 常冬の世界できみは綴り続けた 絶望に満ち満ちた心の杯を掲げた侭 ....▽蒼褪めた原野    蒼褪めた原野 胸の奥から削りだされた氷塊は 熱い鼓動に絆され涙となるも その熱もやがて失せた頃には 成り損ないの涙は冷たい雪へと変わり 氷を孕んだ原野に深々と降り積もる この雪原は心の大地 凍てつく雪は原野に眠る氷を育み 最早、氷は喉を通る事も出来ない程に 大きく、重たく、土の中に根を下ろしていた 仮に胸を開いて取り出す事が出来たなら いったい、どれ程の質量になるのだろう 幾年もの月日を費やし 緩やかに肥大する失望 その狭間で心臓が脈打ち軋む度に 痛みは大地を震わせる筈なのに 冷えきった胸はもう何も感じない どんな希望を呑み込んでみても 雪原に落ちた灯火は蛍のように 小さな痕跡だけを遺して息絶える 此処にはきみが燃える為の 空気も塵もありはしない 蒼を蕩かす白妙の光を黙(しじま)に焦がれ 慰めに雪へと伸べる指先も また心の如く蒼褪めながら 断じて、焔を求めてなどはいなかった ....★水葬    水葬 心は海であるけれど 心の底は田畑である 海に落ちたあらゆるものは 沈み散り散りに底へと降る それらを糧に想いは咲いて 季節を過ぎれば朽ちて亡くなる 地中に還る忘れ路は 心の黄泉路に似たるもの 千々に咲いては乱れる花に送られて 荒れに狂った激情すらも 果てには鎮まる事だろう ....★雪融け    雪融け 雪が降る 言葉が降る 窓はもう開かない 私の家は銀世界の水底 途方も無い声に溺れて 私は瞼を閉じる 言葉の海で 雪を枕に 雪が融ける 言葉が解ける 屋根が崩れる前に 流れ流れて彼方へ帰る 耳を打つ静けさの中で 私は瞼を開いた 言葉が去る 雪も去る 何処へ 遠くへ 只々 遠く ...春の夢(仮) ....面影校舎    面影校舎 廊下を抜ける幼い声は 毎年変わらぬようで毎年違って 懐かしむ眼差しの数だけ残る面影 あの窓際の席に座っている 名前も知らない一人の少女 彼女が見ている風景を これ迄に何人が目にして過ごしたのだろう 刹那光って弾けて消える 残像が焼き付いた瞼を閉じて 開けばそこには古びた校舎 鮮やかに色華やかに 一枚の硝子が万華鏡になる あそこで笑っていたのはきみ それを斜め後ろで見ていたのは私 一列前の後ろ髪はいつ迄も あの硝子越しに残っている きみがこの土地を去ってからも 私がこの土地を去ってからも 私がこの土地に戻って来る度に もし、きみもこの土地に戻って来る事があるならば いつでも待っているでしょう 色褪せては幾度も塗り替えられて それでも変わらない面影の校舎 ....永久の夢    永久の夢 シリンダーに夢を詰めて 痩せた腕を見ていた 初めてこの針を刺したのは 搗きたての餅のように 白く柔こい幼子の腕だった 今では大人の私が あの頃と同じベッドの上で 記憶の中から採取した夢で 眠れぬ日々の安らぎを 如何にか得ようとしている ずっと見続けていた筈の夢が 見えなくなったと気付いた時 全ての道を絶たれたような 静かな諦めを感じたけれど そもそもたかが麻酔などで 永久の夢など見れる筈もない そもそもたかが夢などで 現を上書き出来る筈もない 覚めない夢というならば 再び戻り得ぬ死だけだろう その事に気付いた時 シリンダーの中にあった夢は 私を過たず殺めるような 純粋な毒へと名を変えた ....遅咲きのきみ    遅咲きのきみ 草臥れた胸の中で 真新(まさら)の心が生まれた 今まで殻の中で眠り続けていたきみ Happy Birthday 幼い頃の記憶には楽しい事など無く 苦しい事や辛い事も無かったものと憶えていた それはどうやら間違いであったらしい 本当は苦しくもあったし辛くもあった それと同じく楽しくもあった か細い心は辛苦の多さに耐え切れず 深く殻の奥で耳を塞いでいたのだろう この地獄から逃れられるなら 寄り添う天使の事すら要らないと 無慈悲にも言い放てる年頃だった 眠れる森の孤独な鳥は 羽ばたく空の色も忘れて 土色の夢を見ていた 荒れ果てた胸の中に少しずつ光が差し込み 息衝き始めた森は次第に色を帯びていく 幼心を殺めた侭に大人になった私が 今になってやっと顧みた童心を 稚拙ながらも言祝ごう Happy Birthday ....後悔    後悔  失ったのは愛する機会。 私が追い駆け得意気に掲げたものは、誰かには到底届かなかったけれど。それでも取り上げずにいてくれたなら、私はもっと好きでいられた。 飽和する数の中から選ばれた。それは多少は誇れる事で、自分を褒めてもあげられる筈だった。けれど、選ばれた者達の中では私は落ち零れだったようで、仲間に冷たい目で見られると同時に自分の武器すら見失っていった。 私が一番輝ける筈の場所は、他の誰かが唯一輝ける場所だった。その場所は私から取り上げられ、その誰かへと宛がわれ、私は私では力の及ばない場所を与えられた。自慢の武器は錆び付いて、やがて誰からも忘れられてしまった。遂には当の私にさえも、忘れられてしまったのだ。それは輝くと言うにも余りに控え目過ぎて。 せめて私が覚えていたなら、その武器は朽ちずに済んだのだろう。違う形で振るえもしたのだろう。しかし、私は忘れてしまった。あの頃は自ら輝く事も出来たのに、今はきらとも光れない。私は所詮こんなものと、再び輝く希望までもが色褪せた。 私の場所を奪ったあの子は、皆と同じ目で私を見ていた。当時の私は何も解らず、失ったものも、色褪せた原因も、息苦しさの正体も、何ひとつ知らぬ侭で其処に在った。 少しでもそれらを感じていたなら、取り戻そうとも考えただろう。自覚すらない私には、最早術など何も無かったのだ。 爪を忘れた鷹なれば、狩りの悦びも覚えてはいまい。何と憐れである事か、何と愚かである事か。 今になって愛したいと願う気持ちは、記憶に根を下ろした後悔に他ならない。 ....旅人    旅人    一人目の旅人  父が買ってくれた乗車券。母が決めてくれた指定席。十六年前の印付き。往復切符の筈だったけれど、帰りの分は窓から外に捨ててしまった。 行ってくるねと笑顔で告げて、緊張しながらも手を振って旅立った。トランクに詰め込んだ沢山の本と一緒に。あれは確か、六才の桜咲く春の日の事だった。 十六年間乗り続け、目的地までやって来た。駅のホームに降りれば改札はほら、もう目の前に。 旅の途中で少しずつ隙間を空けたトランク。本当は土産を詰めて帰る筈だった。帰りたくないと、投げ捨てた切符は遥か後ろのレールの上。 どんな土産なら気に入って貰えるのかと。考えて、考えて、考え過ぎて、解らない。気に入って貰えなかった時の事が怖くて、只それだけで帰るのをやめてしまった。両親は今頃心配しているだろうか。 御免。いつか土産を決められたなら、捨ててしまった帰りの切符ももう一度買い直すから。遅くなって御免と、言ったなら赦してくれるだろうか。皺の増えた顔で笑ってお帰りと言ってくれるだろうか。 その時には、私も笑ってただいまと素直に言えるだろうか。    二人目の旅人  長距離列車に乗り込んで、読み飽きた本を伏せ頬杖を付いて窓の外を眺めている。こんな旅が十六年、しかも帰り道まであるなんて。考えるだけで退屈過ぎて死んでしまいそう。 ぱっと席から飛び出して、がたがた揺れる真っ直ぐな通路を最後尾まで駆けて行く。迷惑そうな視線を振り切り、車掌の制止も知らん振り。ちらと聞こえた口笛にウインクひとつと投げキスひとつ。 最後の扉を開け放ったら、窓枠に閉じ込められていた青空が解き放たれて大空になる。迷う事なくレールの外へ飛び降りて、草地の上を転がった。 愉快で堪らず大声で笑う。列車の中ではやたらに響いたその声も、広い空に吸い込まれるようにして消えていく。 嗚呼、広い。広いよ、世界はこんなにも。 嗚呼、小さい。小さいよ、私はこんなにも。 通り過ぎて行くだけだった景色の中に沢山の人が暮らしている。私も混ぜて欲しい、どうか一緒に遊んで欲しい。座りっ放しだった脚はきみ達からすれば頼りないだろうけど、すぐに着いて行けるようになるから。 景色の中をひっきりなしにに汽笛が走って行く。その行き先になど目もくれず、車窓からの視線を感じて誇らしげに謳う。 羨ましいならきみもおいで。終着駅にいち早く降り立つ事さえ、諦められるというのなら。    三人目の旅人  道の代わりに長距離列車のレールに沿って、駅から駅へとてくてく歩いて旅をする。接続駅は分岐点。枝分かれした中からどのレールを歩こうか。考える暇なら幾らでもある。野宿の支度はいつだってのんびりで構わない。 あの道はきっと車上ならば爽快だろうが、歩いて行くには勇気と運が必要で。何故ならそれは渓谷を渡る鉄橋だから、私は冒険心など熾(おこ)さずに平坦な野原を走るレールを選んだ。こちらには花畑があるとも聞いている。 駅では様々な人に会う。歩いて来たと言ったなら、馬鹿にされるか感心されるか。どちらにしても珍しいものでもなく、お仲間さんともよく出会う。何処から来たのか、何処へ行くのか。尋ねないのが私達の約束事。さようならと言う代わり、ではまた何処かでと囀り合う渡り鳥。 歩いて、休んで、今日の天気は少し雨。休んで、歩いて、明日の天気はきっと晴れ。変わらぬものなど何もなく、それを楽しむ歩き旅。 気付けば遠くへ来たのだろうか、それとも然程に遠くもないか。それでも、景色はいつだって新しい。 汽笛や人の営みの隣を私は歩いて過ぎて行く。全ては私を取り巻く世界。 そんな誰かの景色のひとつに、私もなっているのだろう。 ....笑う着ぐるみ    笑う着ぐるみ  着ぐるみを被って、私は稚い子供になる。甘えたそうな素振りをして、時には目許に涙を溜めて、猫のように、はたまた犬のように愛らしく危なげに、大人の手を誘ってみせる。 大人の皆様。手の掛からない子はお好きでしょう? 可愛らしくて分別もあります。さあさ、どうぞ頭を撫でて下さい。「子供扱いしないで」なんて言いませんし、中身は壊れ易い子供じゃありませんから、多少乱暴に扱っても大丈夫ですよ。 着ぐるみに啜り泣きをさせながら、中身は悦を頬に浮かべる。笑顔を貼り付けるだけでは退屈で、少しくらい歪な方が飽きもこない。 大人の皆様。現実の悲劇は面倒ですが、仮想の悲劇は好物でしょう? そうでなくとも、か弱い者の味方(ヒーロー)になるのは楽しいでしょう? 子供を泣きやませるのは大変ですが、「これ」は泣いてもすぐに笑いますから。 着ぐるみを被った私は、現実の扱いが少しばかり下手な大人向けのアトラクション。 実のところ、私は着ぐるみ程も可愛くなければ、着ぐるみ程も素直じゃない。だから、着ぐるみ程にも愛されない。 ほんの少し、私は着ぐるみを羨んで、私は私を軽蔑した。着ぐるみ越しにしかお強請りを出来ない私も、救いようのない道化だろう。 そんな私を生んだこの世も、救いようのない地獄だろう。 ....鬼河原    鬼河原 水の都の野辺の原 葉月の根が下りきった頃 夜に花咲く祭りの季節 鉦太鼓響く地車囃子 臓腑を震わす四拍子 「も一つせ」 「祝うて三度」 「あゝ目出度いな」 燥ぐ子供は手に手に石を 戸口戸口へ積んでいく 早うしないと鬼が来るでと 初めに言うたは誰の声 向日葵傾いで蝉も黙れば いよいよ揃いて 屋根の下へと寄り籠もる 何せ鬼は怖いから 舞子の龍とて敵いはすまい ほら見やれ 水の都の野辺の原 鬼がわらわら鬼河原 一夜の花をば手折らんと 瀬戸に夕焼け見送って 煙る宵闇 蠢く影が群れ始める 渡しの船も恐れをなして 水辺に集うは何処の鬼 銅鑼声やんやと打ち鳴らしては 祭りや祭りと踊れや狂え 夏の夜はやがて乱れ咲き 花やと囃す訛り声 舞い散る火の粉を浴びながら 酔うているのか千鳥足 息を潜めて子供らは 稲妻の如き光に怯える 雷鳴にも似た咆哮が 雨戸をどんと揺さぶって 轟音絶えず 臆病な胸を掻き毟る 路傍に屯う鬼共は 我が物顔に嗤うていた 子供らが積んだ石塔などは 彼奴らの腰丈にも届かない 酔いの弾みに壊されるなら 積まぬ方が良かったろうか 石屑の崩落する音すらも 騒ぎに紛れてちっぽけな 号砲荒ぶり爆ぜるは火の粉 嵐の跡には散る吹雪 一夜の花も枯れ果てた 現れた時のように何処ともなく 潮が引くように客人達は失せていく いったいどの闇からやって来て どの闇へと帰って往くのか 素性も知れぬ異郷の鬼よ 夜半も過ぎて漸くの事 子供らは吐息を零し外へと出やる 踏み荒らされた砂利道は 朧月にも無惨であった 石塊を前に立ち尽くす 名も無き幼子のいじらしさ 誰からともなく立ち上がり しめやかな啜り泣きを音頭にして 子供らは裸足の裏を痛めながら 拾った石を運び始める 「も一つせ」 「祝うて三度」 「あゝ目出度いな」 彼岸に渡れぬ子供らは 野辺の原に建つ鳥居の下へ 列を成して練り歩く 「も一つせ」 「祝うて三度」 「あゝ目出度いな」 途切れぬ囃子は夜の底にこびり付いて ....養母    養母 五色の木の実を抱えて 老いた栗鼠が樹を登る 古びた虚(うろ)に貯め込んでは 行きずりの若鳥を招いて 親は知らぬか 同胞に負けたか 未熟な翼を引き摺って 弱き子なのか 大地が衰えたのか 満たされぬ腹を抱えている いずれ羽ばたく日を夢見る ぎらりとした眼もあればまた 青空の事など描きも出来ず 伏せられた眼もある 小さな嘴はそれでも鋭く 喰らえる者とているだろう しかして幼き者達は 彼女に掛ける爪を知らない 空になった虚の床に 散らばる羽毛と木の実の殻 休む暇なく栗鼠は森へ帰る 決して贄を絶やさぬようにと 知っているか 森の幾らかの親鳥も かつてはこの虚で生を繋いだと 子の育て方を見知らぬ大人は 彼女に我が子を託すのだ 美徳とも愚昧とも判らない ある若鳥達の少年時代 ...客人集 -マレビトアツメ- ..アンソロジー ...この世界の何処か狭間に生きるきみ達と ....人狼の夜    人狼の夜  月より霧の降る夜に。薄明かりを透かして雪より軽く、糸杉の梢に触れては淡い焔を散らす霧粒。熱もなく陽炎のように朧げで、然れども凛然たる夜の面差しを垣間見せる。 霧降る夜半に地平の何処か、月夜に寄り添う姿に目を凝らす。森と海に抱かれた琥珀の煌めきと冬の根雪に育まれた氷の怜悧さとを、併せて嵌め込んだ獣の眸は、夜空に瞬くどの星よりも輝きに満ちている。 その視線に射抜かれたなら、小さな野鼠も瑞々しい牡鹿も等しい心地を抱くのだろうか。或いはそんな暇も無いのだろうか。首筋に温い息吹を感じた時にはもう、呼吸は断たれているのかもしれない。喉笛を塞ぐ歯牙に諦めの吐息を託(ことづ)けて引き裂かれる瞬間を待つばかりの、私も彼らも他愛無い贄のひとつでしかない。 静けさを縫う咆哮が、響くでもなく冷たい夜に染み渡る。耳を済ませて見据えた暗がりの先、飢えた獣が睨んでいるのは私か。それとも恐怖に背を向ける隣人か。 仔狼を匿う強かな母。肉の味を覚えた若い兄弟。君臨する群れの主。漂泊の一匹狼。そしてその何れにも符合しない、人の姿を借りて私達を狙う獣がまさに今、すぐ傍らからきみの柔らかな喉を狙っている。 震えながら笑ったきみ。幻想だと言う乾いた唇。霧は深くて月影清かに。 その只中に閉じ籠められて、微笑む私も既にケダモノ。 ....吸血鬼の慨嘆    吸血鬼の慨嘆  小さな窓から見える景色は、湿った土の香りに閉ざされている。私は部屋いっぱいに敷き詰められた、枯れ花のベッドの上で瞼を閉ざしていた。 息が苦しい。押し潰されそうに厳かな重み。何処から覆い被さってくるのか。知らない侭、錆びつく錠に手を掛けた。朽ちた木枠が軋む音がして、窓の隙間から舞い込んできたのはしっとりと泣き濡れた土塊。 夢中で這い出し、溺れるように呼吸を求めた。両手で掻き分け空を探す。淀んだ生温い閉塞感を振り払おうと動かぬ肺を滑稽な程に揺すり、縮こまった心臓を罵倒しながら、流れ落ちる土の味に咳すら満足に出来ず、私は喘いだ。 腕に絡まる癒えない疲労。やっと伸ばした手が空気に触れ、真っ暗な視界に光が射した。地所うに辿り着いた私が仰いだ天には優しく微笑む三日月。溺れていた事すら忘れて息を呑む。そして喰らい付くように大きく唇を裂いて、まるで初めて母の顔を見た赤子のように、私は泣いた。 泥に塗れて生まれた私は、月光が照らす時間を生き始めた。熱すぎる陽光から逃げ惑いながら、些細な温もりを恋い焦がれる。そうして、穏やかで心地良いその温度が人の体内に流れているのだと気付いた。その瞬間、胸に湧いた途方も無い渇きこそが、人を怖れさせるものなのだとも理解した。 月の満ちた夜に私は咆えた。音にならない声で叫び喚いた。醜い枯れ木のような両腕で、誰の首を掻き抱けるというのか。心臓は最早微動だにせず、心もまた動かない鬼のようなこの私に、いったい誰が与えてくれるというのか。脈々と波打つ温かい血潮を、瑞々しく躍動する感情を、いったい誰が啜らせてくれるというのか。 鬱屈とした嘆きは霧となり、私は天の母から身を隠した。深遠なる夜に寄り添う美しい月。彼女の愛など本来私には到底不似合いで、母と慕う事すら烏滸がましかったに違いない。その光の下で罵詈雑言を響かせる怪物など、麗らかな月夜を穢すだけの幻想でしかない。 三日月の真夜中に這い出してきたあの墓穴だけが、今もきっと私を待っている。湿った土と枯れた花の香りは、変わらず棺を満たしてくれているだろうか。激しく痛む冷たい胸と干上がった喉の侭、私はもう一度安らかに眠れるだろうか。 この痛みに打ち込む杭があるなら、どうか私を葬って。 この妄想を焼き払う火があるなら、どうか私を灰にして。 ....人魚の心懐    人魚の心懐  遠い海面から落ちてくる一縷の光。独りきりで暗い道程を漂った果てに微睡む私の傍までやって来たものだから、迷子に声を掛けるような軽い気持ちでその明るさの頬を指で擽ってみた。 深海に棲まう私達は己の顔貌も知らず、波の上に在るという焔の熱もまた知らない。隙間無い水の抱擁だけを享受して、この胸への締めつけが世界の愛と思っていた。だから、細り絶え絶えに揺らめく光が、果たして何に苦しんでいるのか解らなかった。 明るさと戯れる手は透けるように生白い。こんなにも頼りない色をしていたのかと、眼下に敷き詰められた深い闇を振り返る。この腕が濃密な暗がりを掻き分けていたと、そう思うと何故だか誇らしかった。 幽かな光が仄めかす淡い真実に魅せられて、もっと眩しさに満ちた世界へと、尾鰭を撓らせ水面を目指す。暗がりと明るみを分ける境界、光と水が交じり合う深度僅かの領域へ。踏み込む程に追い縋ってくる重力も、逃れる程に払われていく水圧も、私の好奇心を躊躇わせるには優し過ぎて。私は水の抱擁を振り捨てながら、飛沫を跳ね上げ真っ青な空の下に躍った。 水を通さず直に瞼を射る光。深海ではあんなにも弱々しかったのに、痛いくらいに私の視界を埋め尽くす。これが本来の眩しさであるならば、私の思った眩しさなどは実にささやかなものであった。一際大きく浮かぶ神々しい円がこの光を産み落とす母らしい。それが燃える焔の塊だとも、私には与り知らぬ事。放物線を描いた水滴は泡のように煌いて、揺蕩う波間へ姿を消した。 空気の匂いが鼻孔を満たしていく。水より軽いそれはひどく心許なくて、吸っても吸っても、吸っても吐いても、胸を満たすのは不安ばかり。なのに無性に清々しくて目頭が熱くなった。 視界が滲む。これはいったい何? 誰かが頬を撫でているよう。これはいったい何? 風に乾いた肌に懐かしい潤い。嗚呼、私の瞳から海水が溢れている。幼い頃から舐めてきた潮の味、これが涙。 私を抱いてきた世界は、誰かの涙で出来ていたのだ。そして私の涙もまた、きっと誰かを抱いているのだ。 ....宮守の狐    宮守の狐  こぽり、こぽり。沼の底から立ち上る泡が水面で割れる度、澱のような濃ゆい霧が辺りに赤く咲き乱れる。触れた端から白い帷子を鹿の子斑に染めて、残りはそのまま散り散りに薄明かりの天へと逃げていく。 顎を上げて沼より降る逆さの雨を見下ろせば、淡黄色の天にどくどくと脈打つ赤い月。月光は張り巡らされた蜘蛛の糸じみて、練り撚られながら沼まで垂れていた。 帷子の裾を沼に浸して、柔らかな沼底を踏み締める。ずぶり、ぬるりと心地良く足に絡み付く泥は、月と同じで脈打っていた。 水面を波立たせて私は駆ける。飛沫は唯のひとつも上がらずに、水面が揺れれば揺れる程、沼の淵では水と空気が混じり合い境界はぼやけて消え失せる。 否、そもそも境界などあっただろうか? 立ち止まった私の頭上で、波が笑ったような気がした。 深みに沈み込んだ爪先で、手繰り寄せた糸の端。引けば私のこめかみでしゃらんと鈴の音が鳴る。 視界を隠しているのは何? 濡れた指をひたと頬に這わせた。顔に張り付いているのは張子の面。耳の上の結び目に小さな鈴が生っている。指を滑らせ目尻と口許の形を確かめたら、真っ赤な隈取りが面の上を躍る。指から滴る沼の水に月光の滲んだ綺麗な赤で、のっぺらぼうだった面は狐になった。 面から伸びる赤い糸を首に緩く絡ませて、私は月の胎動に耳を澄ませる。どくん、どくんと規則的な音はきっと私の鼓動に繋がっている。その証拠に緩く絞まった首からは、とくん、とくんと幼い音が響いていた。 揺蕩う私に絶えず語り掛ける遠い声。隔てた外から伝わるような、それなのに内から湧いてくるような、祈りのような、願いのような。妙に親しい声音が紡ぐ言の葉は、何故だか命令じみて聞こえもして。まるで此処が私を祀る小さな宮。私は此処から動く事も儘ならず、己が何者か解りもしないで、唯々耳だけを傾ける。 捧げられる祈りの正体を知らず、如何な願いを叶える手立ても知らず、祀り上げられた無知な生贄。子の身、傀儡に他人は何を望むのか。笑んだ狐の面の奥で私は静かに瞑目する。これより出でる世界の事を想いながら。 ....眠り姫の葬送    眠り姫の葬送  悪い夢が渦を巻く茨の塔の中心には、眠り姫が棲まう秘密の部屋が在る。竜の守りは堅牢で誰をも通さず、糸紡ぎの呪いで醒めない夜を繰り返す。 満ちた月は欠けぬまま深い世界を照らして、閉ざされた境界は触れられぬプリズムで、何処にも無い景色を映していた。 部屋の隅に灯された蝋燭は孤独に、彼女の為だけに明かりを投げ続ける。長い睫毛が頬に落とす影は陽炎のように揺らぐばかりで、ささやかに語られた優しさもその瞳に入る事は無い。重く鍵を掛けられたのは二つの瞼。 その鍵の名は、ひとつは少女の哀しみ。もうひとつは褪せない愛の苦しみ。終ぞ弔う事の叶わなかった祈りと願いが、薄い胸の奥底で燻っている。開かぬ心の窓を深く深く曇らせて。 夢の中、少女が伸ばした手は誰にも届かず、纏わる闇を破って虚空を薙いだ。揺れる焔は永くその種を絶やさぬだろう。この部屋の空気を余さず舐め取り自ら息の根を断つ迄、眠り姫は夢を見る。悍ましさとて、底冷えのする恐怖とて、眠りの中なら友であろう。 かつて重ねた辛苦の名残に、流れる深紅を花咲かせ、生には青を、死には紫を、哀には藍を、哭には黒を、鮮烈に果てなく怪奇に限りなく、悪夢に敷き積む花となれ。棺を埋める献花の如く、小さな世界を葬る色となれ。 茨が枯れればその後に、残るは白き骨ばかり。その光景に至る迄、要する刻は幾星霜。誰もが忘れ、誰もが消え去り、そうして漸く少女は記憶の檻から醒める。 ....鬼乞い    鬼乞い  夜がもう白む頃。閉じた部屋に見開く瞳。闇の濃淡を舐めるように見詰めて、独りの吐息に耳を澄ませる。掻き破りたくなる、静寂。 堪らず呻いた声は、獣じみて喉を這う。畳の上に指を折り、短い爪でその目を幾度も引っ掛ける。腹に溜まった得体の知れない劣情を捻じ伏せるように唸り悶えて、鬼になりたいと、私は夢想する。 憎み抜けば鬼となる。憎む為には愛が要る。報われぬ愛に焦がした心で、人は人を超え鬼となる。妬みでもなく、嫉みでもなく、悪意でもなく、嫌気でもなく。もっと深くて純粋な、憎しみが無ければ鬼にはなれない。 何と愚直で眩しい事か。私は到底及ばない。消えぬ怨みは抱えども、憎む勇気も愛もない。諦め芽吹いた胸からどれほどその芽を毟り踏み躙ったとて、張られた根迄は絶やせない。 鬼になれぬならどうか、鬼よ引き裂いてはくれまいか。呪詛すら吐けぬ臆病者の、鬼に夢見る戯言(たわごと)も。夜の暗さに隠れた侭で、鬼に恋する戯言(ざれごと)も。鬼からすればそれは陳腐な、聞くに堪えない世迷言。 ....隠者の告白    隠者の告白  子供というのは胎から生まれた硝子のようだ。母親の身中で十月と十日、蕩ける程に熱されて、十数年掛けて世間の風に冷やされる。  周囲の圧を受けて姿を変える、柔らかく繊細で、澄み渡った煌めきの源。家族や友人の言葉ひとつひとつで、その硝子は造形される。どれ程に些細な手違いであれど、確実に硝子は吸収している。時には見ず知らずの他人の言葉も、身の内に取り込んでいくものだ。 この硝子の落とし主は、この子にどんな圧を加えたのだろう。生まれた歪みや捩れをを美しいと褒めただろうか。それとも、醜いと貶したろうか。 打ち捨てられて熱から醒めた、若い硝子に目を眇める。瑕口に残る甘やかな濁り。悲鳴の成分は軋む産声と削れる粒子。強いられた傷みは余す事なく、その成形に反映されている。 きみは圧搾されて生まれた子。荒波に投げ入れれば、歳月は研磨してくれるだろう。角のような尖りは消え、凹みも目には判らぬようになる。気泡と亀裂を抱き締めながらアイデンティティの喪失に怯え、砂浜に積もる累々とした屍達を明日の我が身と諦めるのだ。 私は今、きみをそっとポケットに仕舞い、暗い庵へと連れ去ろうとしている。きみがそうさせたのだ。悶え苦しむ流線型の感触が、私の劣情を暴き立てる。 私には硝子を孕む勇気は無い。然れどこの子の歪さを、愛でずにおられぬ業の深みよ。濡れた目尻に指の腹を浸し、静かな眼差しを投げ掛ける。その刹那が言い様もなく幸福であると、きみにだけは伝えておきたい。 ....鏡越しの座敷童子    鏡越しの座敷童子  幼い私が座敷の隅で独り遊んでいたら、鏡越しの少女と視線が合った。それが多分、最初の記憶。以来、ふと顔を上げて鏡を見れば、いつも彼女は雀のような円らな瞳で私をじぃっと見詰めていた。私より少しばかり大人びた表情で。 物言わぬ彼女は只其処に座っているだけで、奇妙な程に我が家に馴染んでいた。年季の入った柱とも、少し欠けた砂壁とも、まるで親子か兄妹であるかのように仲良く佇まいを共にしていた。 私が少し大きくなって。人の顔色が判るようになった頃、彼女の円らな瞳が何処か悲しげな色をしているのに気付いた。以来、いつ鏡を覗いても、彼女はこの家から浮いているように見えた。日焼けた畳とも、窓の染みとも、まるで関係など無いかのように余所余所しく視線を違えていた。 どうしてそんなに悲しそうにしているのか。彼女はうんともすんとも言わない。頷く事もなければ、涙する事もなく。円らな瞳を塗り込める黒は蛍光灯の明かりの下でも、ひとつもときめいたりしなかった。 私の両親も祖父母も、彼女を見る事が出来ないようだった。鏡を見詰める私が不思議なだけで、誰も彼女には触れようとしない。それどころか、私にも。 そんな時、彼女はどうしているかというと、ぎゅっと口許を引き結び膝の上で小さな拳を握り締めていた。 どうしてそんなに苦しそうにしているのか。見ている私まで苦しくなってきて、私は独り泣きじゃくった。母は呆気に取られた後、こう言った。 「気持ちの悪い子ね」 私はひたりと泣くのをやめた。涙に滲んだ視界の端で、彼女も泣いていたような気がした。 私はその日から泣かなくなった。彼女みたいに余所余所しい視線と、ときめく事のない瞳と、結んだ口許と、それから握り締めた両の拳で、私は小さな胸に誓った。いつかきっと、彼女の笑顔を見るのだと。この家ではない、何処かもっと彼女を受け入れてくれる場所へと彼女を連れて行くのだと。私の夢はその時、決まった。 時を経て、私は彼女の為だけに、否、私と彼女の二人の為に、生まれ育った我が家を後にした。私はこれから見知らぬ土地で家を借る。彼女を苦しめたこの家には生涯戻る事はないだろう。 彼女の小さな手を引いて、振り返らずに私は歩く。かつては姉のように見えていたのに、今の彼女はまるで年の離れた妹のよう。見下ろす私は姉にでもなったような気持ちで、只彼女を守りたかっただけなのだと悟った。捨てた愛慕も募る恨みも、私が彼女を愛しているが故に湧き出すのだと。そう自覚した私の胸の痞えは全て、愛おしさへと変わっていった。 からころと鳴る彼女の下駄の音は荷車を転がすような重みを持って、私が足を早めると慌てて弾み着いて来る。彼女はいたいけにもあの家を想い、未練がましく後ろを振り返っているのだろう。 我が家に降りた座敷童子を攫い去り、この腕の中に閉じ込める。それは果たして愚かしい事なのか。けれども、それはあの家の人が招いたのだから、今更悔いても遅いのだ。尤も、あの人達は彼女の存在を最後まで知らぬ侭だったかもしれないけれど。 童子の心を満たせぬ家はいずれ福も絶え果てる。さりとて憐れと思う事はない。苦痛を強いて得られる富でなど、真の幸は贖えぬのだから。それなら、私が奪ったところで何の問題も無いのだろう。 可哀想に、私が成り損ないにしてしまった福を招けぬ可愛い童子。それでも私は、きみの涙に堪えられなかったのだ。 ....籠目の鳥    籠目の鳥  いついつ出やると尋ねる人程、鳥の視線を知らぬのだろうか。寧ろ、知っているのかもしれない。敢えて促すなら、其処に心が在るのだろう。立てや歩けやと囃しているのか、最早眺めるにも飽いたのか。若しくは、もう手には余ると突き付けられているような気さえする。 この侭で居させてくれぬのならば、いっそ縊れば好いと告げたい。残る身体の還る土も無ければ、朽ちる様すら疎ましい。であれば、棄ててくれれば私も己が身体の始末になど思いも馳せぬのに。 家畜というも幸せかもしれない。肉も羽根も骨も、全て余さず使い切ってくれるのなら、要らぬと棄てられる物があるとして、それは穢らわしい血だけだろう。噴き出せば誰もが眉を顰める、愛しく熱き私の脈動。それさえ冷えて滞ったなら、この身の硬きも軟らかきも全て誰ぞ使うてくれるのだ。 なして出やれとのたまうか。放っておいてくれれば好いのに、此処に居させてくれれば好いのに、私から何を奪うつもりか。こんな狭さで生きる訳でもなかろう。私はずっと満足してきた、此処が好いのだ。与えられた場所なのだから、今更奪わないで欲しい。これを奪うと呼ぶのなら、奪ってでも私は居たい。 籠に抱かれた幼き日々よ、温もりはそれで十分だった。母鳥の抱擁など要らない。自ずと温めた小さな空間、私の温度は私一人分を生かすだけの熱量、誰にも分けてやれなどしない。だからこそ、愛しかったのだ。一度出ずれば後はなし、最早戻れぬ場所となる。そう解っていたからこそ、愛しくて堪らなかったのだ。 好奇の心を持て囃す他人が私はずっと好きではなかった。無関心であるのは悪か。塞いだ瞳を、塞いだ喉を、抉じ開ける善なら私は知らない。どうか私に構うなら、籠目の外からにしてくれまいか。 私の子守った殻こそ真に、私の籠もる空なのだから。巣立てぬ鳥よと嘲る声にも知らぬ素振りをするくらい、愛し愛しき私の巣。いずれ野となれ墓となれ、誰も存ぜぬ空となれ。風に惑うも雲居に紛うも安らかに、雨を浴びて眼を閉ざす。この侭、共に蒸発し霧となって消えようか。 ....夢見る獏    夢見る獏  取り留めのない思い出を掻き集めて「私」というタグを結んで回る。琥珀の封蝋を火で炙ったら、融ける事なく燃えてしまった。閉じ込められていた蟻は跡形も無いのに、火花が散り焦げた机には、いつか私が描いた希望の名残が見事に浮かび上がっていた。 燻る樹の匂いで煙った視界が、痛い痛いと泣いている。古惚けた写真に目を凝らすような錯覚。セピアの空気を透して見る景色は余りに遠くて、私の所有物ではないみたい。 寝床に散らばる琥珀の芯は、子供の頃に砂場で摘み上げた蟻を夕焼けの蜜に絡めて閉じるように、吐き出しては捏ね回した空想の残骸。 綺麗だからずっと忘れていた。それを私が作った事など、すっかり忘れてしまっていた。こんなに綺麗な物体がどうして私の中から湧いて出たのか、今となっては信じ難い程の不可思議。 目が痛い。寝床に潜って瞼の裏を見上げながら、転がっていた琥珀を齧る。甘い上澄みが舌の上で壊れ、麻酔のように眠りを誘う。意識は遥か深みまで沈んでいって、目に映るのは滑稽で支離滅裂な物語ばかり。世界の隅まで染み渡る強烈な甘味だけが、私を虜にして離さない。 こびり付く甘味は古いもの程、純粋で。思春期のもの程、強烈。新しいものになればなる程、癖は無く中毒性も薄れる。 私の寝床は琥珀だらけ。部屋には蜜の匂いが満ちている。かつて生み出し辺り構わず振り蒔いたものを今になって後生大事に溜め込んでいる私は、もう夢を生産出来なくなった獣。後は徒々消費していくだけの夢喰い。 のそりと頭を動かして、また琥珀の欠片を舌で手繰り寄せる。蜜を蓄えた臓腑は重く、甘ったれた脳髄が操る身体は愚鈍。膨れた腹を撫で抱え、醜く這いずっているだけだと認めつつも吐く事だけは頑なに拒む、面影も無い成れの果て。 何をそこまで餓えているのか求めているのか、やまぬ過食に病む心身。倦んだ夢は胃の底で膿の膿に変わり果て、嘆き蠢く蟻の屍体。 私は何をしているのだろう。整理した思い出達はタグをぶら下げ、行く末を案じているように見えた。 ....地球少女    地球少女  あるところに小さな家がありました。家の外には大きな灯台と、小さな小屋が一軒ありました。家にはひとつ窓があるだけで、他には扉も家具も何もありませんでした。 ある時、小さな家にひとりの少女が生まれました。少女は真っ青なワンピースを着て、ふわふわとした白いマフラーを首に巻いていました。 少女は生まれてからずっと、窓の外を眺めて過ごしていました。 ある日、少女はワンピースに小さな解(ほつ)れが出来ているのを見付けました。少女は緑の糸でその解れを縫い直しました。真っ青なワンピースにぽつりと緑の点線が出来たのを見て、少女は楽しくなりました。 それから少女は窓の外を眺めるのをやめ、ワンピースに色んな模様を縫い始めました。青かったワンピースはやがて、半分近くが緑の模様で埋め尽くされました。 緑の糸を使い切ると、少女はマフラーを解いて白い糸を作りました。その糸で青と緑の上に花模様を縫うと、ワンピースは見違えるように綺麗になりました。 縫い上がったワンピースを見て、少女はとても誇らしくなりました。けれど、自慢できる相手がいなかったものですから、少女は少し寂しくなりました。 窓の外を見て、少女は思いました。あの灯台と小屋には自分と同じように、誰かが住んでいるに違いない、と。どうにか気付いて貰おうと、少女は窓の外に向かって何度も何度も呼び掛けました。しかし、返事は一度もありませんでした。 そうして何年も月日が流れましたが、少女の声に答えてくれる者はとうとう誰も現れませんでした。 少女は悲しくなって泣き出しました。すると、零れた涙が小さな蟲になり、少女の周りをひらひらと飛び始めました。少女は嬉しくなって、生まれた蟲達をとても可愛がりました。 じきに蟲達はご飯が欲しいと訴え始めました。少女はワンピースの裾を少し千切って蟲達に与えました。 大きくなった蟲達は、もっと沢山ご飯が欲しいと強請るようになりました。少女は更にワンピースを千切り、蟲達に与えました。 蟲達は子供を生み、その度に少女にご飯を求めました。少女のワンピースはいつの間にか、すっかりぼろぼろになってしまいました。 みすぼらしくなった自分の姿を見て、少女は困惑しました。もうご飯はあげられないと言うと、蟲達は窓の外へ飛んで行ってしまいました。 独り残された少女は、涙が零れそうになるのをじっと我慢しました。何故なら、また蟲達が生まれてきても、少女にはもうあげられるものは何も残ってはいなかったものですから。 ....容疑者X    容疑者X  私が最初に目を開いた時、映ったのは母でもなく父でもなくきみでした。きみと私だけの宮殿は、透き通る淡い紅で暖かく私達を包んでくれていました。 私が段々大きくなって、きみはずっと小さな侭で。十月と十日を過ごしたある日、小さなきみを置き去りに、私は窮屈になった宮殿に別れを告げました。 そして私は両親に迎えられ、大きな大きな世界に生まれ落ちました。きみの事をすっかり忘れてしまった侭。 だけど、思い出したのです。互いに名前も知らなくて「きみ」と呼び合っていた小さなきみが一体誰なのかも、私は確かに知りました。 きみはまだ此処に居るのですね。私が生まれる前のように独り法師で。きみが得られなかったものを私が享受している様を、じっと見詰めていたのですね。 誰にも抱き締められる事のない侭に、その宮殿が朽ちる日まで閉じ込められた侭なんて。そんなの私が赦しません。きみには何の罪もないのだから。 これからきみを取り戻しに行きます。きみと世界を隔てる大きな壁を抉じ開けて。 ..未完成 ...時の鎖    時の鎖 ...狛犬語り    狛犬語り 木洩れ日の如く月影が 樹々の葉をすり抜けてくる 夜半は静かに 微睡みに降った細雨 濡れた睫毛の先を★ 朽ちるに任せる最果てを 訪(おとな)う君の名残を惜しみ 打ち捨てられた水の社に指す彩よ 今では花の叢 遮るものなく天を仰げるこの場所からは 今宵も月がよく見える 柔らかな草に腰を落ち着け 咲き戦ぐ花々を見下ろせば 白金(しろがね)の月明かりに開いた菫の群 爽やかでいて仄かに甘い花の香は 悪い夢を見た後の 眠れぬ夜を慰めてくれる 遥かに遠し 月の光は麗かに 宵闇に漣を立てるように この黒髪を優しく梳いてくれるから 私は今も君の事を待っている 菫に紫陽花、露草、竜胆 花の色は移りにけりないたづらに 然れど季節は再び巡る 今年は去ったあの花も 翌年にはまた開くもの 幾年であれど .小説文庫 ..短編集 ...黒柴 ..視える人 ...登場人物 ....高遠家概略 高遠家  父  O型 暁+二九才 母  B型 暁+二八才  長男 桜 (さくら)  一九九一年(平成三年)  二月一六日生まれ  花個紋:常磐桜 運命 B型 長女 暁 (あきら)  一九九二年(平成四年)  七月二七日生まれ  花個紋:透百合 真実 B型 高遠 葵 (たかとお・まもる)   一九六三年(昭和三八年)    O型 御牧 晴永(みまき・はるなが)   一九六二年(昭和三七年)   B型    怜子(・ときこ) 一九六四年(昭和三九年)    B型 お隣さん 村瀬 哲狼(むらせ・てつろう) 村瀬 (むらせ・)   一九七三年(昭和四八年)  A型 村瀬 秀哉 ■年齢差   桜は暁より二学年上 桜が早生まれの為、生まれ年は一年差 暁は秀哉より九学年上、九年差 桜は秀哉より十一学年上、十年差 ■概略(暁基点)   (一九九五)   桜  三才   暁  二才    阪神大震災   桜  小一 暁  年少 (一九九九) 桜  小三 暁  小一 怜子 二六才 結婚    冬に現在のマンション(新築)へ転居 バレーボール ルール改訂        5セットマッチ 全ラリーポイント制 ネットインサーブ認可 (リベロ正式導入はこの前年) (カラーボール認可もこの前年)   (二〇〇〇)   桜  小四 暁  小二   (二〇〇一)   桜  小五   暁  小三 秀哉 誕生 怜子 二八才 (二〇〇二) 暁  小四 伝票算廃止    (二〇〇四) 桜  中二   暁  小六 そろばんを辞める   秀哉 二才 桜  中三 暁  中一 生徒会へ 秀哉 年少(保育園)  ** 少年バレー 開始 ** (二〇〇六) 桜  高一 暁  中二 秀哉 年中    小三 雀部家の四つ子 小六 上月渓 中一 薄墨暁 巽八尋 上月颯市 中二 雀部鷹志 劉靖人 背渡航輝 二学期になり三年生が引退、本格的にレギュラーへ 三学期、ストレス増加の中で家庭の事情が発覚 桜  高二 暁  中三 秀哉 年長    小四 雀部家の四つ子    中一 上月渓 中二 薄墨暁 巽八尋 上月颯市 中三 雀部鷹志 劉靖人 背渡航輝  ** 少年バレー 終了 ** 桜  高三 暁  高一 秀哉 小一  ** 御名算 開始 ** (二〇〇九) 桜  大一 暁  高二 秀哉 小二・三学期 珠算塾へ 桜  大二 暁  高三 秀哉 小三    中一 雀部家の四つ子 桜  大三 暁  大一 秀哉 小四 桜  大四 暁  大二 朱音を連れて雲州(出雲)へ 秀哉 小五  ** 御名算 終了 **   暁  大三 トワイライトエクスプレス(二〇一三〜四) ....関朱音周辺概略 関朱音  二〇〇二年(平成一四年)  一月十五日生まれ  花個紋:花簪 珠玉 祖父母は安井姓 村瀬秀哉  二〇〇一年(平成一三年) 五月四日生まれ   花個紋:折鶴蘭 約束 A型 渋川孝雪  二〇〇一年(平成一三年) 九月 渋川和雪 渋川蛍 ....浦江中男子バレー部概略 浦江中学男子バレーボール部  雀部 鷹志(ささべ・たかし)  一九九二年(平成四年)  四月三日生まれ   花個紋:天竺葵 豊麗 ミドルブロッカー(主将) 劉 靖人(みづき・せいと)  一九九二年(平成四年)  六月三〇日生まれ  花個紋:未央柳 鋭敏 ミドルブロッカー(副主将) 背渡 航輝(せと・こうき)  一九九二年(平成四年)  八月一六日生まれ  花個紋:松明花 感応 ウイングスパイカー 薄墨 暁(うすずみ・さとる)  一九九三年(平成五年)  五月一八日生まれ  花個紋:風鈴草 由緒 巽 八尋(たつみ・やひろ)  一九九三年(平成五年)  一一月三日生まれ  花個紋:紫御殿 強靭 ウイングスパイカー 上月 颯市(こうづき・そういち)  一九九三年(平成五年)  七月二三日生まれ  花個紋:緋衣草 正義 リベロ(臨時セッター) 上月 渓(こうづき・けい)  一九九五年(平成七年)  二月一四日生まれ  花個紋:赤椿  品格 セッター 関連教師  数学 池田 国語 山崎 理科 岡野井・松田 社会 中村(男子バレー部顧問) ■概略 (一九九九) 年長組 小二 年中組 小一 バレーボール ルール改訂        5セットマッチ 全ラリーポイント制 ネットインサーブ認可 (リベロ正式導入はこの前年) (カラーボール認可もこの前年)   一九八〇年より部活動参加が必修化   二〇〇二年より中学課程以降で必修クラブ活動は削除   (二〇〇五) 中一  雀部鷹志 劉靖人 背渡航輝     女子バレー部に仮入部するも体制が不満     副担任に頼み込み男子バレー同好会設立を目指す 人数が足りず帰宅部となる 同級生の女子バレー部員に高遠暁 中一後期の生徒会女子副会長 同好会に関する相談をしばしば行っている  ** 少年バレー 開始 ** (二〇〇六) 中二  雀部鷹志 劉靖人 背渡航輝 中一  巽八尋 上月颯市     何とか同好会を成立させるも人数は未だ足りず 三学期に転校してきた薄墨暁を総出で勧誘    小六 上月渓    小三 雀部家の四つ子(秋野・冬樹・春瀬・夏海) 桜  高二 暁  中三 秀哉 年長    小四 雀部家の四つ子    中一 上月渓 中二 巽八尋 上月颯市 中三 薄墨暁 雀部鷹志 劉靖人 背渡航輝  ** 少年バレー 終了 ** .....Chips.小バレについて 小学生バレーボール  フリーポジション制 コートサイズ  8×16m アタックライン 2.7m ネット     2m ボール     軽量4号(ミニバレーボール)         周囲62〜64cm         直径20cm     重量200〜220g 中学生バレーボール  コートサイズ  9×18m アタックライン 3m ネット     2.30m(男子)         2・15m(女子) ボール     4号         周囲同     直径同     重量240〜260g ■年間スケジュール  大阪市小バレ連盟   四月下旬  新人大会 五月中〜 六月上旬  ファミマカップ(四月下旬〆切)       全日本バレー大阪府大会大阪支部予選   中旬        大阪府決勝大会 八月上旬  近畿小バレ大会 十月中〜   下旬  秋季大会(府)     近畿予選大阪支部大会(九月中旬〆切) 一一月上旬 冬季大会@舞洲アリーナ       大阪市小バレ大会 十一月中旬 秋季近畿代表決定戦 一月下旬〜 二月上旬  市長杯(一月中旬抽選会) .....能力設定 雀部鷹志  チーム随一の高さと安定したメンタルが武器 純粋なパワーは航輝に及ばず、センスも八尋に劣る 相手を観察する冷静さに長ける為、軟打の決定率は高い サーブは安定志向で外す事はないがエース率も低い コンビネーションも多彩で性格的にも引っ掻き回すのが好き バックアタックも失敗率は低い 劉靖人  能力はチーム内で最も劣ると自覚している 元々あまり体が丈夫ではなく付き合いでバレーを続けてきた 周囲もそれが分かっているから多くは望まない サーブは無回転のフローターでエース率が高い 相手の観察も行うが味方に対する観察眼の方が重宝している 攻撃に積極的ではない分、フォローがマメ 背渡航輝  純粋な攻撃力はチーム随一 メンタルや技巧が年齢相応であり、しばしば本番で崩れる 本人も防御よりも攻撃の方が好きで、防御に苦手意識もある 根性と土壇場の負けず嫌いで思いの他踏ん張る所もある あくまでバレーは娯楽であり、その点では靖人と似ている 年下三人のセンスを買っており将来を期待している 巽八尋  攻守共にずば抜けたセンスを持ったオールラウンダー スポーツ全般で好成績を残すが、特にバレーが好き 背丈がそこそこであるという点だけが悩み バネ、動体視力、持久力に優れる他、集中力も凄まじい 時折、ブロックや相手レシーバーが見えている節がある 渓を可愛がっておりコンビネーションの相性も随一 薄墨暁  病弱そうな見た目とひょろっちさと裏腹に粘り強い 特に細腕で的確なブロックを作り上げる点は評価が高い トスが非常に苦手で後衛全般に苦手意識がある パワーに欠ける為、フェイントに走る癖がある 負けず嫌いさでは航輝と張るものがある 靖人のサーブや鷹志の観察力に憧れる傾向 ブロックに関しては真っ向勝負できる自負があり、芯がある 上月颯市  本来はリベロだがセッターも本職並にこなせる 弟・渓のセットアップの癖を熟知したレシーブを行える レシーブから一発でアタッカーにセットアップも可能 攻撃はシャープで背丈の割に決定率が高い 表出し難いが観察力は鷹志と靖人のハイブリッド 仲間の性格やコンディションを踏まえてフォローに入れる 上月渓  トスを上げる事を純粋に楽しんでいる天性のセッター 仲間が最も活き活きと点を取れるセットアップを行う 仲間を熟知している性質上、フォロー力も颯市並にある 背が低い事もあり攻撃力は底辺だが、サーブは狙うタイプ 荒れたレシーブでも最大限のセットアップをする事が信条 褒められる事が兎に角好き ....浦江周辺自宅モデル 安井家  旧近藤家 戦後に建てられた古い一軒家 薄墨家  向かいの近藤家 元々は戦後からある古い一軒家だったが建て直した 渋川家  旧浅井家 高遠家  パラシオ 村瀬家  高遠家の隣 ...Case#宮入衛嗣  薄紅色の雲が見渡す限りを覆っている。低い空は頭上に圧し掛かり、息の通る隙間もない程に胸が重たい。けれど、不思議と苦しくはなかった。常春の暖かさは眠りを誘う。目覚めるという行為を思い付かない 紅い川が流れている。空に蓋をするように、薄紅色の雲が見渡す限りを覆っている。淡く眩しげな黄色が こころは疾うに死んでいた。 ....登場人物 宮入衛嗣  小学二年生、まだ六歳。 幼い頃から奇妙な声を聞く。 母の実家の近くで赤い川を見る。 ななし  衛嗣の兄、流産したため衛嗣は初め存在を知らなかった。 母 高遠晴永 高遠桜  旅行に来ていた先で衛嗣と仲良くなる。 衛嗣のひとつ上。 高遠暁  旅行に来ていた先で桜に連れられて衛嗣と出会う。 衛嗣のひとつ下。 晴永と葵がこれでもかと趣味を詰め込んだ。 とかく服装や髪型がナチュラルに可愛い。 白いワンピースにゆるくまとめたロングヘア。 ....プロット 一九九九年・夏 序 仕事で旅行に来れなかった葵に宛てた晴永の手紙 葵=パートナー扱いで字面だけなら妻に宛てた手紙 桜、暁からの聞き書き形式をとるという宣言 一 幼い頃から知っている旅籠に毎年家族で遊びに来る晴永 旅籠の女将の孫・衛嗣がこの夏はここに預けられている 桜が衛嗣と仲良くなり、翌日も遊ぶ約束を取りつける 二 桜は暁を連れて衛嗣の元へ 二階の窓からそれを見ていた晴永視点の描写 衛嗣に特に違和感は感じなかった 暁も普通にしていたし、衛嗣も暁に対する態度は微笑ましい 三 衛嗣は赤い川が見える小径に兄妹を連れて行く 嘘ではないと誰かに認めて欲しかったのだろう 何も言わず試すように連れて来た暁が反応した やっと自分と同じものが見える人がいたと喜んだのだろう 勇気付けられて初めてその川を辿って森の奥へ分け入る 四 旅籠の裏山を登ると寺がある 赤い川は寺へ続く裏道に沿って流れていた 桜曰く、ただの森の小径でその先は変哲もない泉である 暁曰く、薄赤い空間を柔らかい赤が流れていたという そして、胎内を思わせる生温い泉の底には「子供」がいた 赤いマフラーを水面へ垂らした子供がいた 五 子供は桜と同じくらいか少し上くらいに見えた(暁談) 嬉しそうに衛嗣を手招いたという 手を伸ばした衛嗣を慌てて止める桜 桜の目には泉に自分から落ちそうになったように映った 六 晴永は翌日、暁を連れて花火を買いに出かける その時に昨日の事を詳しく暁から聞く 桜は旅籠の女将に衛嗣の事を尋ねる その後に表道から寺へ向かった 七 衛嗣も一緒に花火をしようと誘う それから数日、上の空だったり遊びの誘いを断ったりな衛嗣 ある夜、唐突に明日両親が迎えに来ると桜に告げたという 八 帰る前に一度だけその川と泉の場所を教えてもらおうと 子供達に先導されて森へ入る晴永 暁が急に愚図りだす 泉で何か赤いものを抱えて浮かんでいる衛嗣を見つける (この辺もうちょっとブレスト、暁に与える影響等々) (できれば結で何かが判明するように絡めたい) (新しい卵=不倫で新たにできた弟妹の話を表に出したい) 桜に暁を連れて旅籠に救急車を呼びに行かせる 衛嗣が抱えていたのは内臓だった 草叢に落ちる血痕を辿ると血塗れの衛嗣の母が倒れていた 結 桜と暁は衛嗣が溺れただけと思っているはず 後から女将に話を聞くと衛嗣がやったと言っているらしい ....時系列    時系列 母が実家で兄を流産、臍の緒を実家の裏山の森に埋める    依り代は母の腹 現世と繋ぐ縁は裏山の森 七つまでは神の子、神へ返された扱い 衛嗣を身籠る 兄が衛嗣を可愛がる十月十日    最初は卵、そこから孵って大きくなる 生まれた後も衛嗣が忘れられず話しかける    七つまでは衛嗣もまだ神の子だから認識できる 母と一緒にいると衛嗣は兄の声が聞こえる 衛嗣の素振りにまず母が違和感を覚える 大きくなって衛嗣が説明できるようになると気味悪くなる    その頃から母は衛嗣を疎んじる 兄を流したのも不倫の子だったから それすらいずれ知れるのではないかという思い 離婚を意識し始めたのはそれもひとつの理由 夫婦仲は悪くなる一方で衛嗣も母に邪険にされる    衛嗣は母が嫌いではなかった 環境起因で情緒や倫理に歪みが発生し始める 母に避けられるようになり兄の声を聞く頻度も減った 小学生一年生の夏休みにとうとう明確に拒絶される    父の出張中に母が家出 父に電話するも母の家出を衛嗣の所為にされ詰られる 固定電話がなく祖父母に連絡も取れない うろ覚えの知識で辿り着いた祖父母の家で過ごす この時に初めて赤い川を見た 祖母を引っ張ってきたが、祖母には見えなかった これまでも遊びに来た事はあるが少し遠かったらしい 翌年の夏休みは祖父母の家に押し付けられる    母が見つかり次第離婚するらしい 祖父母は引き取ってくれるつもりでいる 旅行に来ていた桜と出会い遊ぶ    祖父母の実家が旅館を経営している 常連の晴永とは仲が良い 晴永が学生の頃から知っている 翌日には暁も連れて来る    実家近くの寺の裏道から続く裏山への道に赤い川 暁が見えている様子なので思い切って川を辿る 桜には見えていないが、何かを感じてはいるようだ 暁にはこういう事がよくあったから理解している 森の中の泉に到達する    泉の脇に臍の緒が埋まっている やっと逢えたと言う兄    兄は衛嗣と触れ合いたい 置いて行かれたのが寂しかった 自分は神様に返されただけ 衛嗣もこっちに来れば良いのにと思っている 衛嗣も相手の声を聞いていつもの声と判る 翌日、ひとりで兄の正体を確かめにやって来る    会いに来てくれて喜ぶ兄 悪気なくおいでおいでする 手招かれて溺れかけた衛嗣を晴永が助けてくれる    この時、暁が兄と対話を試みている    晴永は執筆活動中だったが桜と暁に昨日の話を聞いた 暁が晴永を連れてきたのと丁度タイミングが合った形 この後、気になって祖父母に衛嗣の事を尋ねに行く 目覚めたら桜が傍で看ていてくれた    この日は桜は葵と出かけていて、帰って来た後 ちなみに花火を買いに行っていた 暁は晴永にカウンセリング 夜に誘われて高遠一家と花火をする    その際に事情を推測した晴永と話す その内容のショックを受ける衛嗣 しばらく泉に行かない日が続いた 父から母と連絡がついたと祖父母に連絡が入る    離婚が正式に決まり祖父母に引き取られると知らされる 最後に両親と揃って会う日の事について話があった 母は既に再婚相手を決めているという 全てが終わり、兄に会いたいと泉へ向かう衛嗣    母にも父にも捨てられたが自分には兄がいる    その兄が嬉しそうにしている いわく、卵が新しくできたという事 これは衛嗣が来た時と同じだと喜んでいる 兄にも捨てられるかもしれない恐怖 父と母とはそれぞれ別々に月に一度会う日がある    卵は母の腹にある 兄も母の腹にいる 卵を殺して兄を取り出そうとする 母を殺して逮捕される衛嗣    ニュースを葵と晴永が知る (ラスト周りは書いてる内に定まるかという楽観) ....序章 葵へ 宿についたよ。例年通り、信州は涼しい。今年は女将さんのお孫さんが来てるらしくて、二人して早速遊んでもらってる。 仕事はどうだい? さっさと終わらせてこっちに来ると良い。桜は花火がしたいってさ。 晴永 添付:幼い女の子が膝を枕にして寝ているのを上から撮影したらしき写真 ...Case#鞆森由岐 ...Case#鞆森綴弦 ...Case#薄墨暁「少年バレー」 ....プロット  これは少女の物語。少年に生まれたかった少女のお話。男にさえ生まれていれば、私はもっと自然に笑って暮らせたはず。窮屈なこの世界より、朗らかなあの世界で君達と一緒に。ただ共に戯れたかっただけで、他には何も望まないとのたまう少女。彼女を好きになった少年は、仮に彼女が少年だったとしてもやはり彼女を好きになっただろうと告げる。 寂しげな、心が死んでいるような、そんな印象を最初に抱いた。それなのに、誰も彼女を気にしない。否、気付いていても声にはしない。あの子は学年屈指の秀才、あの子は生徒会長、あの子はかのバレー部のレギュラー。だが、それが何だというのだろう。休み時間に誰とも話さず、頼まれ事は断らず、教師に殊更には好かれず、友にも恵まれない。 暁(さとる)は「心の涙が視える」 暁(あきら)は「他人の視たものが見える」 導入  二〇〇六年。  中一の二学期に転校してきた薄墨。  初登校時に時の生徒会長・高遠暁と出会う。 ★高遠の事がいつから・何で気になるか。 起  男子バレー同好会からの勧誘。 クラスメイトの八尋→同級生の颯市→上級生組三人。 高遠が女子バレー部所属と知る。 承  入部。 府新人大会に向けて練習が始まる。 体育館が使えない日はラインズマンや審判の勉強も。 視聴覚室の鍵の事を高遠に尋ねに行く。 高遠と女バレの距離感が仄めかされる。 土日に市民体育館を借りたり、ママさんバレーにお邪魔したり。 小バレにOBとして参加した際に噂の上月渓と出会う。 転  進級、上月渓が入部。 四月末の春季総体のリーグ戦に渓を使うか否か。 一方、生徒会選挙に高遠がいない事が校内で話題に。 誰も直接聞きに行かない中、突撃する薄墨。 女バレも辞めるという。 疲れたと言う高遠へ勢い余って告白。 笑っていても笑ってないのに、時折ふと活き活きする。 本当に楽しくいられる場所は別にあるはず。 バレーもそれなりに楽しかったが環境が合わなかった。 遊びにおいでよと言う薄墨。 そういう訳にもいかないと言う高遠。 結  男バレ顧問の誘いでマネージャーに落ち着く高遠。 ■対比 女バレと男バレ  男バレが楽しそうに部活をしているのが解せない高遠。 ■大阪中学校体育連盟バレーボール専門部 府新人大会申し込みが一一月。 一月末から開催、二日かけてベスト8選出。 最終日に上位8チームが近畿大会出場決定。 市春季総体一次予選の申し込みが二月末〜三月。 抽選が四月、一次予選(リーグ戦)が四月末。 上位2チームが六月の決勝トーナメントへ。 上位4チームが市秋季総体シード。 上位2チームが府優勝大会シード。 府優勝大会抽選会六月、七月に開催。 ブロック大会八月開催、上位2チーム市秋季総体出場可。 市秋季総体九月開催。 春季総体ベスト4+各ブロック上位2チーム計28チーム。 府秋季総体一〇月。 ....序章@転校生 .....一    一 こ ...Case#高遠暁「黄昏と共に、北へ」 ....プロット トワイライトエクスプレス片道 目的地は青森 早朝の洞爺駅下車 室蘭本線で長万部へ 函館より白鳥で青函トンネルを越え青森へ 青森港を眺めた後に駅前の総合施設のスタバへ 太宰記念館「斜陽館」へ向かうべく津軽鉄道へ ....序章  青森へ行く事になっただけだった。 年の暮れ、使い慣れた駅の初めて降りるホームで列車を待っていた少女はおもむろに視線を上げた。滑り込んできた列車が冷たい風を連れて来る。枯葉色のロングスカートが巻き上がり、見え隠れするのはミドルカットのブーツから伸びるアーガイル調のタイツに包まれたすらりとした脚。大人と呼ぶにはほんの少し青さの残る独特の華奢さ、年の頃は二十手前といったところだろうか。 停止したモスグリーンの車体は落ち着いた風合いで、扉や窓の作りが明らかに一般のものとは異なっている。落ち着いたブロンズの英字で掲げられたその名はトワイライトエクスプレス、大阪から函館までを駆け抜ける夜行列車は間違いなく異世界への入り口だった。 オフホワイトのマフラーに口許を埋めたまま、厚手のミトンが足元のバッグから伸びたショルダーストラップを掴む。師走とはいえ、気候の温暖な大阪で目にするには随分と重装備だが、行き先を鑑みれば不思議でもない。 二両目のタラップを上がればそこは所謂二等車両。少女はロイヤルルームの乗客だった。一両目にはスイート、食堂車を隔てた後ろが ...Case#関朱音「御名算」 ....登場人物 村瀬秀哉(むらせ・しゅうや)   本編の主人公 後に囲碁の道に進む 関朱音(せき・あかね)   祖父がそのまた母から受け継いだ梅珠そろばん 樺や柘とは違い木目がはっきりと出る やや赤味がかった軽い珠が特徴 枠に検定合格シールを貼る事を厭う そろばんケースは曾祖母の着物を流用した手縫いケース 時折何もない空間を見上げる癖がある 付喪神は自分のそろばんしか視えないが気配は感じている 古い小物が好きなのもこのため 渋川孝雪(しぶかわ・たかゆき) 渋川和雪(しぶかわ・かずゆき)   朱音の幼馴染 できすぎたスペック、おまけにイケメン 渋川螢(しぶかわ・けい) 加納先生 佐野文子(さの・ふみこ)先生 花村一肇(はなむら・いっけい)   秀哉の保育園からの友達 後に演劇の道に向かう 榎並野江(えなみ・のえ) 天霧夜莉子(あまぎり・よりこ)先生 高遠暁(たかとお・あきら) 取得級は準初段及び暗算一級 一般的な市販の樺珠そろばん 取得級    七級・四級・準三級・準二級・三級・        準一級・二級・一級・準初段       暗算 五級・四級・三級・二級 朱音に似て何もない空間を見ている事が偶にある 誰もいない時は独り言を呟いている事も多々 ....プロット 小学二年生 三学期(二〇一〇年)       寒気の影響で低音、日照時間短 冷夏になると予想されていた 流行語 ゲゲゲの〜 候補  AKB、食べるラー油、〜なう 六月二日鳩山退陣表明、八日管内閣発足 津浜南小学校が閉校  学期始め 二学期に習った九九のテストにて      が朱音にライバル心を抱く  村瀬秀哉 関朱音 渋川和雪 学期半ば 珠算塾の存在を知った秀哉が親に入塾をせがむ      姉・暁(高校二年生)の使っていたそろばんを貰い受ける この時、秀哉は高遠家に引き取られて二年目       天霧夜莉子(先生) 榎並野江(助手・本業絵描き)       渋川孝雪 学期末  二月末に見学に訪れ三月から入塾       松村佐吉(同級) 建部泉純(一年下) 榎並武之介(年少) 小学三年生 クラス替え  一学期       朱音、孝雪と同じクラスになる すぐに昇級するがまだまだ朱音や渋川兄弟に及ばず        松村穂乃花(一年上) 建部大地(一年上)       七月十七日梅雨明け 六月二六日は北海道各地で季節外れの猛暑日 関西も温暖だった 梅雨明け後から一気に猛暑に 七月末に一度落ち着いたものの八月から再び猛烈な暑さに見舞われる 連続猛暑日は大阪市で八月十六〜二九日 月平均三十・五度 平均最高気温三五・二度 九月に入っても残暑は厳しく八日に西から福井県に上陸した台風九号によって気温が低下 九月中旬に秋雨前線が発達 二二〜二三日にかけて全国を南下 二二日に三三・三度あった最高気温が二四日には二二・六度まで低下(十月上旬並)となり秋へ 戦後最悪の熱中症死者  夏休み      「観測史上最も暑い夏」 三十年に一度の異常気象、猛暑 今年の漢字「暑」の元となった       夏にある珠算大会に朱音達が出場する 五年生の部がエース揃い  磯村九狼(二年上) 渋川蛍(二年上) 三年生も期待が高い 中学の部には四つ子がいるが部活(バレー)が忙しく期待薄  雀部秋野(中一) 雀部冬樹(同右) 雀部春瀬(同右) 雀部夏海(同右)   少年バレーの三年後 小学六年生まで通っていたなら六年前 秀哉は二、三才の頃のため記憶にはない 団体戦は各種目の上位三名の得点で競われる 朱音、和雪、孝雪に一種目も敵わない時点で意味がない 一種目でも三人を上回る事を目標に考える 映画 借りぐらしのアリエッティ    ガンダムユニコーン ポケモン ゾロアーク  三学期      授業でそろばんがある 朱音が活き活きしている理由 そろばんに憑いている友達=付喪神の存在 休み時間に珠算塾の子で集まって読み上げ算遊び クラスの男子にそろばんをとられそうになる朱音 孝雪が割って入り事無きを得るがからかいの的に 朱音が孝雪を好きなのではと思い至る秀哉 その事にもやもやしている自分を自覚する 孝雪はクラスの女子にもモテる 水面下で朱音への嫌がらせの火種が燻り始める 小学四年生  夏休み      初めて大会のメンバーに選ばれた秀哉 補欠のような扱いでも嬉しかった事に戸惑う  三学期      去年に続き授業でそろばんがある 女子が男子を焚き付けて朱音のそろばんを奪う 去年より勇気を出して取り返そうとする朱音 突き飛ばされた朱音を見て秀哉が男子をぶん殴る 喧嘩が勃発した所に孝雪が教室へ戻ってくる 床に転がったそろばん 喧嘩中の男子が踏みそうになったのを庇う朱音 思い切り朱音の細腕を踏んでしまい動揺する男子 泥沼の様相の中で女子が焚き付けた事を口走る 怒り心頭の孝雪と秀哉 そのタイミングで先生がやって来て捕まる男子達 孝雪と秀哉が動けない傍ら朱音を助け起こし クラスの大人しい美術系の男の子と女の子が 保健室まで同行してくれる 小学五年生  夏休み       朱音が交通事故に遭いそろばんが壊れる 代わりのそろばんを買って貰うも消沈したままの朱音 大会を外され和雪、孝雪、秀哉の三人で出場 そろばんの秘密について話す 話を聞いていた暁からの提案で出雲へ 後日、修理されたそろばんが送られてくる 来年は小学校最後の大会 和雪は中学では部活をやるためそろばんは辞める 孝雪も迷っている 朱音はどうするのか ....ストック:浦江町描写 東は西日本最大の繁華街と隣接している。その境界には長らく広大な貨物駅が横たわっており、立地の良さに反して華やぎからは隔絶された静かな町であった。元々は町工場の立ち並ぶ工業地だったため、訪れる客もいなかったのだ。 それでも、時世の流れに伴い昔ながらの小さな工場がぱたぱたと閉鎖していく段になると、町はやおら住宅地へと姿を変え始める。古い平屋や工場がなくなれば、そこには必ず綺麗な分譲住宅やマンションが建った。繁華街から徒歩圏内という好立地を謳い文句にして、 ★ 町外れから繁華街の方角を臨めば、フェンス越しに幾重にも併走する貨物線路とコンテナヤードが見えたものだった。その向こうには高層ビル群が聳え、天気が良ければその合間に遠く生駒山地が顔を覗かせる。 過密な人口を抱える京阪神三都の一角、府下随一の大都市。浦江町が属する区は西日本屈指のビジネス街とそれに隣接する歓楽街を抱えるがため、日中の人口は夜間の四倍以上というある種異常な数値を記録していた。 ★ 道幅が広いのは大地が平らかなだけではない。工業地である事も理由のひとつであろう。 ....ストック:校舎 東校舎の南は講堂と繋がっており、また、北校舎から西側に出るとすぐ対面には併設の幼稚園がある。 二年生の教室は下に給食調理室、上に音楽室、その更に上の屋上にはプールがあった。 ....ストック:二 他の子達相手だとこちらが付き合っている気になるが、一肇相手ではそういう気持ちにはならなかった。一肇とは対等だと感じていたのだ。 ....ストック:家    冬の装いに関する没文 厚手のシャツの上に重ね着たもこもこのフリースと、これまた裏地綿の分厚いスウェットに毛糸の靴下という完全防備。 床暖房のある居間の中でもラグの上は楽園だった。両親とここでボードゲームをして遊ぶ夜が秀哉にとっていっとうお気に入りの時間だった。新品でふんわりとした毛並みは手触りも良く、冷え性の母にラグを敷く事をお勧めしてくれたお隣さんには感謝しかない。床暖房があればエアコンは要らないし、共働きの両親も帰宅してすぐに居間が暖まっているのは嬉しいから、秀哉が子供部屋から出てきて日がな一日ラグの上で過ごしていても咎めない。それだけの事が、果たしてどれほどの贅沢であっただろうか。噛み締めずにはいられない。    自宅での秀哉の甘え方に関する没文 子供が観るには些かつまらないであろう内容でも滅多に中座しない事については、初めの内は両親も不思議だったようだ。 映画を観ている父の傍にはいつもコンビニ袋いっぱいのお菓子があって、その中には秀哉の好きなチョコレート菓子やスナックも用意されていた。最初はナッツやおかきといったおつまみが少量あるだけだったのだが、秀哉が だから、お菓子が目当てだと思われているに違いない、と秀哉の方では勝手に推測しているのだが、秀哉が一緒に映画を観るようになった後から父は買ってくるお菓子の量を増やしている。最初はナッツや 母はそんな甘やかし方をせずに一緒に遊んであげたらどうかと言うのだが、何が嬉しいのか父はこの時ばかりは    ボードゲームに関する没文 仕事納めの翌日にリビングでゲーム機に向かっている秀哉を見て開口一番、 「勉強しいや」 とのたまった父も、冬休みの宿題など日記を除いて既に終わっていると知るや否や、以降は クリスマスプレゼントのボードゲーム ....導入    御名算 ....序章@二年生 二〇一〇年一月  秀哉 小学二年生 暁  高校二年生 一、浦江小学校について 二、村瀬秀哉について 三、九九のテストについて  多分、小説ではなくて環境描写に費やされている文章。  舞台のモデルは私の地元、遠からず大阪・梅田の再開発で面影を失うであろう故郷のスケッチ的な意図も実はある。なお、冒頭は2010年1月を想定。 .....一(※2800字)    一 こつこつと鉛筆が紙越しに机を叩いている。軟らかい鉛筆がわら半紙に擦れると、一心不乱に手を動かしてもどこか丸みを帯びた可愛らしい音になる。 それが群れになっても同じ事だ。こつこつ、こつこつと、絶え間なく重奏するだけで音色の質は変わらない。雛鳥が巣の中で銘々に囀るような賑やかさも、ひとつひとつに耳を澄ませばいたいけな鳴き声以外の何ものも聞こえてはこない。 市立浦江小学校、二年二組の教室。乾ききった室内は鉛筆の音だけで満たされている。季節は三学期が始まったばかりの真冬で、教卓の隣ではストーブが赤々と最前列の生徒を焙っていた。 背を丸めてせっせと机に向かう姿は、やはり行儀良く巣の中に納まる雛だった。制服が茶系統で纏められているあたりに、きっと身近な小鳥の色合いが重なって見えるのだろう。上着は深みのある雀色で、ほとんどの生徒はそこからアイボリーの丸襟を覗かせている。 この冬服はブラウスにも上着にも装いの差はなく、明確な男女の別といえば、上着と揃いの雀色が半ズボンであるかスカートであるかの一点に尽きた。 上着の中に着込んできて良いものにも、はっきりとした決まりがある。許可されているのは黒か紺、あるいはダークグレイのベストのみ。それすら無地かワンポイントという制約があって、外見的な自己主張は髪型と靴下までに留められていた。この統一感がいかにも同種の雛らしく彼らを印象付けているのかもしれない。 ストーブに近い席では、椅子の背に上着を引っ掛けている生徒もいる。素朴な雀色の中に映える、柔らかなアイボリー。それからもうひとつ、ちらほら混じるベージュの角襟とセーラー襟。上着もなしに夏服のブラウスだけで、半袖から腕を剥き出しにしている生徒がひとり、ふたり。 それというのは、暖かい地方ではとりたてて珍しい光景でもないだろう。小学生くらいならば、我慢比べのように一年を半袖で過ごそうと試みる生徒がどの学年にも何人かはいたりするものだ。このクラスにおいても、それは御多聞に洩れぬ事であったというだけで。 ここ浦江は、近畿地方の瀬戸内寄りに広がる平野の片隅、大阪湾から淀川を少し遡上した南河岸に位置する小さな町である。今でこそ海までは距離があるが、浦江と名の付く通り、安土桃山の頃には岬だったと伝えられる。小学校の校歌には難波津《なにわつ》という言葉が詠み込まれているが、その水際に広がる葦の原の一部であった時期もあるのやもしれない。 三方を巡る山々と穏やかな内海に抱かれた大都市、その懐は典型的な都市型気候で、冬は温暖乾燥、夏は熱帯湿潤。酷暑となりがちな夏に比べ、冬はそれほど厳しい季節ではない。クリスマスにも正月にも降らない雪は、何故かいつも花冷えの頃にほんの僅かばかりちらついて、過ぎたはずの冬を思い起こさせては何処《いずこ》へかと去っていく。 わけても今年は暖冬になるだろうと言われていたが、一月に入ってからぐっと冷え込んだ事もあり、昨夜のニュースはこの地域でも珍しく零度に届こうかという最低気温を報じていた。 北国に比べれば優しげな冬だとしても、紛う方なき冬である。 戦前からあるという校舎は、改修を重ねているとはいえ建物自体が古かった。春先から終戦前日まで、八度に渡り府下を焼いた大空襲。その折、浦江小学校は辛くも戦火を免れた。市内でも多くの学校が焼け、同じ町内にある浦江中学校も半焼の憂き目に遭っている。両校は直線距離にしてたったの三〇〇メートル。その僅かな距離を思えば感慨も深い。 しかし、それも今ここで隙間風に震えている一部の生徒達にとっては関係のない事だろう。冷えた外気と壁一枚で隔てられた廊下際や窓際、特に後方の席などからしてみると、遥か彼方でどれほどストーブが盛っていようとも、その恩恵などないにも等しかった。冬晴れの澄んだ空に浮かぶ太陽の方がまだ暖かみを与えてくれるに違いない。 いかに建物が古いとはいえ、そもそもが防寒性に配慮した造りになっていれば少しはましのはずだし、老朽化が一因であるならば改修の際に補強されているはずでもあった。難があるというのは、つまるところ、端から問題視されていないのだ。この地域の寒さは★着る物を何とかすれば容易く凌げる程度なのだから、殊更に気にかける必要などないのである。そう、着る物さえ何とかしていれば。 生徒の方もなまじ逞しく耐えてしまうものだから、これで良しとされるのも致し方ない。問題がなくとも寒いものはただ寒く、寒かろうと問題というほどでもない。それだけの事でもあった。 二年生の教室はとりわけ日当たりも悪い。校舎は四階建てで、東校舎と北校舎がL字型に繋がっている。東校舎の二階、丁度このL字の角の部分に二つ並んだ教室が二年生の領分だった。低層階という事もあり、冬のこの時期ともなると東向きの窓からは午前中ですらほとんど陽射しが入らない。 住宅地の只中にあって狭い敷地ぎりぎりに佇む校舎には、裏庭らしい裏庭もなく、見下ろせばすぐ脇を道路が通っている。日が十分に昇るまでは目と鼻の先にある隣家が窓辺に影を投げ、やっと日が高くなった頃には太陽は既に南の方へと姿を消してしまうのだ。 短い朝が過ぎれば、それより先は日陰の時間である。東校舎の北端は、何故か北校舎との接続部分よりも更に教室一つ分ほど外へ突き出していた。結果として、奥にある二年一組の教室は昼の間も北校舎によって太陽を遮られ、手前の二組の教室に至っては二つの校舎の内側に完全に埋もれてしまっていた。夏は洞穴のようにひんやりとして心地好いが、冬にそれがどのようなものになるかは言うまでもない。おまけに、教室の隣には階段が通っていて、それが一階の吹き通しに繋がっているから風の通りまで良かった。風の強い日には時たまオゥ、と獣の吼えるような音をたてているのが教室からでも聞こえるくらいだった。 奥まった廊下は常に蛍光灯の明かりが絶えない。夏には涼やかな石目柄の床も、冬とあってはただ寒々しさに拍車をかけるばかりである。コンクリート造りの建物が抱える無機質の冷たさは、子供らしい――それこそ、まだ絵の具を混ぜる事も知らないような――色使いで描かれたポスターや、まろやかな平仮名にぽつぽつと漢字が紛れる幼げな書初めが所狭しと貼り出される事によって、不思議な事ではあるがほんの僅かばかり緩和されているようにも思えた。 廊下と室内とは、立て付けの悪い木製の戸と窓で隔てられている。枠いっぱいに幅広の曇り硝子が嵌め込まれた窓は、薄暗い廊下を照らす蛍光灯の光も相俟って、白っぽく氷のような見た目をしていた。 .....二(※2793字)    二 廊下際、戸口にほど近い最後列の席にて、村瀬秀哉はふるりと膝を震わせた。壁越しに伝わってくるしんとした空気も、文字通り隙を見ては忍び込んでくる隙間風も、つい先日までの冬休みをぬくぬくと家に籠もって過ごした身には堪える。 きっと小鳥ならば死んでしまうのだろう。野外に生きる雀の事ではない、屋内飼いの小鳥の事だ。彼らは防寒を怠れば本当に呆気なく落鳥してしまうという。保育園からの幼馴染である花村一肇がそう言っていた。数ヶ月前から家でセキセイインコを飼い始めたとかで、すっかり夢中になってしまった一肇はこのところ口を開けばその話ばかりである。名前がようやく決まったらしく、二学期の間は「うちのインコが」で始まっていた惚気話も始業式には「うちのルルが」になっていた。 専用の小型ヒーターがケージの傍に設置されているというルルの方が、今の秀哉よりもずっと暖かい思いをしている。南国からわざわざ愛玩用に連れて来られた品種なのだから、そのくらいはしてやらねば飼い主として酷い所業であるのだろう。それでも、幼馴染の飼い鳥を羨むくらいは許されても良いはずだと秀哉は思った。 寒さの方は遍く行き届いているというのに、温もりばかりが偏っている。仕方のない事だ。冬のもたらす寒さに一台ぽっちのストーブが太刀打ちできるはずもない。 机や椅子を支える金属フレームなどは、うっかり触れようものなら身が竦むほどに冷えきっている。机と椅子の前脚と、計六本のフレームにぐるりを囲われた足元は鳥籠の中にも似ていた。間違いでもないだろう。実際、授業が始まれば基本的にはそこから動く事はほとんどないのだから。 ★この学校の風紀は厳しい。市内の公立小学校は制服着用が義務であるが、少し融通が利かないのではないかとすら思う。男子の半ズボンは体操着とも大差なく、短パンと言っても語弊はない。女子のスカートだって膝丈にも満たず、生地の厚みに多少の違いがあるだけで、両者ともに冬服も夏服も見た目はそう変わらない。 椅子の座面は堅くて薄っぺらい木製の底板一枚で、これがまたよく冷えるのだが、幸いな事に秀哉と椅子の間には綿の詰まったクッションが挟まっていた。授業が始まってしばらく経っているから、体温が移ってそこそこに座り心地も好い。 こういった座布団の類は自由に持参しても良いという事になっている。学業に励むべき生徒が椅子の上から逃げ出さないようにというせめてもの配慮なのだろう。一昔前ならば手作り感に溢れるものが主流だったが、今ではスクールクッションだとか学童クッションといった名前で広く豊富に市販されているのもあって、手製のものの方が淘汰されつつある。 秀哉のクッションカバーも、一年生の時に母が買ってくれたものだった。サックスブルーの布地にプリントされているのは白の毛並みに黒斑模様と丸い垂れ耳でお馴染みのビーグル犬と、一見して鼻の大きな妖精のようにしか見えない黄色い小鳥。日本でもすっかり定番となった有名なアメリカンコミックのマスコット達だ。魔法少女アニメのヒロインや特撮のヒーロー、ゲームのモンスターといった今時のキャラクターの中にあっては比較的大人しめの絵柄であった。 生徒の好みを反映するものといえば、机の横にぶら下げられている手提げ袋などもそうだろう。この学び舎にあって個性を示すのは当人の装いよりも持ち物の方で、机の号数と併せて見ればそこが誰の席であるのか見当をつけるのも容易な事だった。 秀哉としては自分が尻に敷いているマスコット達に特別な思い入れはない。然りとて、冷たい椅子の上で毎日健気に待ち構えられれば愛着というのは湧いてくるもの。秀哉自身の好みとは異なれど、今となってはそれなりに大事にしていた。 子供の持ち物というのは親から与えられる物だから、往々にしてその子の背景までもが透けてくる。ブランド化した伝統的なマスコットというのは便利なもので、愛想と年相応さを演出してくれる上にそこまで嫌がられる事もない。秀哉はそういうものを持たされる子であり、秀哉の母もまたそういうものを持たせる親だった。 少し背伸びをする性質《たち》の子供であったのかもしれない。両親は共働きな上にひとりっ子で、祖父母も近場に住んではいなかった。普段から家族と過ごす時間が少ないためか、平日の夜や休日になると親のしている事にしきりと興味を示した。二人の趣味であるボードゲームに混ぜてもらうのも然り、父が居間で映画を観ていればそそと隣にやってきて最後まで居座っているのも然り。両親との時間を確保するために帰宅してまず宿題を終わらせるようなところなど、両親にとってはいじらしく映るとしても、同じ年頃の子達からしてみれば可愛げがない。本人には背伸びをしているつもりはこれっぽっちもないのだが、そう見えるというのも無理からぬ事ではあった。 秀哉だってゲームくらいはするし、朝夕に放送している流行りのアニメも観る。ただ、多くの同級生達のようにお気に入りのキャラクターがいる訳でもないというだけの事だ。宿題が終わればいつも一肇と日が暮れるまで遊び回っているし、他の友達も一緒に駄菓子屋で屯《たむろ》するのだって嫌いではない。ただ、両親に相手をしてもらう方が友達に付き合うよりも少しばかり楽しいというだけの事なのだ。 勢いに任せて燥《はしゃ》いでいる間は良いのだけれど、醒めるのはあっという間でつまらなかった。楽しさというのは刹那刹那に浸るもので、嬉しさというのは後にも寄《よ》す処《が》となるものである。より心に残るものに惹かれるのは、その感覚を知っているからだ。褒められるのも、認められるのも、励まされるのも、どれも秀哉は好きだった。好きというのは、知っているという事だ。嬉しい事が好きだった。嬉しい事を知っていた。 優越という感情を覚えるのは必然だったのだろう。幼い頃から物覚えが良く、両親もまたそんな秀哉を惜しみなく褒めてくれる人達だった。良くも悪くも、誇らしさはやがて独りでに見出されるようになる。勝ち負けの付随する遊戯は身の回りに有り触れていたし、小学校に上がれば否が応でもテストの成績や通信簿の数字が判りやすく指標として突きつけられる。 テストの成績ならば、クラスの誰にも負けないという自信が秀哉にはあった。比べて回った訳ではないが、日々の振る舞いや授業での様子を見ていれば誰がよくできる生徒かくらいは見えてくる。担任相手の受け答え、忘れ物の有無、授業や宿題に対する勤勉さ、それから、ちらと聞こえるテストの点数等々。 勿論、秀哉が幾ら可愛げがないとはいっても、こんな事を常日頃から考えている訳はない。子供ながらに漠然と、何とはなしに感じ取っているというくらいの事である。 秀哉の自負はそれよりも己の成績にあった。解ける、という感覚が堪らなく好かった。丸のついた答案用紙を見るのも嬉しかった。それを両親に見せるのも、同じく。たとえ十分に良い成績でも、赤ペンが描くばつ印を見るとむきになるようなところもあった。きっと、根っからの負けず嫌いだったのだろう。 .....三(2911字)    三 こつこつと響く鉛筆の音、これは競う音だ。秀哉のいっとう好きな音だ。凍えた手がぎこちない筆跡を曝していたのは始めの内だけだった。今はもう指先も滑らかに温まって、すらすらと紙上を躍っている。 廊下に満ちた冷気は無遠慮に閉め切られた室内に侵入してきては、未練がましくも幼い体温を奪おうと纏わりつく。子供の体はとくとくと温かい。如何にも冬の好物であるのだろう。太陽に恵まれぬこの季節も、偏《ひとえ》に暖を求める寂しがりなのだとすれば愛嬌すらある。凜冽《りんれつ》たるには程遠く、振り払えぬのを好い事に強請るしか術を持たないところなど、何ともこの土地の冬らしかった。 陽も射さぬ校舎の最奥に棲んでいるのは、憂鬱めいた寒さだ。凍てるような苛烈さとは無縁のそれも、鉛筆を握る手に縋りつかれる身からすればただただ疎ましい。殊に椅子の上でじっとしている事に苦痛を覚えるような子には、堪ったものではないのだろう。 幸いな事に、秀哉はここでそういった類の煩わしさに感《かま》けるような気質ではなかった。本当に、学童としては幸いな事であった。上履きの底に力を込め、小さく震えた膝小僧を抑えつけるように擦り合わせる。足元から這い上がる冷気をあしらうには、それだけで十分だった。 何かに没入するという行為は麻薬めいている。問題が解けるという事は快楽であり、他よりよくできるという事は悦楽だった。勉学は苦ではない。それどころか、成績を競う事にかけてはいっそ好戦的ですらあった。 生徒達は皆一様に顔を俯かせ、無言のままに机上に鉛筆を走らせている。手元で打ち鳴らされる音色の方は一律ではなく、秀哉のように威勢良く拍子を刻んでいるものもあれば、今にも消えてしまいそうに逡巡しているものもあった。重なり合う響きの中ではひとつひとつの機微などは埋もれてしまうが、いずれ後者は取り残される事で姿を現す事になる。勢いの良いものからこの音は消えていくのだ。 五時限目、科目は算数。教壇は蛻《もぬけ》の殻で、黒板も昼休みに清掃されたきり、板書はおろかチョークの消し跡ひとつない艶やかな深緑のまま黙って佇んでいる。担任はストーブを挟んで更に奥、窓際に置かれたデスクに腰を落ち着けていた。 二学期に習った九九のおさらいと称して始まった、抜き打ちの小テスト。配布されたプリントには十マス四方の枠線が印刷されている。一番上の段と、それから一番左の列にはそれぞれ一から九までの数字がばらばらに並んでいた。それ以外のマスは全て空白である。 問題文すら記述されていないが、これは答案用紙だ。クラスと名前を記入する欄もきちんとある。上と左に書かれた数を九九にしてその答えを書き込んでいく、それがこのテストのやり方で、秀哉の手許ではマスは既に七割方が埋まっていた。 早抜け式の小テストは、解答が終わった生徒から担任のデスクに答案用紙を提出しに行く。採点はその場で行われ、落第点ならば再び席に戻ってやり直し、及第点ならば残りの時間は何をするも自由だった。宿題をしようが、借りてきた図書の本を読もうが、他の生徒の邪魔にならないよう静かにさえしていれば、採点済みの答案用紙の裏に落描きをしようが、それこそ大っぴらに転寝をしようが構わなかった。 絵を描く趣味はあまりないし、眠たいという事もない。むしろ、冷たい机に伏せったのでは目も醒めるというものだ。本は嫌いではないが、図書の時間がない日にまでランドセルに入れてくるほどでもない。耽るような考え事もないものだから、何をするかといったら宿題しかなかった。ささやかな自由時間まで学業に勤しむだなんて、やはり可愛げがないのだろうか。これも子供らしい打算には違いないのだけれど。 今日は午前の国語から既に漢字ドリルの宿題が出ている。どれだけ計算が早くできても、漢字の意味や読み方を知っていても、書き取りにかかる時間は縮められない。 早抜け式というのは、言い方を変えれば、最後の一人が合格するまで終わらない。全員が合格すれば自由時間は打ち切られ、そこからまた授業が始まる。九九だけでそこまでもたつく生徒は流石にいないだろうから、秀哉がどれほど早く小テストを終わらせたとしても宿題を全てやりきるにはまず時間が足りない。それでも、少しでも遊ぶ時間が増えるならその方が良い。放課後は一肇と遊ぶのだし、その後だって両親と遊ぶのだ。好きな事となるとどれだけ時間があろうとも遊び足りない。 鉛筆を進める手が逸るのは、そればかりが理由ではない。自由時間はそもそもおまけだ。今、競っているのは九九を並べる速さである。誰より早く席を立つ自信があった。一度で満点をとる自信だってあった。自信はあったけれど、手を抜けば秀哉より早くこの答案用紙を埋めてしまうであろう生徒がいるのもよく分かっていた。だから、秀哉は急いていた。 例えば、斜め二つ前に座っている渋川和雪。隣のクラスに兄――確か、名前は孝雪――がいるが、二卵性双生児というやつなのか外見は双子の割にあまり似ていない。しかし、この兄弟は「でき過ぎている」という点においてはこの上なく双子らしかった。 小学生が羨望するものといったら、何であろうか。 この小さな箱庭で、概ね一目置かれるのは運動がよくできる子である。休み時間の花形といえばドッジボールだし、足が速ければケイドロをやったってヒーローになれた。★運動会の花形は徒競走とリレー、全校生徒のみならず保護者までもが沸き上がる。我が子を誇るは常であり、余所の子ならば褒めそやされる。スポーツができれば「格好良い」し、できなければ「格好悪い」と笑われすらする。それが、小学生の形成するひとつのヒエラルキーだった。  体育の授業では隣のクラスの様子もよく見聞きできるが、この双子は揃って足も速ければ、球技も水泳も飛び抜けて上手い。鉄棒、縄跳び、竹馬、何をやってもあっさりとこなして見せた。運動に関しては可もなく不可もない秀哉であるから、幾ら勝ち気であっても、彼らに挑もうなどという身の程知らずを起こしたりはしない。これに関しては、ただ純粋に羨ましかった。 孝雪は同じクラスではないからそれ以上の事をよくは知らないが、和雪の話には事欠かない。図画工作に書道、掲示される作品でいつも群を抜いて綺麗なのは和雪だ。一年生の今頃、廊下に貼り出された書初めを見た時は書道教室にでも行っているのではないかと思ったのに、習っていたのはピアノだった。ピアノの他にはスイミングもやっているらしい。いつだったか、授業参観の帰り道に噂好きの保護者達がそうお喋りしているのを聞いた。ふたりで、四年生の姉に連れられて通っているのだとも聞いた。 この優等生の双子は決して目立ちたがりではないのだが、何をしてもよく注目を集める。だって、和雪は勉強だってよくできるのだ。孝雪もきっとそうに違いない。和雪は小テストでもいつも秀哉と大差ない時間で抜けていくし、授業中に担任に当てられて回答を間違ったところも見た事がない。育ちが良いのか行儀も良く、明朗闊達で嫌味な振る舞いもしない。非の打ち所など、何処にもありはしなかった。 .....四    四 秀哉は優越を知っていた。同時に、優越の皮を被った劣等感ともこの二年足らずで既知となった。性根が負けず嫌いであっても身の程くらいは理解していたものだから、勝てぬと悟ればそれは羨望となるしか行き場のない感情である。 仮に、他の保護者達と一緒になって父や母が和雪の事を褒めていたら。きっと、羨望などすぐに拗れて嫉妬に変わっていただろう。両親は、少なくとも秀哉の前で他所の子ばかりを賞賛したりはしなかった。秀哉の自尊心をよくよく養ってくれる人達だった。 いつからだろう、他人の成績を気にするようになったのは。敵いもしない事だらけの相手に、たったひとつ対抗できる分野があったからだろうか。それとも、何でもできる優等生に己の数少ない取り柄を脅かされたからだろうか。たかがテストの点数、たかが小テストの順番。だけど、それらを意識するのは何もおかしな事ではない。人は競い合う生き物であり、好んで他を競わせる生き物でもあるのだから。 中学校、高等学校と上がるにつれて、学力はステータスとしては揺るがぬ地位を築くようになるが、小学校ではまだそこまでの絶対性はない。尤も、揺るがぬとはいえ、それとて社会的物差しのひとつに過ぎないのだ。尺度がある分、明示性があるだけで、考える葦を自称する我々が貴《たっと》ぶのは道理でありながら、それにしては些か形式化され過ぎてしまった学力主義、その評価基準としての成績を借りて何を競っているのかといえば、別にそれは学力などではないのだろう。 そう、それはきっと、もっと分かりやすい優劣だった。徒競走の順位やボードゲームの勝ち負けと同じで、とてもシンプルな優劣。より早く解けた、より正しく解けた。その事実だけが欲しかった。それで満足していた。まだ秀哉は単純な子供だったから。 和雪より早く、答案用紙を出しに行くだけだ。和雪に限らず、誰よりも早く。秀哉がこれほどの対抗意識を抱いているとは誰も思ってもみないだろうし、和雪の方にも競うつもりなどこれっぽっちもなかろう。これは秀哉が自分を満足させるためにやっている事だった。 こつこつと音を鳴らしながらマスを埋めていく、この高揚。残り僅かの空欄に解答を刻んでいく心地というのは、ボードゲームでじわじわと手を詰めていく時と似ている。ただし、これは暗記物の小テストだ。そんな難しいものではない。賽を振っていればいつかは上がれるような、答えを知っていれば必ず六の目が出るような、そんな簡単なゲームだ。むしろ、パズルに近いのかもしれない。 全てのマスを正しく埋めて完成させる事が目的のゲームで、秀哉はひとり速さを競おうとしている。削れて丸くなった鉛筆、その切っ先を最後の一行に向けた。今日も自分が勝つのだと、逸りながらも秀哉は疑っていなかった。 不意に、ことんと遠くで音がした。 思わず一瞬、手が止まった。けれど、その音が和雪の席よりも更に向こう側から聞こえたような気がして、顔は伏せたままちらと斜め前に視線を走らせる。 和雪は机に向かっていた。その手はまだ動いている。 安堵と同時に、はたと困惑が湧き上がった。あれは、椅子を引く時の聞き慣れた音だった。随分と大人しめに思えたが、聞き間違うはずはない。誰かが椅子を引いて、席を立ったのだ。秀哉でもなく、和雪でもなく、いったい誰が? 古い床板が体重を受けて微かに軋む、軽い足音。釣られるように秀哉は顔を上げた。今この教室で、たったひとり席を立った生徒の姿。和雪の背中越しに見えた特徴のある後ろ髪、その持ち主が誰であったか、しばし秀哉は分からなかった。 くるんと巻いた癖のある長い髪、それを無造作に緩く後ろで束ねた少女。これといって他に印象はない、目立たない女の子だ。男子の方が小柄になりがちな少年期にあっても、殊更に小柄な印象を受ける。 さっきのは嘘だった。本当は誰かなんて知っている。クラスメイトは二十六名、二年近く同じ教室で授業を受けているのだから全員のフルネームだって空で言えた。勿論、後ろ姿で相手を見分ける事くらい造作もない。似通った背格好の子も中にはいるが、地味とはいってもこの特徴的な容姿を見紛う訳はなかった。 そもそも、制服の後ろ姿だけで何故彼女にぱっとしない印象まで覚えたのか。そういう子だと、秀哉が認識しているからに他ならなかった。 関朱音。 教卓に向かって左、前から二番目。 豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたと思う。 冷え冷えとした日陰の教室に閉じ込められて、椅子の上を己が巣とする。野鳥ほどの自由もないのに、飼い鳥ほどの庇護もない。教育というのは義務であると同時に権利であるが、それを享受する環境が平等であった例《ためし》はきっとないはずだ。どう謳おうとも所詮は不可能事であって、均一な不平等がその代替ですらある。 .....章内プロット 朱音、テスト終了後ストーブが暖かくて寝てしまう 孝雪に話しかける秀哉 「どしたん」 「関って、頭良いの」 「良《え》えよ」 「手とか挙げないやん」 「恥ずかしいんやって」 理解できない秀哉。 「朱音は、幼稚園《ようちえ》ん時に年賀状くれてんで」 「俺が『あ』と『お』間違って書いてた頃」 「あいつ計算得意やし」 「そろばんやってんもん」 「頭の中でな、そろばんが動くねんて」 「そろばんは昔の人の計算機やねんで。あれで何でも計算しとってんで」 「掛け算も割り算もできるわ」 「そんなの、頭の良し悪し違うやん」 インコ脱走事件  一肇が朱音を気に入る 朱音が五目並べで遊んでいるところは秀哉もこっそり気に入った(友達を家に上げてくれる家庭は少ない事、秀哉の家も両親がいないから上げられないしボードゲームは持ち出すには大きいしトークンやらをなくしそうで怖い、そもそもルールを教えて分かる子がいない、などなどここで書いておく) まだ理解できない秀哉の前で安井の祖父が読み上げ算で勝負させる ついでに読み上げ暗算でも負ける 負けを認めざるを得なくなってそろばん塾へ行く事に .....没文格納所 今までにも小テストがあったなら、何故朱音は目立たなかったのか? ....@四年生    そろばん大会中  ゆったりと、還暦もとうに超えたであろう白髪の翁が朗々と問題の口火を切った。 「願いましてェはァ――」  一息、溜めて。 「七百」  秀哉は静止していた指をさっと七桁目へと滑らせた。 「三十八万四千百九十六円なァりィ」  一斉に珠を弾く音がぱちん、と高く室内に響き渡る。そこから先は篠突く雨の如しであった。  読み上げ算特有の節回しで響く大音声。一息で一口目の数を吐き出し、矢継ぎ早に次へと移る。まさに怒涛の勢いで繰り出される問題を、子供達の指が無心に追い駆ける。   クライマックス 指が遅れ始めた。秀哉の指はまだ前の数の百の位を置けていない。それなのに、もう次の億の位が聞こえている。 「四億とんで六百十三万」 鉛筆を握っている中指が引き攣るように浮いた。小指が震える。何に? 焦りと緊張にだ。 やっと一の位までを置き切り、億の位へと戻る。その移動の暇さえもがもどかしい。 「九千」 問題は今、千の位。嗚呼、億の位は四。 「七百」  その次は、とんで六百。 「四十」  十三万。 「八円なァりィ」  さっきよりもまた一桁遅れている事に頭の中が白くなった。そこで気付く。十三万の次の数は何だ? 鳴り続ける音の雨の中、秀哉の手許で音が消えた。指先は珠の上をさ迷っているが、置くべき数を見失った頭の中にもう次に読み上げられた数は入って来なかった。 気付けば最初よりも周囲の音も減っていた。前の席に耳を澄ます。まだ朱音の席からは軽快な調べが聞こえているように思えた。無論、秀哉と朱音の間にいる二人もまだ珠を弾いている。脱落したのは秀哉ひとりだった。 ふっと至近距離で鳴り響いていた音が消えた。どきり、としたが指は辛うじて止まらなかった。 和雪がご破算した。秀哉もぎりぎりで食らいつけているのが信じられないくらいだが、先に榎並教室の誰かが落ちるとは思わなかった。 朱音。止まるな、頑張れ。そう願うしかできない事がひたすら悔しかった。 「前も後ろも止まったの聞こえたから、指、震えたの」  恥ずかしそうに呟いて目を伏せた朱音を前に、はっとする。思えばいつも秀哉は最初に音を切らし、他の三人が弾き続けているのを聞いているしかなかったが。朱音は逆なのだ。皆が手を止めていく様を前に、後ろに聞きながら。後は自分ひとりという状況で戦っていた。榎並教室でする読み上げ算とは訳が違う。 皆が手を止めていく中でひとり残るなら、それは即ち「勝ち」だった。しかし、この団体戦は違う。同じ教室の秀哉や孝雪達が脱落すれば、勝つ為には朱音が弾き続けるしかない。他の教室の生徒達はまだ沢山残っている。「正解したら勝ち」ではない。「正解できなければ負け」なのだ。正解しても「負けない」だけで、勝ちはまだまだ先にあるのだ。 ...Case#灘「弟切荘」 ....登場人物 ■鎮埜家  父 母 長女 澪 次女 灘 三女 浅子 ■ヨハネス養護院出身者  ジョーンズ ソーニャ・メイ ■弟切荘経営組  施設長   ジョーンズ 施設庁補佐 穂坂芳江       穂坂芳次 書記    十返夏純 栄養士  調理員  嘱託医  ....序章  序章  灘が駅のホームに降り立つシーン。人並みに戸惑う様子と灘の外見を描写する。 ...Case#澪 ..ナディアの人狼 ...プロローグ  新月が浩々とした空に鎮座している。薄明は大気を瑠璃色に染め抜いて星明りを平らげていた。蒼白い風が頬をくすぐる。古紙とインクが醸し出すくすんだ空気の中に静謐な彼誰時(かわたれどき)の匂いが舞い込んだ。  乾燥しきった目を何度か擦る。このくらいの時間になると意識は冴えていても体の方が休息を求め始める。目の下にくっきりと隈が浮かんでいるのが鏡を見なくても判った。手元の便箋を元の折り目と寸分違わず畳み直して封筒に戻すと、引いていた本に栞代わりに挿む。所狭しと積み上がった本の山からは多種多様な手紙やメモ書きがびっしりとはみ出していて、几帳面とも無造作とも言い難い空間を造形していた。  積まれた本の並びを見ればそれらの本を引くに至った道筋は自然と浮かび上がる。探究のために書を紐解く場合、本を内容や著者あるいは年代毎に分類して並べるよりもこちらの方が遥かに文脈的だった。其処此処に堆く築かれた山は思索の痕跡をそのままの形で留めている。それで良いのだ。此処は個人の書斎であり、公の書庫ではないのだから。  雁鴨の羽根を削ったペンで走り書いたメモの内容を纏めてノートに書き写す。左右どちらの指も文字を辿る内に色移りして墨染めになっているが、ペンを握る右の手先は見事な斑模様だった。  開け放たれた窓辺ではカーテンレースが風に戯れている。朧気な陰影がカーテンの動きに合わせて陽炎(かげろう)のようにゆらゆらと床の上を泳いでいる。満天を染める薄明も窓際の精々一平方を淡く照らすに過ぎないが、それで十分だった。 折り重なった図書達が手に手にメッセージを差し出しているような様は意欲を誘う。  本の合間を縫って歩くと古紙の渓谷の中にいるような幻想を抱くことがある。年月をかけて磨かれた床の滑らかでひんやりとした感触、滝壺から立ち上る霧のように淡く満たされた 眠っていた草木が目を覚まし始める。 かさかさと忍び寄る 狐が一匹、澄んだ空気の中を駆けて来る。 その軽快な足音に気付き 大小無数の紙片が堆く積み上げられていた。 陽炎のカーテンを揺らす。 仄暗い室内。 墨染めの指が羽根ペンに添えられる。 ...序章#1 ナタリアの手紙 親愛なるミセス・フランクリン。 ご無沙汰しております。 このようなことで再び貴女にお目にかかるのは残念でなりません。 二十九日未明、フレッドの妻が亡くなりました。 私もフレッドも人狼の仕業と考えております。 少なくともこの夜は村では何事もなかったようですが。 遺体は損傷が激しかったので既にカークランドの子達に委ねてあります。 本来は町医者を待つべきところではありますが、何卒お察し下さい。 村は正午をもって閉鎖しました。 丸七日を過ぎても音信がなければ捜索の者を寄越して下さい。 商人、旅人の類は滞在しておりませんので、 尋ね人とこちらの件は一切関係ありません。 それでは、またご報告に上がれるようお祈り頂ければ幸いです。 かしこ。                        ナタリア・ブリュネ ....序章#2 アルフレッドの発言 キャサリンには虚言癖があった。 生まれつき病弱な体質が彼女をそうさせたのか、 とにかく誰かしらの注意を引かずにはいられない性格だった。 他人が振り向いてくれるなら多少の嘘も厭わないし、 嘘がばれたところで罪悪感を抱きもしない。 いや、もしかしたら抱いていたのかもしれないが。 だとしてもそれが反省という形になって現れることは滅多になかった。 彼女の吐く嘘は些細なものばかりで一々目くじらを立てるのも大人気ない。 だが、無視をして機嫌を損ねると彼女は物に当たる。 ペンを隠すくらいで済めば可愛い方だ。 インク壺をひっくり返されたり書状を何処かに捨てられたりしてはたまらない。 アルフレッドだけならばそれにもまだ付き合ってもやれるが、 彼女を宥めている間に家の者がそっと後始末をしてくれるのが どうにも申し訳なかった。 年老いた母かそれとも無関係の姪か。 どちらにせよ本来なら手を煩わせるべきところではない。 それでも彼女はとんでもない非常識という訳ではなかった。 少なくとも草木も眠るような真夜中に叩き起こされたのは この間の十六夜の晩が初めてのことだった。 「たいへん、たいへん、たいへん!」 寝惚け眼の視界に映ったキャサリンの白い肌は いつになく蒼褪めているように見えた。 ひどく動揺した様子で忙しなく肩を揺さぶる彼女に 驚いてアルフレッドは身を起こした。 「どうした、キャシー」 寝間着の襟を掴んでいた手が窓を指差す。 カーテン越しにもくっきりと窓枠の影が判るほど その夜の月光は冴え冴えとしていた。 「さっき何かがそこを通ったの」 アルフレッドは首を傾げた。 「何か?」 細く頼りない指先が縋るようにアルフレッドの手を握った。 「窓が一瞬真っ暗になったの。ねえ、熊じゃないかしら。あんなに大きかったのよ」 まさか、と笑い混じりの声が零れそうになるのを慌てて呑み込んだ。 村の周囲は森に囲まれており後背には山も広がっているが、 アルフレッド達の家は街道寄りに位置している。 獣は人里を好まないし、何かを求めて山から降りてきたのだとしても 家畜を狙う野犬の類ならさておき熊の活動圏からは外れていた。 それに山には森番もいる。 この辺りの山は何某という貴族の私有地で ある程度は人の手で管理されていた。 流石に広大な敷地の全てに手が入っている訳ではないが、 山の入り口に当たるこの村一帯で害獣が出たという記録はほとんどない。 森番を務める男は代々この村に住む家系の出で アルフレッドとも親交が深かった。 だけどと言い募るキャサリンを辛抱強く宥めていると 静寂の向こうから長く尾を引く遠吠えのような声が聞こえてきた。 不意に彼女が押し黙る。 「……狼だわ」 ....序章#3 アルフレッドの発言 その声が何処から聞こえてくるのか不思議と判らなかった。 知っているのは熊はこんな風には吠えないということだけ。 声の主はキャサリンが見たと言っている影とは無関係だろう。 そもそも彼女の言葉が本当かも定かではないのだけれど。 当の彼女はといえば影のことなど忘れたかのように 見知らぬ声に耳を澄ませ息を殺している。 窓の向こうには広大な墓地が広がっている。 村の半分近い面積を占める墓地は街の教会が所有していた。 村を訪う客人は第一が死者とその親族である。 彼らは二頭立ての黒い馬車に揺られて村の門を叩く。 普段は無精髭を蓄えて行商人を相手にしているひなびた御者も、 この時ばかりは上流階級の使用人と見紛うような 立派な装いで葬列をリードする。 村で生まれる者、葬儀以外の目的で村にやって来る者、 両者を足しても墓地で眠る死者の数にはきっと及ばない。 東の平原から村へ入るには必ずこの墓地を横切ることになる。 墓碑の合間に群生するリコリスは守人だ。 彼らの根が持つ毒は虫や鼠を遠ざける。 虫や鼠が寄り付かない場所には必然と獣も寄り付かない。 だから、狼だっているはずがないのだ。 況してやこの窓辺に影を落とすものなど。 「大丈夫だ、怖がることはない。熊も狼もこんな所までは来ないさ」 キャサリンの髪を軽く梳いて毛布を肩まで引っ張り上げてやる。 季節は陽春、寒さも柔らぐ頃ではあるがそれでも明け方は冷える。 渋々と枕に顔を埋める様子を横目にアルフレッドは窓を見た。 月明かりは一縷の翳りもなくひたとカーテンを照らし続けている。 小さく首を振り寝台にもぐり込むと隣で身動ぎする気配がした。 「でも、あなた。さっきの声は」 「明日、村の者にも訊いておこう。何か変わったことはなかったか。  だからもう今日は眠りなさい」 そう言い聞かせるとキャサリンはようやく口を噤んだ。 静けさを取り戻した夜はいつもと変わらないように思えた。 少なくともアルフレッドが眠りに就くまでの間に再び あの声が聞こえることもなかったし、 月明かりが遮られるようなことも起こらなかった。 キャサリンはそれ以上食い下がりはしなかったが、 すぐには眠らなかったようだ。 覚えている限り、その夜アルフレッドは彼女の寝息を聞いてはいない。 ....序章#4 アルフレッドの発言 夜は何事もなく明けた。 夜中の騒動があったにもかかわらずアルフレッドは 普段よりも少しだけ早く目を覚ました。 空はまだ白く夜明けの色に染められている。 しんと冷えた空気の中、床に足を下ろすと布団に残る温もりが後ろ髪を引く。 ぐっすり眠っている様子のキャサリンを起こさぬように そっと上着を羽織るとアルフレッドは寝室を後にした。 居間には既に火の気がありナタリアがかまどの傍で鍋をかき混ぜていた。 ベイクドビーンズの煮詰まったトマトと香草の香りが食欲を誘う。 「おはよう、母さん」 ゆっくりとした動作でナタリアがこちらに顔を傾ける。 アルフレッドとよく似た細い目が穏やかな微笑みを浮かべた。 「おやおはよう、フレッド。  少しだけ待っておくれ、今フィッシュパイを焼いているから」 「いや、用があって早く起きただけなんだ。  朝食は皆と一緒に頂くよ」 「そうかい。今日は何かあったかね」 齢七十を越えるナタリアは村の最長老だった。 若くして先代の村長である夫を亡くしたが、 アルフレッドが跡目を継ぐまでの間、 女手一つで立派に村長代行を務め上げた聡明な女丈夫でもある。 老若男女を問わず美しいと評判だった亜麻色の髪も今ではすっかり 雪のような白に変わり、母が送ってきた苦労の多い人生を思い起こさせた。 「昨夜、遠吠えのような声がしたのでね。  念のため、家の周りを見ておこうと思って」 「そんなに近かったのかい?」 「さあ、それがどうもよく判らないんだ。  私には遠いように思えたんだがね、キャシーが怖がるものだから」 キャサリンが主張した影の存在をぼかしつつそう説明すると 案の定、ナタリアは怪訝そうに白眉をひそめた。 「それはどちらの方角から?」 少し思い出すように顎鬚を撫で、アルフレッドは首を振った。 墓地の向こう側からだろうか、それとも山の方からだろうか。 どちらもあり得る。 声だけで判断できなかったのだから推測で断定はできない。 そう思いつつ、この時点で既に推測が先に立っていることを アルフレッドはまだ自覚していなかった。 「いや、判らない」 豆をかき混ぜるのをやめて鍋に木匙を立てかけると ナタリアはアルフレッドに向き直った。 普段は柔和な母の表情が壮年の頃のように何処か厳(いかめ)しく見えた。 「フレッド、朝食を食べたら村の者にも話を訊いておきなさいな」 「一応そうするつもりではいる。  正直、私も寝惚け眼だったから何処まで確かとも言い切れないのだけど」 大都市の真っ只中でもなければ昼夜を問わず、 獣の声が聞こえるのは別段不思議なことでも何でもない。 流石に本当に窓の外に獣の足跡が残されていたりなどした時には 真剣に遠吠えの主の居場所を突き止めなければならないだろうが。 ....序章#5 アルフレッドの発言 「おはようございます、お祖母様、叔父様。  朝から何のお話ですか?」 アルフレッドの後ろから居間に顔を出したのは姪のマーゴだった。 マーゴの母親はアルフレッドの末の妹にあたる。 気立ても器量も人一倍に良かった妹が隣村の薬草売りに嫁ぐと決まった時、 近隣の若い男連中が町の酒屋に集まって一晩自棄酒を飲み明かしたという。 恋に破れた何人かの憐れな男の与太話だとアルフレッド達は思っていたが、 酒屋の女房が言うにはどうやら本当のことらしい。 村の男もいれば当の薬草売りの兄に至るまで、我が妹ながら よくもまあこれだけの男を虜にしたものだと呆れ果てたものだ。 それでいて同じ年頃の娘達に妬まれたという話も聞かないあたり よくできた妹だったのだろうと思う。 その妹も先年隣村を襲った災厄が元で義弟共々帰らぬ人となった。 あの一件については今でも語りたがる者は誰もいない。 当時まだ幼かったマーゴに両親の死を思い出させるのはあまりに酷だし、 事件の後にこの村へ移り住んできたラディスラヴァという娘も同様に 身寄りをなくしたことで長い間塞ぎ込んでいた。 村に馴染めずはみ出し者になってしまうのではないかという危惧もあったが、 いつの頃からか森番の甥っ子と懇意になったらしく 今では頻繁に外を出歩く姿を見かけるようになった。 森番の見立てによれば、恋仲になるのもそう遠くはなさそうだとか。 ナタリアが表情を和らげて孫娘に挨拶を返した。 夫だけでなく娘夫婦にまで先立たれたナタリアの嘆きは深かったが、 遺された孫娘の成長を見守ることが今では一番の生き甲斐だという。 「おはよう、マーゴ。昨夜はよく眠れたかい」 「はい、とても」 柔らかくカールした巻き毛を揺らしてマーゴが頷く。 黒檀のように黒く艶やかな髪は妹譲りだ。 頬も羽毛のようにふっくらとして 仄かに薔薇色に息衝いているところがまた愛らしい。 花盛りの十六才。 行く行くは妹のように多くの男を魅了することだろう。 ナタリアが目の中に入れても痛くないほど可愛がるのもよく分かる。 さり気なくナタリアと朝食の支度を交代して くるくるとマーゴが木匙を鍋の中でかき回した。 豆汁でとろっとしたトマトソースを味見して薔薇色の頬がにこりと笑う。 もっとも少女は祖母の作る料理が大好きだから 渋い顔をすることなどないのだけれど。 ナタリアもそれを見ると満更でもなさそうな様子でゆっくりと揺り椅子に腰掛けた。 年季の入ったオーク材がきぃと小気味良い音をたてて軋む。 良質のオークで作られた家具はこの土地の旧家の証でもある。 元々は街に木材を供給するための伐採地として開拓された この村の北側にはかつては豊かなオーク林が広がっていた。 アルフレッドが物心ついた頃には既にそこには切り株しか生えていなかったが、 父や祖父の代の村の男達は余ったオークを使って家族のために 家具をこしらえるのが嗜みだったという。 村人の中には家具職人となり街へ帰っていった者もいた。 この村に街の人間が眠る墓地ができたのも村の成り立ちの由来している。 木々を伐採して生まれた平らな土地が今の墓地であり、 そこに埋められる棺桶を作っていたのが家具職人達だった。 今でも街から運ばれてくる一部の棺桶には古くなったオーク材が使われている。 恐らく取り壊したり建て直した建物の廃材を再利用しているのだろう。 街で消費された木が再び生まれた場所へ戻され眠りに就く。 誰が意図したものでもないのだろうが数奇な巡り合わせだ。 ....序章#6 アルフレッドの発言 「夜に獣の声がしたそうだから、お前も気をつけるんだよ。  フレッドがこれから様子を見てきてくれるけれど」 鍋を火から下ろそうとする手を止めてマーゴが顔を上げた。 窓から差し込む朝日が少女の額に淡い影を投げかける。 「獣の? まあ、全然気がつきませんでした」 光を透かすキャサリンのはしばみ色の瞳とは違って、 黒檀色の瞳は陽光を弾いてきらめいている。 ブリュネ家の子供は並べて深く黒い色の瞳を持って生まれるが、 目許がぱっちりとしたマーゴの瞳は特に太陽の下では 黒檀というよりも黒曜石のようだった。 あるいは朝露に光をたたえた瑞々しいブラックベリーの粒か。 マーゴの纏う柔らかい雰囲気を加味すれば後者の方が似合いの表現だろう。 マーゴの視線が窓の外へと向けられる。 リコリスの叢の向こうでは大小背丈も様々な墓碑が 逆光を浴びてシルエットになっていた。 ルナパールの花崗岩から切り出した質の良い石碑は 風化して欠けることなく角柱のくっきりとした造形を保っている。 太陽はそのシルエットが描く稜線を離れて間もない。 獣はおろか飛ぶ鳥一羽見当たらない静まり返った景色。 この場所から見える風景には移ろいがない。 強いて言えば、緩やかに空の色を染め替えながら昇る太陽だけ。 墓守は夏の終わりに花開くリコリスで歳月を数えるというが、 それはアルフレッド達にとっても同じだった。 「そう怖がることはない。私の夢かもしれないのだし」 俯きがちに黙り込んでしまったマーゴを見て アルフレッドは明るく言葉を続けたが、内心では複雑だった。 妹の嫁いだ村は獣によって滅んだと、ナタリアは信じている。 遺体を調べた街の医師によれば、病で死んだ村人の体には 様々な動物による咬み傷が確認されたという。 正確には、まずは野犬。 これは義弟の調薬日記にその存在が明記されていた。 手負いの野犬が村外れで遊んでいた子供の一人の足に咬みつくと、 更に逃げる子供達を追って村の中へと入り込んだ。 騒ぎを聞きつけた大人達は棒切れを手に野犬をとり囲みこれを どうにか打ち殺したが、涎を散らし目を血走らせて誰彼構わず 飛びかかってくる様はとてもではないが尋常ではなかったという。 それでいて血気盛んという様子ではなく、 むしろ足腰などは弱っているようにも見えたというから解せない。 動物の母親などは子供が目の前で襲われれば普段では 思いもよらないような痛烈な反撃に出ることもある。 だから、獣は相手が弱者であっても群れている間は基本的には襲わない。 況して、自分が弱っている状態で人の集落に入り込み中途半端に 大人達を刺激するなど、これを狂犬と呼ばずして何を狂犬と呼ぶのか。 ともあれ、これだけならば単なる奇怪な事件で済んだのだが、 それから僅か一ヶ月の間に五人もの村人が正体不明の病を発症し 死に至ったと義弟は書き残している。 何かにとり憑かれたように夜中に彷徨する者。 獣のように唸りながら地面を掘り返す者。 義弟も具合を看ようとして近付いた男の子に腕を噛まれたらしい。 野犬に襲われた際は混乱しながらも母親に宥められて我慢強く じっと手当てをさせてくれたのにと書いているから、 義弟としてもその豹変振りには随分と驚かされたのだろう。 その後、病はあっという間に増発し村を滅ぼしてしまった。 村の周辺からは病死したと思しき動物の死骸が大量に発見され、 一帯はすっかり病と狂躁の恐怖に呑み込まれた。 いち早く異変を感じた一握りの者は結果的に村から逃げ延びることが できたが、ひとたび病魔に侵された者は看病の甲斐もなく命を落とし 誰一人快復することはなかった。 幼いマーゴを救い出しこの村へ連れて来てくれた青年もそんな 一握りの幸運な村人の一人で、初めはアルフレッド達も隣村で よもやそのような惨事が起きているとは俄かには信じられず 青年を人攫いではないかと疑ったりもした。 事の次第を確かめようとも青年は今隣村に立ち入ってはならないと言うし、 ナタリア共々焦燥としながら日々を過ごすのは辛かった。 やがて何人かの村人を連れて青年と訪れた隣村は、既に廃墟と化していた。 妹の亡骸は義弟と寄り添うようにして寝台の上にあった。 ざっくりと頚動脈をかき切られ赤黒い血に塗れた妹と草刈り鎌を 己の胸に突き立てて絶命している義弟を見つけた時は、眩暈がした。 ナタリアやマーゴには、言えるはずがなかった。 かといって何が起こったのかを推測し胸の内に抱え込めるほど アルフレッドは隠し事が上手くはなかった。 義弟の調剤日記には幾つかの真実が綴られていたが、 アルフレッドはそれを誰にも見せず焼き捨てることを決めた。 まだアルフレッドが若かったこともあるが、母にも相談できないような 出来事は未だかつてなく、この重大な秘密を守り通せたのは ひとえに心強い年下の幼馴染がいてくれたおかげだった。 墓地と家を隣接するアルフレッドにとって隣家とは墓守の家である。 墓守の家には二人の姉弟がおり、姉はアルフレッドと同い年だった。 そういえば彼女も一人娘を遺して早くにこの世を去っている。 そのため今は彼女の娘が墓守の務めを継いでいるが、 彼女の弟は今も墓堀として墓地の奥で暮らしていた。 醜く爛れた顔を持つ無骨で口数の少ない大男は、 これまで数え切れないほどの死者と対面してきた。 その中には顔見知りもいただろうし、 扱う遺体も綺麗なものばかりではなかっただろう。 死して尚貴賎に応じた態度を世間は要求する。 多くの人は生前は死体を扱う仕事は賤民のするものだと考え、 彼らに同等の人として接することを頑なに拒む。 それでも彼らは何一つ不平を申し立てず、 求められる礼節を死者に対して忠実に尽くすのだ。 幼馴染である以前に一人の職人としてアルフレッドは 墓堀の繊細な心配りを評価していた。 ....序章#7 アルフレッドの発言 墓堀は妹夫婦の亡骸を村まで運ぶのを手伝ってくれた。 当時まだ存命していた墓堀の姉――先代の墓守にも 随分と世話になったのを覚えている。 生前妹は墓守のことをよく慕っており、 墓守もまた妹を本当の姉妹同然に可愛がっていたような節があった。 賤民の娘と村長の娘という世間体を気にしない者の前でならば 二人は互いに微笑み合うこともあったが、 心を許せぬ第三者の前では墓守はあの居並ぶルナパールの石碑のように 表情を硬化させ余所余所しい態度を取るのだった。 その態度に最初は寂しさを露わにしていた妹もやがて分別がついてくると 赤の他人のような顔で墓守の前を素通りするようになったが、 胸中に苦い諦念を抱いていたのはアルフレッドがよく知っていた。 アルフレッドと墓堀の間にあるものはきっと彼女達とよく似ていたから。 妹夫婦の遺体を運び込んだ時、墓守は目に涙を浮かべて言った。 この手で葬儀を手がけられることがたった一つの慰めだ、と。 アルフレッドは墓守がそう口にしたという事実に少なからず驚いたが、 墓守が遺体の頬を愛おしげに撫でる様を見て口を噤んだ。 薄氷色(アイスブルー)の瞳が今にも割れてしまいそうに儚くて、 アルフレッドでなくとも何も言えなかっただろう。 元より咎めるつもりなど毛頭なかったが、墓守は妹の死にも冷静に、 言い方を変えれば淡白に接するだろうと予想していたから面食らったのだ。 予想が間違っていたというよりも、 予想を超えられたという方が正しいのかもしれない。 アルフレッドは血に塗れた冷たい亡骸へと変わり果てた妹を おいそれと抱き締めることはできなかった。 畏ろしかったのだ。 それが妹の遺体であっても、触れることは怖かった。 この体温のない重たくて硬い手は本当に妹の手なのだろうか。 隣村を出てからも絶えず纏わりついてくる腐臭も妹のものなのだろうか。 墓堀がいなければアルフレッドは二人の遺体を 村まで持ち帰ってくることは到底できなかっただろう。 たとえアルフレッドが墓堀のように立派な体躯と腕力を持っていたとしても。 墓守達が何故世間の人々から異質なものとして見られるのか、 三十を過ぎて初めて明確に知ったような気がした。 ナタリアにどう事の次第を説明したかははっきりとは覚えていない。 マーゴがいたことを逆に幸いとし、ナタリアにマーゴを押しつけるようにして アルフレッドは一足先に墓守の作業場である遺体安置所を訪れた。 安置所にはマスカットのほの甘い香りが染み付いており、 アルフレッドを出迎えた墓守もまた甘いエルダーフラワーの香りを纏っていた。 室内に並べられた二基の棺の窓を開くと妹と義弟が白い死装束を着て眠っていた。 アルフレッドが畏れた生々しい死の影は綺麗に拭い去られていたが、 妹の首許の大きな傷だけが白粉でも隠しきれずにその存在を主張していた。 遠目には判らないかもしれないが、覗き込めばそれが 頚動脈を掻き切るほどの深さであることは一目瞭然だった。 豊かにカールした黒髪を幾房か胸許に垂らしてみても隠しきれるものではない。 途端にアルフレッドは不安になり墓守を見た。 物言いたげな視線を察してか墓守は部屋の隅で献花用のバスケットから 白百合を選りすぐって花束を作っていた娘を呼び寄せた。 マーゴより年嵩のほっそりとした少女はヨーランダといい、 墓守よりもどちらかといえば父親のランタン職人に似ていた。 キャサリンの白さとはまた違う、月明かりを浴びたような蒼白い肌。 腰まで伸びた銀糸の髪は流れるようにきめ細かい。 華奢な手足は少し骨ばっていてマーゴのようなふっくらとした愛らしさはないが、 銀糸の睫毛の縁から墓守を頼りなげに見上げるつぶらな薄氷色の瞳は仔犬のようだった。 ヨーランダが差し出した花束を墓守は二人の胸に抱かせた。 重なり合った白百合の花でさりげなく首許を隠すと 優しい手つきで妹の額を軽く撫ぜる。 墓守がナタリアとマーゴを呼んでくるよう言いつけると、 ヨーランダはスカートの裾に付いた白百合の葉を払って小走りに外へ駆けていった。 墓堀は姉の仕事を見守りながらヨーランダと一緒になって花を編んでいたが、 ナタリア達がやってくる前にいつの間にか姿を消していた。 ....序章#8 アルフレッドの発言 ナタリアは棺に横たわる妹と対面しても何も言わなかった。 妹の死因がよもや他殺、しかも義弟の手によるものだとは 露ほども思いもしなかったに違いない。 墓守の仕事はそれほど素晴らしかった。 ナタリアに少し遅れてマーゴが青年――隣村からマーゴを連れ出してくれた 彼だ――に抱っこされて安置所にやって来た。 義弟の調剤日記の最後にフィリップ・エリクソンという名の男にマーゴを この村へ送り届けてくれるよう託したという旨が記載されていたため、 青年に対する疑念はこの時点ではすっかり解けていた。 年の頃は二十そこそこだろうか、癖のあるアッシュブロンドの短髪に 二重瞼ではっきりとした目鼻立ちの人好きのする青年だった。 着のみ着のままで避難してきたのであろうフィリップに貸し与えた アルフレッドのワイシャツは、少し痩せ型の体には大きかったようで 無造作に肘の辺りまで袖が捲り上げられていた。 フィリップに抱き上げられたまま両親の棺を覗き込んだマーゴは、 黒檀の瞳を真ん丸にしてじぃと視線を二人の間で行ったり来たりさせていた。 義弟はきっと狂躁の病に冒されてしまったのだろう。 野犬に噛まれ、野犬のように義弟を噛んだ男の子のように。 「それに、この村の建物は頑丈だ。  戸締りさえ怠らなければ家の中で獣に怯える心配などないよ」 僅かな間を置いてマーゴが相槌を打つ。 「そうですね、隙間風だってこの家には入ってこれませんもの。  でも獣が外にいたら怖い」 アルフレッドは軽く頭を掻いた。 マーゴはどうにも甘え下手なところがある。 伯父の世話になっているということは それほど深く負い目を感じるべきことなのだろうか。 無論、血縁とはいえ実の親子とは違う訳だから 多少の気遣いが生じるのは当然だろうが。 ナタリアやアルフレッドを困らせることはないし、 逆にいつもあれこれと気を利かせてくれている。 キャサリンに至っては彼女の方がマーゴを困らせているくらいだ。 それすらマーゴは迷惑だとはおくびにも出さないけれども。 こちらが見兼ねてしまうようなことは日々多々ある。 大人が諭せばどんな不安も胸の内に仕舞い込んでしまう。 それは解っていてこちらも  でも、ヘイワードさん達は閉じこもってばかりもいられませんし」 農家は アルフレッドの家から沢伝いに雑木林を越えると畑に出る。 牧畜を営む農家は村の貴重な賄い所である。 種蒔きや収穫の時期には村人は総出で畑に集まり 日が暮れるまで汗を流した後、プラム酒を酌み交わして労をねぎらう。 同様に普段から家畜や牧人の安全を気遣うことも村人達の暗黙の義務だった。 「」 煤が混じり変色した蝋は固まった後まで血に似ていた。 ...寓話 ....里に狼が生まれた日 ..Howl Taler ...登場人物 ROM  ハウル・テイラー  Howl Taler 人狼  イェルク     Joerg アドルファ    Adolfa オルトヴィン   Ortwin 狂人  リーゼロッテ   Lieselotte 人狼            隣村を滅ぼした少女 共有者  レア       Lea ヨナ       Jonar   レベッカ   Rebekka        レアとヨナを育てた修道女 ラヘル    Rachel        レアの妹   隣村の地主の息子に見初められ嫁ぐ 占い師  フロレンツィア  Florenzia          愛称:フローラ 狩人  テオフィル    Theophil          愛称: 霊能者  ルーカス     Lukas          愛称:ルカ 村人  フェルテン    Velten  メリーナ     Melina アロイス     Arois ニクラス     Niklas アヒム      Achim フェリックス    Felix ..放課後のDRAGNET ...シリーズ構成 ....青砥和希編 ■主人公  青砥和希      高校一年生 ■メインキャラクター  灘崎千夜      中学三年生 青砥静希      高校一年生 ■サブキャラクター  青砥和義 砂原静夏 灘崎晃       高校二年生 灘崎小夜      小学四年生 カミル・ラドムスキ 故人  Kamil Radomski ....狼坂飛鳥編 ■主人公  狼坂飛鳥      高校二年生 ■メインキャラクター  ソーニャ・メイ   中学三年生相当 斜森智春      高校二年生 東海林マリア愛   高校三年生 ■サブキャラクター  狼谷結       高校三年生  東海林ヘンルィク司 大学二年生 青砥和希      大学新卒 青砥静希      大学五年次 灘崎千夜 ....リーラシルト編 ■主人公  アルノシュト・ウェンピツキ  Arnost Lempicki  チェコ・ポーランド出身の青年。 アグニェシュカの弟、姉の死の真相を追究すべくリーラシルト家の門を叩く。 ベルナデットの次の歴史の見学者=B ■メインキャラクター  デトレフ・フォン・リーラシルト  Detlev von Lilaschild  ベルネット家からの養子、リーラシルト家の次期当主。 発狂したリヒャルトを殺害し、山中の城へ引き篭もる。 愛する義妹を殺された恨みから、人為的に人狼を作り出す事に成功する。 マルガレーテ・フォン・リーラシルト  Margarete von Lilaschild  リーラシルト家の次女、デトレフの義妹。 重度のハンチントン病で幼少期から深窓で育てられた。 症状を見た村人により狼憑きとして公衆の面前で私刑に遭い死亡する。 リナス・ミシュキニス  Linas Miskinis  リトアニア出身の琥珀行商人。 行商中にキャラバンからはぐれ、狼に襲われたところをベルナデットに匿われる。 デトレフの臨床実験の実験体とされ、世界初の人工人狼となる。 ベルナデットはこれを人狼症≠ニ名付けた。 ラサ・ミシュキニス  Rasa Miskinis  リナスの妹。 兄、リナスと共にベルナデットに匿われる。 リナスの変貌を知り、アルノシュトと共に発狂した兄を追う。 ベルナデット=ルネ・ラグランジュ  Bernadette-Renee Lagrange 祖父と共にリーラシルト家に仕える従者。 幼少期に歴史の見学者≠ニなっている。 リナスに殺害されそうになったアルノシュトを庇い、死亡する。 その際、歴史の見学者≠ヘアルノシュトに移った。 アグニェシュカ・ウェンピツカ  Agnieszka Lempicka  リーラシルト家の従者、チェコ・ポーランド出身。 マルガレーテを庇おうとして共に私刑に遭い死亡している。 ■サブキャラクター  リヒャルト・フォン・リーラシルト  Richard von Lilaschild  リーラシルト家の当主。 ハンチントン病の末期症状にある。 エルフリーデ・フォン・ベルネット=リーラシルト  Elfriede von Bernet-Lilaschild  リヒャルトの妻にしてマルガレーテの実母。 マルガレーテ出産後にリヒャルトにより殺害されている。  ウルリーケ・フォン・リーラシルト  Ulrike von Lilaschild  リーラシルト家の長女、病弱でデトレフが引き取られた頃には既に死去している。 エミル=フランシス・ラグランジュ  Emile-Francis Lagrange  エルフリーデの幼い頃からの従者。 ベルンシュトレーゼ  Bernstrese ベルンシュタイン  Bernstein オトフリート・フォン・ベルンゲール  Otfried von BernGer ■時代背景 17世紀、オーストリアによるベーメンへのカトリック再導入に加わり、 リーラシルト家はグリューンベルクへ入植。 以後、プロテスタントの弾圧に加担しながらも没落の一途を辿る。  時は流れ、オーストリア継承戦争、通称七年戦争が本編舞台となる。 ■詳細  1740年10月20日、神聖ローマ皇帝カール6世崩御。 同年10月26日、プロイセン王フリードリヒ2世出兵を決意。 同年12月16日、シュレジェン侵攻開始。 第一次シュレジェン戦争勃発。 同年12月22日、プロイセン軍がグローガウ近郊ヘレンドルフに到着。 住民に対する布告を発布、地域の貴族を出頭させる。 翌年1月3日、ブレスラウ無血開城。 プロテスタント貴族と共に祝宴が開かれる。 1742年6月11日、ブレスラウ条約締結。 これにより、グリューンベルクは正式にプロイセン王国へ併合される。 一連の流れの中でリーラシルト家は消滅。 その後はドイツ統一の流れでドイツ帝国へ。 第二次世界大戦末期にソビエト赤軍により占領。 ポツダム会談によってポーランドの管理下に置かれ現在に至る。 ポーランド系住民の移住により、名称はジェロナ・グラへと改名された。 ....ラグランジュ編 ■主人公  マリユス=アルフレッド・マリオット  Marius-Alfred Mariotte  アルビノで生まれたため、リヒャルトに亡き者として扱われる。 本来は殺されるはずだったが、エミルに匿われ育てられる事となる。 アルフレッドという名は実母、エルフリーデに由来する。 ベルナデット=ルネ・ラグランジュ  Bernadette-Renee Lagrange  エミルの正式な孫、マリユスからは従姉に当たる。 マリユスの良き理解者。 ■メインキャラクター  エミル=フランシス・ラグランジュ  Emile-Francis Lagrange  レティツィアの元従者にしてエルフリーデの実父。  エルフリーデの輿入れに従いリーラシルト家に仕える。  マリユスの実の祖父に当たる。  エルフリーデ・フォン・ベルネット=リーラシルト  Elfriede von Bernet-Lilaschild  レティツィアとエミルの間にできた娘。  リーラシルト家当主リヒャルトへと嫁ぐ。  マリユス、ウルリーケ、マルガレーテの三子を出産し病死する。 リヒャルト・フォン・リーラシルト  Richard von Lilaschild  リーラシルト家当主、エルフリーデの夫。 ■サブキャラクター  レティツィア・フォン・ベルネット  Leatizia von Bernet  ベルンシュトレーゼ分家、ベルネット家の娘。  夫に子ができない体質だったため、長らく跡継ぎ問題に苛まれる。  苦悩の末、従者であったエミルと二子をもうける。 リーンハルト・フォン・ベルネット  Lienhard von Bernet  ベルネット家の跡継ぎ。 エルフリーデの実弟、エミルの実子、マリユスの実叔父に当たる。 ..鵞鳥の詩〔小説版〕 ...メモ イソップ  紀元前六世紀 ギリシャの奴隷アイソーポスの事 主人の機嫌取りに道徳を語る 語りが上手く奴隷を解放される 後、寓話の語り手として各地を巡る それを妬まれ市民に殺されたとされる グリム  十八世紀後半 ドイツの民間伝承研究者 二一〇の伝承を収集 アンデルセン  十九世紀始め デンマークの作家 一五六の童話を創作 繊細で気弱だったという グリムはアンデルセンより二十程年上 一八四四年にアンデルセンが訪独 グリム兄に会っている 数週間後にグリム弟が訪丁 フォンテーヌ  十七世紀 フランスの詩人 イソップ寓話を基にした詩を書いた 北風と太陽、卵を産むめんどりなど 「すべての道はローマへ通ず」などの格言も残している ペロー  十七世紀 フランスの詩人 ペロー童話集で民間伝承をまとめている 物語性を重視したため脚色がある キャロル  十九世紀半ば イギリスの作家 マザー・グースに造詣が深い ナーサリー・ライム  呼称の初出は一八二四のスコットランドの雑誌 マザー・グースが伝承童話を指すのに対して、こちらは新作を含む童謡全般の総称 童謡、わらべうた、子守唄 ナーサリーは「子供部屋」、ライムは「押韻詩」 マザー・グース  一七八〇に出版された童謡集のタイトルとして採用 出版者はニューベリー 一七四四に出版された「トミー・サムの可愛い唄の本」が実在が確認されている最古のマザー・グース集であり、一七八〇のものはこの続篇と考えられる ペローの「昔ばなし」が一七二九年に英訳された その際に口絵にあった「コント・ド・マ・メール・ロワ(鵞鳥母さんのお話)」という文章を英訳してタイトルに据えた これ以降、童謡集や伝承童話に対して「マザー・グース」という語を用いる慣行が定着したとされる 魔女としてのキャラ付けは一八〇六のパントマイム「ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご」が初出、この劇が好評を博した事で定着した アメリカでエリザベス・グースという未亡人が童謡集を出版し、ここから伝承童謡の総称として広まった説もあるが、グースの曾孫により否定されている(匿名による新聞投書ネタから広まった作り話であり、そのようなタイトルの書物も存在しない) 少年の魔法の角笛  一八〇六‐八に出版された民衆歌謡の詩集 ドイツ版マザー・グースとも言われる ...駒鳥の葬列 駒鳥の葬列 1.Sparrow(雀)‐Arrow(弓)‐殺す 2.Fly(蝿)‐Eye(眼)‐見る、発見する 3.Fish(魚)‐Dish(皿)‐受ける 4.Beetle(甲虫)‐Needle(針)‐縫う 5.Owl(梟)‐Shovel(ショベル)‐掘る 6.Rool(ミヤマガラス)‐Book(聖書)‐司祭 7.Lark(雲雀)‐Dark(暗い)‐付き人 8.Linnet(鶸)‐Minute(時)‐松明持ち 9.Dove(鳩)‐Love(愛)‐喪主 10.Kite(鳶)‐Night(夜)‐棺運び 11.Wren(ミソサザイ)‐Hen(雌)‐棺布運び 12.Thrash(鶫)‐Bush(籔)‐歌う 13.Bull(フィンチ)‐Pull(鳴らす)‐鐘 ...再構築プロット テーマ  マザー・グースになりたかった鵞鳥と、孵りたかった卵。駒鳥を殺したかった雀と、葬式をしたい鳥達。恋をしていたいミソサザイと、それでも恋人を諦められないミソサザイ。物語なくして存在し得ない者達の、それでも抗いたい心。書き手がそれを容認した時、IFとして新たな物語が動き出す。全ては創造主の心の侭に。 アバンタイトル  鵞鳥小屋の中に捨てられた卵があった。生まれる事の出来なかった亡霊はナーサリー・ライムに迷い込む。それは屋根裏部屋に詰め込まれた妄想の成れの果て。卵は自らが生まれ出る物語を求めて童話の森を彷徨う。魔法使いキャロルの使い魔である兄妹猫に誘われて神の一柱であるグリムと出会った卵は、双子のハンプティ・ダンプティという姿と名前を与えられマザー・グースに会いに行く。兄のグリムは収集者として行方を見守り、弟のグリムは編纂者としてその未来を嘱望する。望みの対価は不幸、不幸の対価は望み。鵞鳥と卵には不幸を、駒鳥には復讐という対価を。ミソサザイはそれを見て何を思うだろうか。(※駒鳥が巻き込まれて殺される事が前提)  鵞鳥の世話をしながら、老婆が孫娘に歌い聞かせる。誰が殺したクックロビン。誰が殺したクックロビン。真似て歌った鵞鳥の前で駒鳥が落ちてきてぱたりと死んだ。その瞬間から鵞鳥は魔法の虜となる。この私も偉大な魔女になれるに違いない、と。妄想にとり憑かれた鵞鳥は生んだばかりの卵を放棄して歌い続けた。誰が殺したクックロビン。誰が殺したクックロビン。 殺され続ける駒鳥 プロローグ  マザー・グースに憧れた母鳥に捨てられた卵。グリムは彼らの純粋な「生まれたい」という望みに「孵してくれなかった母への恨み」を「執着」という形で与える。卵は母鳥を憑り殺す為だけに仮初めの命を与えられた、殻の内に不幸を温める。 第一幕・第二幕  世界観紹介。 第三幕  ロビン少年と鳥達の一場面。この世界は駒鳥を殺し過ぎた。次は誰が駒鳥にされてしまうのだろう。 第四幕  ロビン少年が殺されて木の下に埋められるまで。 幕間  ロビン少年を駒鳥に変える魔法。 第五幕  ロビン少年から駒鳥へ。 第六幕  グリム童話「ネズの木」より駒鳥によるロビン少年の復讐。物語の都合で駒鳥にされてしまったのだから、復讐くらいは果たさせてあげなければ可哀想だろう?……というのは弟のグリムの言。 第七幕  クックロビンの唄の紹介。 ティータイム  ディスク分割の為のインターバル。 第八・九幕  クックロビンの筋書き通り。 第十幕  殺人鬼ジャックの心境。ここにも筋書きに抗いたい登場人物がひとり。 第十一幕  駒鳥の番、レン。マザー・グースを外れれば番ではなくなり、マザー・グースである限りロビンは死を免れない。 第十二幕 ..御伽の森の人狼  エルゼはいつだって勝手だ。 ..人喰いフィルフの物語 ..式神鳥 菜乃花牡丹  モデルはボタンインコのキョロ。 鶴鳴(かくめい)  モデルはローラーカナリアのローリー。 苗 モデルはマメルリハのマル。 鳳鳴(ほうめい) モデルはローラーカナリアのスギ。 瑠璃 モデルはマメルリハのアオ。 鹿鳴(ろくめい) モデルはローラーカナリアのマツコ。 .戯曲 鵞鳥の詩 ..アバンタイトル アバンタイトル -Schwarzwald- 登場人物:  グリム兄 グリム弟 キティ スノードロップ オウル グリム兄弟は二重人格の同一人物として演じて下さい。キャストは同一、口調だけを分けます。思い切り癖をつけて濃いキャラにして構いませんので、同じ声で別人格と判るよう演じ分けて下さい。演じ分け優先で多少の台詞回し変更も演じる側の裁量とします。 〔狭間の世界:森〕 ナレーション。文学者が地の文を綴っているような情景描写。モデルはドイツの『黒い森』。 グリム兄 「蓊鬱《おううつ》とした森を彷徨う二つの足音。高々と育ったトウヒの木々はその枝を重々しく垂れ下げ、昼なお暗く小径《こみち》の頭上を閉ざしていた」  夢と現実の狭間に迷い込んだガチョウの卵の魂が二つ、まだ名前も個性もないのっぺらぼうの姿で歩いている。周囲はヘンゼルとグレーテルが迷い込んだような深い森。時折、ニャァオ、ホゥホゥと猫と梟の鳴き声が聞こえる。 ※ キティとスノードロップ、それからオウルの声。 ここでは動物達は本来の動物の姿をしている。三 匹は後述の家の中にいるため、鳴き声は遠い。キ ティ、スノードロップ、オウルそれぞれ何種類か 鳴き声を収録しておいて下さい。 グリム兄 「針葉樹の枯れ葉に覆われた土は冷たく乾いている。 痩せた森に降り積もった落葉落枝《らくようらくし》は腐りもせず、柔《やわ》 な音をたてて踏み拉《しだ》かれる。足音はその上を幼子の ように覚束《おぼつか》なげに、森に潜伏する脅威を知らぬかの ように軽《かろ》らかに、当《あ》て所《ど》なく薄闇の中を奥へ奥へと 分け入っていく」 かさかさと草叢を踏み分けながら歩き続けた後、明かりの灯った一軒の家を見えてくる。誘われるように足音はまっすぐ家に向かう。途中、足音は草叢を踏む音から露出した土を踏む音へ。ドアの前で立ち止まりゆっくりとノックする。 ※ 幼い子供がノックするように拙く軽い音で。 足音もなく内側から錠が外れる音がして、ドアが開く。 ※ キティが錠を外したため、人間の足音がしない。 〔→狭間の世界:グリム兄弟の家〕 ドアが開くとクラシック系のBGMが小さく流れ始める。 ※ 落ち着いた・メルヘンチックな・綺麗なBGM。 さっとキティの気配がドアの裏に消える。辺り一面本や紙だらけの散らかった部屋。正面奥の書斎机にはグリムが腰掛けており、机の上ではスノードロップが丸くなってグリムに寄り添っている。椅子の背にはうつらうつらしているオウル。奥では暖炉で火が燃えている。グリムが無心に書き物をしている音が聞こえる。 グリム兄 「森の深みに佇《たたず》むのは、魔女の家であるとされた。村 を追われた除け者達を匿う森はしばしば魔境と見做《みな》さ れ、そこに棲まう獣達と共に人々の畏怖を集めた。決 して豊かとは言い難い土地からこの流刑の地へと追わ れるのは罪人《ざいにん》ばかりではなく、多くの無辜《むこ》の子供や老 人が打ち捨てられる森は、正《まさ》しく悪魔の住処であった」 ここから足音は木の床を踏む音へ。戸惑いがちに二歩、三歩と奥へ進む。  ※ それに応じてBGMと書き物の音が大きくなる。   音源がグリムの手元あるようなイメージ。 グリム兄 「世の明るみから淘汰《とうた》された者達は暗がりでもなお淘 汰され、過酷な森に生きる術を持った知恵者をやが て人は魔女と呼んだ。『かような地で生き長らえる 者は、人ならざる何某《なにがし》かの寵愛を受けているに違い ない』『かような地に追い遣《や》られた者が、神の加護 を受けている筈《はず》はない』『なれば、そは悪魔の他に なし』……賢くあるが故に魔女は人に畏れられ、排 斥者であるが故に魔女は人に嫌われた」 じっと聞き入っている。 グリム兄 「この哀れな生き物を、どうして憐れまずにいられよ う。嗚呼、されど。もはや彼等は偶像になりて久し い。我が弟が最初に描いた魔女は、私が拾遺《しゅうい》したま まのヒトであった。しかし、六度《むたび》筆を加える内に、 彼等は致命的なまでに『悪者』へと変貌してしまっ たのである」 * * * おもむろに顔を上げ、書き物の手を止めるグリム。最初から気付いて語り聞かせをしていたが、少しわざとらしく『今気付いた』風を装う。 グリム弟 「おや、奇妙なお客サマだよ。ねえ、兄上?」 グリム兄 「ふむ、いささか場違いな客人だな。弟よ」 来訪者の様子をちらと観察して。 グリム弟 「そうかな、兄上? ボクはイイと思うけど。すごく 可愛いし、何よりとっても純粋だ。そう、あの子達! ヘンゼルとグレーテルに似てるんだよ。 So《ゾー》 unschldig《ウンシュルディヒ》.ふふっ」 ※ So inocent.とドイツ語で言っている。 『ふふっ』というより『んふっ』とか『くふっ』に近いイロモノ・キワモノじみた笑い方。キモさはイケメンボイスでカバーして下さい。普通にしていれば温厚そうなただのイケメンです。 グリム弟 「ね。もっとこっちにおいでよ、おちびちゃん達。 とって食いやしないからさ。君達の事、ボクによぉ く見せて?」 おずおずと足音がグリムの傍まで近付く。 グリム弟 「うん、素直でイイ子。ふぅん、なるほどねぇ……」 観察しながらペンを走らせるグリム。二つの魂の詳細やここに到った経緯を読み取っている。 グリム兄 「どうやら迷い子のようだ。よく眠れる墓場を紹介し てやれない事もない」 グリム弟 「えー、ダメだよそんなの。折角ここまで来たのに、 いきなり墓場なんて可哀想じゃない」 グリム兄 「さ迷う事しか知らないのなら、眠らせてやる方が慈 悲だと思うが」 ペンが止まる。首を振りながら舌打ち。 グリム弟 「ちっちっち、そんな画一的なもんじゃないデショ。 真っ直ぐ天国へ向かわずにこんな所に迷い込んだん だよ? 何か未練があるに決まってるじゃない? こ う心の奥がゾクゾクするような、頭の芯に染み込む ような、どろどろで切ない歪んだ感情がさ!」 歪みない変態演技をお願いします。 グリム兄 「はぁ……こういう話はお前にかかるとろくな結末を 迎えないから言っているんだが」 ペンをかつかつ机に刺して(ぶつけて?)愚痴る。 グリム弟 「心外だなぁ。むしろボクは注文をつけられてばっか だったっていうのに」 脱線を咎めるように小さくスノードロップが鳴く。 スノー 「ニャゥン」 グリム弟 「アハ、ごめんごめん! ねえ、君。逢いたい人がい るんだね? その人を探してはるばるこんな辺鄙な 森の奥まで辿り着いたってわけだ」 グリム兄 「地理的には間違いも甚だしいが」 グリム弟 「文学的にはあながち悪くない線を歩いて来たみたい だね。君達には才能がありそうだ!」 呆れたようにキティが唸る。 キティ 「ニャー……」 癖のある笑い方でくつりと笑うグリム弟。 グリム弟 「ふふっ、ボクの言語センスが普通じゃないのはいつ もの事さ。好い加減慣れなよ、仔猫ちゃん。それよ りボク、君達の尋ね人を知ってるよ。厳密には、彼 女が見てる夢の在《あ》り処《か》を知ってるだけだけどね」 二つの魂がせがむような素振りをしたので。 グリム弟 「良いとも、繋いであげるさ。君達がそこへあっちの 世界へ渡れるようにね。別にイイでしょ、兄上?」 呆れたようにグリム兄。 グリム兄 「好きにしろ、付き合いきれん。その分野に関しては 私の出る幕でもないしな。……あまり引っ掻き回す なよ」 グリム弟 「だぁいじょうぶだって! 信用ないなぁ、ちぇっ。 よぅし。キティ、スノードロップ、こっちにおいで」 ペンを机にぽいっと投げ捨てると椅子から勢い良く立ち上がり、暖炉の方へ歩いて行く。猫達がそれに続いて机を飛び降りグリムの足許へ。以下、『☆』は魔法の詠唱。 グリム弟 「☆幻想の森の奥深く、迷い込んだ子供は識者の庭に 辿り着く。散らばる伝承を集めたキミは、遍《あまね》く夢  を識《し》る者なり」 グリム兄 「☆その夢を連ねたお前は、全ての扉を開く者なり」 暖炉の火がごぉっと勢いを増す。 グリム弟 「さあ、この暖炉の中に飛び込むがいい。『第四《だいし》の壁』 は開かれた。 ☆煙となって空へ溶け出し、歓喜煌めく満天の星空、 雷鳴吼える激情の雨空《あまぞら》を超えて行け。夢幻《ゆめまぼろし》に国境 なし、往くも還るも思うがままに」  ※ 『第四の壁』は十九世紀に発生した演劇用語。観   客と舞台を隔てる透明な幕、観客はこの壁を通し   て演じられる世界を見る事になる。 燃え盛る炎にじっと魅入る二つの魂。 グリム弟 「行っておいで」 促しを受けて魂は暖炉に飛び込み、炎に包まれる。 グリム弟 「ほら、キティ達も一緒に」 『イエッサー!』とばかりにキティ。 キティ 「ニャウン♪」 家を離れるのが嫌で渋々とスノードロップ。 スノー 「フニィ……」 二匹も後を追って炎の中へ。その後ろで聞こえるか聞こえないか程度に呟くグリム兄。 グリム兄 「オウル、頼んだ」 眠たそうに『はいはい、任されましたよ』とオウル。 オウル 「ホゥ、ホゥ」 あまり気乗りしない様子一声鳴いて、窓から飛び立つ。  ※ こちらは普通の音量。注意して聞かないと、猫達が飛び込んだ後に少し間を空けてオウルが勝手に飛び立っていったように見えるくらい。 オウルの羽ばたきが遠ざかり、最後は火が爆ぜる音だけがぱちぱちと残響する。  ※ 火にどんどんクローズアップしていくようにSEの音量を徐々に上げていく。適度に炎の中に飛び込んだ感覚を印象付けてからフェードアウト。 ..主題歌 主題歌  暖炉に飛び込んだ2つの卵の魂が死んだ母鳥(ガチョウ)の夢の中へ、母鳥の温もりを求めて入り込んでいく。魂は双子の姉弟の形になり、母鳥の夢=マザー・グースの世界に合わせてハンプティ・ダンプティ(卵を擬人化した姿)として夢の中に降り立つ。 母鳥は生前自分を飼っていた老婆が語るマザー・グースの歌を元にして、自分だけのマザー・グースワールドを創り上げようとしている。それは老婆に憧れたガチョウの妄想。妄想にかまけて孵すべき我が子を忘れた母鳥は、我が子が求める愛に気付かない。この世界に意味はなく、ただただ無慈悲で、煌めいている。 観察者グリムはそれを見ながら何を思うか。いいや、何も思いはしない。彼らは紡がれた物語を収集し記録するだけ。それが本来のグリムの姿。……弟のグリムがそこに手を少し加える事はあるかもしれないけれど。 キーワード イギリス マザー・グースの歌 夢 母ガチョウと2つの卵  現実では卵は母ガチョウに放棄され、家畜小屋の片隅で冷たくなってしまっている。その母ガチョウも後に屠殺され、羽根(羽毛布団と羽根ペン)と脂肪(白鵞膏)だけが残されている。 ..プロローグ プロローグ -In Marble Walls- 登場人物:  ハンプティ ダンプティ 〔狭間の世界:卵の殻の中〕 アバンタイトルの続き。暖炉に飛び込んだ二つの魂が夢の世界に生まれ出る様子。綺麗な大理石の井戸の中にいるような感じ。井戸はとても深く、水面付近は暗くひんやりしている。明るければ底まで見えそうなくらい水は澄んでいる。  ※ 全体に壁や水に反響するような澄んだエフェクト。   BGMはなしか、ヒーリング系の神秘的な水辺っ   ぽい音楽を控え目に流すのもあり。 鏡のように澄んだ水面にぴとんと水滴が落ちる音。魂が水の中に落下し、徐々に固形になっていく。最初はあまり感情のこもらないまっさらな声で。 ダンプティ 「此処は、何処?」 ハンプティ 「私達は、何?」 水の波紋に揺られながらエコーする声。やがて双子の少女と少年が水面からぷかりと顔を出す。  ※ 水中から顔を出したため、ここからエコー解除。   全体にかかっているエフェクトはそのまま継続。 互いを見つめてそっと頬を寄せ合い、視線を伏せる。指を絡め合い、おもむろにとある歌の歌詞を語り始める。 双子 「「『In《イン》 Marble《マーブル》 Walls《ウォールス》』」」  ※ タイトルはゆっくりと噛み締めるように。本文に   入ると徐々に言葉を投げ合って遊ぶように、テン   ポ良く抑揚も強くなっていく。ゆるく瞬きをする   と睫毛が触れ合うような距離で互いに囁きかける   ように。以下、朗読文には『♪』マーク。 ハンプティ 「♪ミルクのように白い大理石の壁に、」 ダンプティ 「♪絹の柔軟《しな》した薄い膜《かわ》かけて、」 ハンプティ 「♪すいて凝《こご》った泉の中に」 ダンプティ 「♪金のリンゴがみえまする」 視線を一瞬交錯させ、朗読の順番を入れ替える。ダンプティは一拍挟んで静かに息継ぎをし、続ける。 ダンプティ 「♪そのお城には扉もなければ窓もないので、」 ハンプティ 「♪泥棒共は壁を割り、金のリンゴを盗みだす」 ハンプティ、最後は少し考え込むように語尾を下げる。  ※ ハンプティの中ではリンゴ=自分と置き換えて演   技する。何故自分は盗まれなければならないのだ   ろう、何だか嫌だな。という感情がふつと湧く。 それぞれ何か思いを巡らせているように少し間を開け、視線をひたりとリスナーへ向けると口を揃えて。 双子 「「これ、なぁに?」」 ダンプティは謎かけをするような口調で。ハンプティは少し釈然としない口調で。朗読はここで終わり、2人の会話に切り替わる。互いに向き直って首を傾げ合い。 ダンプティ 「ねえ、何だろう。ハンプティ?」 ハンプティ 「さあ、何かしら。ダンプティ?」 ダンプティ 「お城の壁は硬いかな?」 ハンプティ 「きっとそんなに硬くはないわ。金のリンゴは一つき りかしら?」 ダンプティ 「二つくらいあるかもね。泥棒共は、どうやって壁を 割ったんだろう?」 ハンプティ 「そんな方法、幾らでもあるわ」 ダンプティ 「それもそうだね」 ハンプティ 「それはそうよ」 初めから知っていたようにあっさり同意するダンプティ。壁を割られるのが嫌なハンプティは何処か不服そう。やり取り自体は他愛もない遊戯のようなもので、二人共当然知っている事を口にして戯れているだけ。 * * * はー、と息を吐き頭上を見上げるダンプティ。寒い朝にほうっと白い息を吐くようなイメージで。 ダンプティ 「……それよりもさ、ハンプティ」 ハンプティ 「どうかしたの、ダンプティ」 ダンプティ 「ここは何だかとても寒いね。 ほら、君の頬《ほ》っぺもこんなに冷たいよ」 ハンプティ 「貴方の手もすごく冷たいわ。 まるで雪に埋もれた石ころみたい」 無邪気な会話に見えてほんのり儚さがちらつく。ゆるやかに感情ボリュームを上げながら。体の心から冷えきっている様子。そもそも最初から体温などなかったのかもしれない。 ダンプティ 「暖《あった》かいものが、欲しいね」 ハンプティ 「ええ、そうね。できたらふかふかの羽根布団」 ダンプティ 「それって、母様みたいに柔《や》らかくて?」 ハンプティ 「そうよ、母様みたいに優しく包んでくれる」 二人に母の羽根に包まれた記憶はないが、当然自分達は母に暖めてもらう権利があると思っている。 ダンプティ 「僕らの母様は何処にいるのかな」 『サンタクロースは何処にいるのかな』的ニュアンス、身近に母を感じた事がないという事を匂わせる口ぶりで。また、母に抱かれた事などないが、母に抱かれるのは何より心地良い事なのだと信じきっている様子で。 ハンプティ 「抱き締めて欲しいわ、眠りたい。 眠くて眠くて仕方ないのに、」 ダンプティ 「寒くて寒くて眠れない。 だって僕らは『たまご』なんだよ」 『たまご』の部分は編集で伏せ処理。  ※ 不自然にBGMか何かに同化してぼかされている、   というのが理想(あくまで理想)。 ハンプティ 「母様がいなくちゃ何もできない、」 ダンプティ 「何処にも行けない。それなのに」 母を慕う想いの裏に恨み辛みが湧き上がり声音が翳る。恨み辛みに関しては二人は無自覚。感情ボリュームはここで頂点へ。静かな憤りと、蔓延する切なさ+寂しさ。 ハンプティ 「ねえ、マザー。何処へ行ってしまったの?」 ダンプティ 「僕らをこんな所に置き去りにして」 純真な負の感情が発露、やがてマザー・グースを呪い殺すラスボスの風格を漂わせながら。  ※ ストレートな殺意や外見年齢に似合わないドスの   効いた声はNG。ヤンデレの纏う殺意や狂気が◎。 双子 「「貴女は何処へ行ってしまったの?」」 二人の感情が水滴になって落ちたかのように、台詞が終わってから水面にぴとんと波紋が広がる。その後、辺りは静寂へ。 解説:  二人が語った詩の答えは『卵』。ハンプティ・ダンプ ティは卵の擬人化。母鳥に置き去りにされ孵る事ので きない卵。すっかり冷たくなってもまだ二人は母鳥を 求める。母鳥を求める事を止めてしまえば、二度と生 まれ得る可能性はないから。もっとも、一度中身が冷 たく凝固してしまった卵が 孵る事なんてもうないの だけれど。二人はそれを認めない、認めたくない。プ ロローグの舞台はそんな二人の精神世界。 ..第一幕 第一幕 -Wee Willie Winkie- 登場人物:  ハンプティ ダンプティ ウィリー マーニ 月の娘 〔マザー・グースの世界:夜の街角〕 オルゴール風のゆったりとした幻想的なBGM。夜の子供部屋から外を眺めた風景+星空のイメージ。軽く心地良い足音を鳴らしてウィリーが駆けている。街角に人気は少ない。  ※ ナイトキャップにナイトガウン、足は裸足。手に   は羊のぬいぐるみを抱き、星を閉じ込めたランプ   をショルダーバッグのように肩に掛けている。眠   りの精はどんなに急いで走っても、その足音は風   のように穏やかで誰の眠りも妨げない。口調も優   しげで大らか、ゆったりとしている。 家々の鍵穴を覗き込みながら通り過ぎていくウィリー。  ※ 全体的に心地良い印象を与えるような演技で。 鼻歌混じりで周囲をくるくる見渡している。 ウィリー 「ち・く・た・く、八時だよ♪ 時計の針は上り坂、 これから夜の坂を上《のぼ》るんだ。8《エイト》 o‘clock《オクロック》   at《アット》 night《ナイト》.起きている子はいないかな?」 台詞の途中で起きている子供=リスナーを発見。かくれんぼの鬼が隠れ損ねた子供を追うように、何処か楽しげに軽快な足取りで近寄ってくる。 ウィリー 「夜更かししちゃう悪い子は、夜の麓に、置・い・て・ く・よ・?」 窓の枠を乗り越えて軽やかに着地、ぺたぺたと足音をたててベッドの前へ。 ウィリー 「君、眠れないのかい? 嗚呼、そんなに吃驚しなく たって良いって。慌てて寝たふりしたのは分かって るよ」  ※ あくまで優しく、咎めるような素振りではない。 寝たふりで毛布にもぐっていたリスナーが顔を出す。それを見て良い子ですねー、という風に笑うウィリー。 ウィリー 「何で判ったかって? そりゃあ、君」 一拍挟んで最大級の笑顔で微笑みかける、天然タラシ。 ウィリー 「僕がウィー・ウィリー・ウィンキーだからさ。眠っ ている子といない子と、見分けるのくらい訳ないよ」 リスナーと鼻がつきそうな距離で視線を合わせ、にこり。 それからぱっと距離を取ると指を口許に当てて。 ウィリー 「解るよ、こんな素敵な夜だもんね。でも、良い子は 寝なくちゃいけないんだ」 リスナーが寝たくないと駄々をこねたという設定で。 ウィリー 「んー? 仕方ないなぁ。なら、僕が『お休み』の魔 法をかけてあげる。そしたら君も嘘みたいによく眠 れるよ。それで、とびきり愉快な夢を見るんだ。ね、 楽しそうでしょ?」 ベッドの縁に腰掛け、毛布をかけてあげながらトーンを落として眠りの魔法を囁きかける。以下、『☆』は魔法の言葉。  ※ 少しBGMの音量を上げる。不自然なSEや大袈   裟な加工は不要だが、少し不思議あるいは不穏な    感じがするよう演出。このシーンのために、綺麗    で幻想的なだけでなくよくよく聴くと少し不安な    感じのするBGMをチョイス。 ウィリー 「☆Good《グッド》 Night《ナイト》, Sleep《スリープ》 Tight《タイト》, 僕の腕の中ならば、寝る子も夜も一緒くた。とろ とろ蕩《とろ》けて夢の中。 〈一拍〉 ☆さあ。Good《グッド》 Night《ナイト》, Sleep《スリープ》 Tight《タイト》,虫なんかに刺されぬよう。ひとつ、 羽根布団をふわりかぶって。ふたつ、ぎゅっと目 を瞑《つむ》ったら。みっつ、抱き締めて、 〈途中で魔法を中断し〉 あっ、いけない子」 『みっつ』の途中で目を開けて布団を出ようとしたため、捕まえて軽く押し倒しちゅっとおでこにキス。そのまま至近距離で抱きすくめたまま、耳元に囁く。少し妖魔的な黒さが滲み出てもOK。  ※ ただし、過剰にあざとくならないように。 ウィリー 「ほぉら、悪い虫に刺されちゃった。ママが見たら何 て言うかな。怒られちゃうかな? 君がちゃあんと 八時に眠っていたら、ママもただの虫だと思ってく れるかもね」 抗議するような視線を受けてくすくす笑い。 ウィリー 「あは、ごめんごめん! ね、君。マザー・グースの 世界は初めてでしょ?」 『どうして分かったの?』と首を傾げる様子を見て。 ウィリー 「だって物珍しそうにきょときょとしてるんだもん。 何だか初々しくて可愛かったからさ、ついからかっ ちゃった。 〈抱きすくめていた手を緩め身を起こし〉 焦らなくたって、夢も魔法も逃げたりしないよ。さ、 早くお休み。また虫が悪さをしない内に、ね。そう、 良い子」 リスナーの頭を撫でてベッドを降りると、入って来た時のようにぺたぺたと足音をたてて窓際へ。  ※ 魔法が利いて眠たそうにしているリスナーを邪魔   しないよう、帰りの方が若干忍び足気味。 窓枠に足をかけて身を乗り出しながら振り返る。 ウィリー 「☆Good《グッド》 Night《ナイト》. お日様が昇るまではぐっすりお眠り。そしてようこ そ、生まれたての夢の世界へ……偉大な癖に大いに 愚かなマザー・グースの世界へ」  ※ 最後は物語の『始まり、始まり』のニュアンスで。   ウィリーが夢の扉を開き、リスナーをこれから始   まる物語の中へと案内してあげているという設定。 ウィリーが窓の外に出ると、独りでに窓が閉まる音。物語の扉はリスナーを迎え入れた後、後戻りできないようにしっかりと閉じられる。  ※ 窓=物語の扉と見立てる。 * * * 街角に戻ったウィリー。空を月の馬車が翔けていくのが見える。車輪が回るSEと馬が駆けるSE。 ウィリー 「それじゃ、行こっか」 夜空に微かな違和感。  ※ このタイミングでマザー・グースの世界に外から   の介入者が訪れる。やって来たのは、アバンタイ   トルにてグリムの魔法で空を渡った双子の魂。こ   ちらの世界に入り込む際にプロローグを経てハン   プティ・ダンプティとなっている。 ウィリー 「おや? さっきより空が明るくなってる。お月様が 夜に追い着いてきたんだね。それに、これは……。 いいや、僕には関係ないか。〈軽く首を竦めて〉 ちょっとお月様挨拶してこよっかな、っと」 軽く地面を蹴りふわっと空へ飛び上がるウィリー。馬車の御者は見目麗しい青年マーニ。バギー(馬車の客席)には美しい娘=満月が座っている。馬車との距離は徐々に近付いていく。  ※ ウィリー的には全力疾走、徐々に声が弾み息も少   しずつ切れていく。 ウィリー 「おーい、マーニ。月の御者、マーニ! 嗚呼、眩し いなぁ。そっか、満月……今日は満月なんだ」 月を真っ直ぐ追いかけながら、眩しさに手を翳《かざ》す。  ※ 二行目は月の美しさに見惚れるように陶酔して嬉   しげに。台詞にはないが、『満月なんだ』の後に   『素敵だな!』と続くようなテンションで。マーニが声に反応して手綱を少し引き、馬が嘶《いなな》く。馬車の速度が落ち距離はどんどん詰まっていく。馬車の後ろに乗っている月の娘に向かって声をかけるウィリー。。 ウィリー 「これまた綺麗なレディを乗せて。お星様がみぃんな 隠れん坊しちゃってるのは、レディがいっとう輝い てるからだね」 馬車と併走しながら会話するウィリー。 月の娘 「あら、ご機嫌よう。ウィー・ウィリー・ウィンキー」 ウィリー 「ご機嫌麗しゅう、お姫様。嗚呼もう、ちょっと、意 地悪だな。マーニ、マーニ、お話くらいさせてよ。 君の馬車はどうにもこうにも急ぎ足過ぎる」 訴えるウィリーを一瞥して。 マーニ 「眠りの精、ウィー・ウィリー・ウィンキー。悪いが 相手をしてる暇なぞない」 ウィリー 「そんなつれない事言わずにさ」 月の娘 「ごめんなさいね、ウィリー。怖ろしい狼さえ追って 来なければ、そなたとも沢山話ができるのでしょう けれども」 マーニ 「奴らに捕まるわけにはいかない」 ウィリー 「そいつは一体何なの? そんなに怖い奴なのかい?」 マーニ 「我等を馬車ごと丸呑みにする程の大狼だ。怖くない 訳なかろう」 ウィリー  「おおおおかみ? おーおーかみだって? 嗚呼、これ は何て失敬! 何も知らずに邪魔をして悪かった。 僕はここらでお暇《いとま》しよう」 遠くから狼の遠吠えが聞こえ、マーニが馬に鞭を打つ。嘶《いなな》く馬、馬車が一気に加速する。 マーニ 「そら来た、奴だ! 月追いハティのお出ましだ!」 馬車が急速に遠ざかり遠吠えがその後を追い駆けていく。距離が開き、最後は月の娘もウィリーも叫ぶようにして。 月の娘 「ウィー・ウィリー・ウィンキー。また次の満月にで もお会いしましょう。それまで世界に、昼と夜とが ありますように」 ウィリー 「☆Good《グッド》 Night《ナイト》, 僕達夜のお姫様、貴女達に幸運を!」 見送りながら併走するのを止め、息を吐きながら独り言。 ウィリー 「なるほど、どうりで、そういうわけで。お月様はい つも走りっぱなしでいるわけだ。欠けては満ちて、 昇っては降りて。可哀想なレディにマーニ! 休む 暇もありゃしない」   * * * ウィリーが空から地上に降り立って街角に戻ると、そこにはハンプティ・ダンプティ。  ※ 二人の台詞は一人が読むものを交互に分割してい   るため、演技の際は相手の台詞を引き継ぐよう留   意する事。ただし、二人の間で会話になっている   部分は例外。 ハンプティ 「こんばんは」 ダンプティ 「良い夜だね」 双子 「「ウィー・ウィリー・ウィンキー」」 ウィリー 「やあや、これはハンプティ・ダンプティ。小《ちい》ちゃな 可愛い双子さん。もうとっくにおねむの時間は過ぎ てるよ? ♪羊と一緒に家へお帰り。朝は雲雀《ひばり》と一緒に起きて、 夜は暗くならない内に、良い子は安らかに寝るも のさ。お月様が出たらのなら、子供は眠るものな のさ」 『♪』以下はマザー・グースの子守唄から引用。  ※ 子供を寝かしつけるための魔法を歌うように。 ダンプティ 「うーん、でもねぇ、ハンプティ?」 顎に手を当てて考え込むような仕草でダンプティを見る。 ハンプティ 「私達だって眠りたいのは山々よ。ねえ、ダンプティ?」 ダンプティ 「眠れぬ夜は寒いよ、寒い」 ハンプティ 「眠れぬ夜は怖いわ、怖い」 ダンプティ 「星はこうこう、闇はひたひた」 ハンプティ 「梟《ふくろう》ほうほう、狼アォォン」 朝、あるいはもっと遠い何かに恋焦がれるように。 ダンプティ 「嗚呼、朝が遠いよ」 ハンプティ 「インソムニア♪」 ダンプティ 「インソムニア♪」 台詞というよりはハモるように、インソムニア。  ※ 意味は『不眠症』。 前の台詞と被っても良し。 ウィリー 「……眠れない、だなんて。嗚呼、何だろう、そんな 寂しい事があるなんて。眠りは優しくて、暖《あたた》かくて、 とても穏やかなものなのに。君達はそれを感じる事 ができないんだね……。僕にできる事はないのかな。 ホットなミルク? 安らぎのハーブ? 何だって用意 してあげるよ。だって、そう、僕は眠りの精なんだ から!」 気まずい沈黙が落ち、ウィリーの語尾がしんと響く。 ウィリー 「……はは、僕って無力だなぁ。何もしてあげられな いなんて」 誤魔化し笑いをしながら俯くウィリー。 双子 「「……」」 顔を見合わせてからウィリーに近付く。俯いているウィリーを挟み込むように両側から。 ハンプティ 「ねえ、ウィリー。そんな哀しい顔をしないで?」 ウィリー 「ハンプティ……」 ダンプティ 「そうだよ、君の所為《せい》じゃない」 ハンプティ 「貴方はとっても、優しいわ」 ウィリー 「君達こそ、何て良い子達だろう。僕にできる事はと いえば。せめて、そうだ、お星様に願いをかけよう。 ☆星の光よ、輝きよ、 そう、あそこの、満月の中でも独り瞬く一番星。 ☆Light《ライト》,Bright《ブライト》,Tonight《トゥナイト》. May《メイ》,Might《マイト》,Tonight《トゥナイト》. どうかお願い聞いとくれ。この子達がぐっすり眠れ ますように」  ※ 英単語の読み方はそれぞれ韻を踏んでいる。   『Star Light, Star Bright』という願掛け歌より。 ハンプティ 「ありがとう、ウィリー。私達なら大丈夫」 ダンプティ 「そうとも、ウィリー。心配しないで」 ウィリー 「……ごめんね、僕もう行かなくちゃ。 ☆地球は回る、くるくる回る。月も巡る、くるくる  巡る。東が日暮れりゃ次は西。寝た子が起きりゃ、  また子が眠る。僕もマーニと同《おんな》じだ、休む暇もあ   りゃしない」 最後の一文は自嘲するように、独り言。 ハンプティ 「あら、マーニがどうかしたの?」 ウィリー 「いいや、こっちのお話さ。それじゃあさよなら、小《ちい》 ちゃな可愛い双子さん。せめて君達の行く夜が、静 かな夜でありますように!」 手を振って駆けていくウィリー、見送る二人。 ダンプティ 「☆Good《グッド》 Night《ナイト》,」 ハンプティ 「それから、 ☆Sleep《スリープ》 Tight《タイト》」 『Sleep Tight』は少し含みを持って、ゆっくりと。  ※ 『ぐっすりお眠り』という本来の意味ではなくタ   イト=『きつい』と単語そのままの意味で使って   いる。 ウィリー 「あ、そうだ!」 思い出した、というように立ち止まって振り返るウィリー。 ハンプティ 「どうしたの?」 先程までの陽気な、くるくる変わる表情が真顔になって。 ウィリー 「ところで君達、ロビンを見かけなかった?」 顔を見合わせるハンプティ・ダンプティ。 ダンプティ 「ううん、一羽どころか死骸すらも見てないよ」 少し首を傾げるが、すぐにころっと笑顔に戻るウィリー。  ※ ダンプティが勝手に『ロビン』を『駒鳥』と解釈   して答えているため、実は噛み合っていない。 ウィリー 「そう。なら、別に良いんだ。子守唄が必要かと思っ たんだけど。見付からないなら仕様もない。じゃあ」 三人 「「「☆Good《グッド》 Night《ナイト》」」」 今度こそ走り去っていくウィリー。その背中をねっとりと見詰めながら続けて囁く。 ハンプティ 「☆Sleep《スリープ》 Tight《タイト》」 ダンプティ 「泥のように深ぁい、夢の中でね……」 くすくす、と微かな笑い声を残して二人も踵を返す。  ※ 『夜はまだまだ続く』という印象を残すため、B   GMはゆったりとフェードアウト。第二幕のBG   Mも同じものを使うならば、フェードアウトせず   そのまま継続。違うBGMを使うならば、フェー   ドアウトとクロスして第二幕のBGMがフェード   インする。 解説: プロローグから場面転換し、舞台はマザー・グースの 世界へ。この場面で登場する『夢』という単語は『マ ザー・グースの世界』を指している。特に最後のダン プティの台詞は、マザー・グースの世界がどろどろと した不毛な世界である事を示唆している。夢はきらき らしているとは限らない、童話は決して美しいだけで はない。 ..第二幕 第二幕 ^Hey, Diddle Diddle 1/2- 登場人物: マーニ 月の娘 牝牛 ディッシュ スプーン 〔マザー・グースの世界:夜空〕 第一幕から夜は更け、真夜中。 BGMはヴァイオリンの独奏。  ※ アバンタイトルで双子と共にマザー・グースの世   界に飛び込んだキティが、夜空の何処かでヴァイ   オリンを弾いているという設定。 月の馬車が夜空を駆けている。何処かのタイミングで梟の鳴き声がホゥホゥ。それを聞き、呼応するようにマーニがぽそりと歌う。 マーニ 「♪Hey《ヘイ》,Diddle《ディドゥル》 Diddle《ディドゥル》」 マーニに呼応して月の娘も歌う。 月の娘 「♪Hai《ハイ》,Diddle《ディドゥル》 Diddle《ディドゥル》」 急に眼下に広がる森から牝牛が飛び出してくる。 マーニ 「おっと、危ない」 マーニが手綱を引き、馬車は牝牛を避ける。牝牛は馬車を飛び越してそのまま走り去っていく。何処かで微かに子犬の笑い声。一旦馬車を止めて後ろを振り返り。 マーニ 「すみません、お怪我はありませんか。牝牛の奴がい きなり飛び出してきたもので」  ※ 月の娘に接する時だけは口調を丁寧に、柔らかく。   ウィリーや牝牛に対する時とは差をつけて。 月の娘 「私《わたくし》は平気です、吃驚して少し欠けてしまいましたけ れども。そなたこそ、大事はなくて?」 マーニ 「何て事もありません」 さらっと言った後、御者台から乗り出して叫ぶ。 マーニ 「おいこら、牝牛! 人の頭の上を飛び越えるなら、 せめて一声鳴いてからにしろ。何度言わせる、この holy《ホーリィ》 cow《カウ》!」  ※ 『holy cow』=holy shitというスラングの控え目   な言い方。holy shit自体は『なんてこった』とい   うような罵り語。shitがそもそも『くそっ』『ち   くしょう』あるいは舌打ちと同義の言葉。 牝牛は月を飛び越した後スピードを落とし、Uターンしてゆっくりと戻ってくる。からかうようににやにやしながら口を開き。 牝牛 「あら失礼、マーニ。でもお月様の付き人ともあろう 人がそんな汚い口を利いて良いのかい?」 マーニ 「Shut《シャ》 up《ラップ》」 おお怖い、というように首を竦める牝牛。本気で怖いと思っているのではなく、誇張した様子で。 牝牛 「あたしゃこれでも、一度だってあぁたの馬や馬車を 踏んづけたりした事ぁないっていうのにねぇ。悪い ねぇ、オヒメサマ。驚《おど》かしちまったかい?」 バギーの方に回り込んで愛想良く挨拶するブルフィに対し、柔らかく微笑する月の娘。 月の娘 「御機嫌よう、親愛なる牝牛《めうし》君《ぎみ》。ええ、この地の習い とはいえ驚くものは驚きます。でも、平気ですわ。 もうすっかり慣れましたもの」 牝牛 「そりゃ何よりさね。この季節はどうもあぁた達を見 ると飛び越えたくてうずうずすんのさ」  ※ ここから一連の『♪』マークはミュージカル風に。 牝牛 「♪猫はフィドルを弾き鳴らし、」 月の娘 「♪牝牛は月を飛び越して?」 牝牛 「♪それ見て小犬は大笑い!」 牝牛と月の娘は互いに顔を見合わせ悪戯っぽく笑う。続けて何処からかがさがさと木々を掻き分けるような音がして、声が聞こえてくる。  ※ 舞台が夜空、その下には森が広がっているため、   森の木々の天辺の辺りが丁度夜空を駆けているマー   ニ達からすると道端の茂みのように見える。 ディッシュは少し疲れ気味、頑張って声を張り上げる。スプーンも多少疲れてはいるがまだ余裕はある様子。二人とも大荷物を担いできたため軽く息が上がっている。 ディッシュ 「♪そうして私とスプーンは」 スプーン 「♪逃げ出し、駆け出し、駆け落ちさ」 高らかに歌った後、少し早口で囁き合うように。 ディッシュ 「愛してるわ、スプーン」 スプーン 「俺もだよ、ディッシュ」  ※ ディッシュとスプーンの掛け合いはディズニー映   画のミュージカルパートの吹き替えのようなノリ。   真顔でクサい事を堂々と。 間髪を入れずマーニがうんざりしたように。 マーニ 「〈低い溜息〉」  ※ 意訳『リア充爆発しろ』 ディッシュとスプーンが出てきた物陰には、よく見ると二人が駆け落ちのために持ってきた荷物の山。 マーニ 「やれ、道を空けてくれ。こちとら走り続けにゃなら んというのに、何だその大層な荷物は。道を塞いで くれてるでない。ほら、どけたどけた」 スプーン 「これはすまない、月の御者マーニ。だけど彼女を見 てよほら、息も絶え絶え」 ディッシュ 「走り詰めなの、ごめんなさいね」 スプーン 「少し休ませてあげとくれよ。それか、お宅がそのご 立派な馬車の上から降りてきて、荷物を退かすのを 手伝ってくれるわけじゃあなきゃね」 マーニ 「〈呆れたような溜息〉」 月の娘 「まあまあ、マーニ。私達の馬にも休憩があっても良 いのではなくて? ここは高い夜空の天辺《てっぺん》。ハティ が来てもすぐに分かりますわ」 マーニ 「アールヴァクとアルスヴィズはそんなにやわではあ りませんよ。……ですが、貴女様がそう仰るのなら。 御意に」 渋々マーニは話の輪から外れ、御者台でハティの姿が見えないか見張りを始める。 月の娘 「有難う。〈くすっと笑う〉」 後ろで牝牛が口笛を吹いて小声で揶揄する。 牝牛 「ひゅ〜♪ 流石は女神サマ」 スプーン 「〈つられて苦笑〉」 月の娘 「ところで、そなたらはどちらからいらしたのです?」 スプーン 「立派なネズの木が見える台所からさ」 ディッシュ 「遠く、遠くへ行かなきゃならないの」 スプーン 「おかみさんに連れ戻されるその前に」 月の娘と牝牛が顔を見合わせる。 牝牛 「いったいどういう事情さ?」 * * * スプーン 「話せば長くもならないけれど、俺っちのおかみさん はとっても酷いお人だもんで。彼女も俺も汚れ放題、 錆び放題。なのに碌《ろく》に洗ってくれもせず。扱いだっ てぞんざい! がさつ! 食器を食器とも思っちゃい ない! 誰のおかげで熱々スープを啜れるかも知ら ないで」  ※ 『俺っち』=『俺達』を崩したようなニュアンス。 思い出しても腹立たしい、というようにスプーンのおかみさん語りは徐々にヒートアップ。ぽつり、息を整えたディッシュが憂鬱そうに呟く。 ディッシュ 「……あの人にこき使われるのはもう沢山」 ディッシュの呟きで怒りをころっと放り出すスプーン。 慰めるように寄り添い、優しく頬に手を当てる。 スプーン 「可哀想なディッシュ、体中べとべとソースまみれで」 ディッシュ 「自慢の肌も醜いmuddy《マッディ》。お鼻も欠けてずんぐり むっくり獅子《しし》っ鼻《ぱな》」 ディッシュは泥まみれで深く消沈、スプーンも汚れてはいるが恋人のために努めて元気を装う。 スプーン 「大丈夫、きっとまた元通りになるさ! 誰もが振り 向く白皙《はくせき》の、鼻筋も通った麗しの君にね。欠けたお 鼻もほら、ちゃんと俺が持ってきた。後で粘土をこ ねて引っ付けよう?」 ディッシュ 「でももしも、この汚れが体の芯まで染み付いてたら? 貴方は私を嫌いになるわ」 悲劇のヒロインのように悲観的に。  ※ この二人は自分達の世界にめり込んでいくタイプ。 スプーン 「なるわけないさ、可愛いディッシュ」 ディッシュ 「そんなの嘘よ!」 スプーン 「嘘じゃないさ、愛しいディッシュ! 俺が折れてひ しゃげて尺取虫《しゃくとりむし》みたくなったとしても、君は俺を変 わらず愛してくれるだろう? だからさ、俺も同じ だよ」 置いてけぼりのギャラリー、このままでは収拾がつかないと釘を刺しに戻って来るマーニ。 マーニ 「〈小さく咳払い〉」 それに気付かず続けられる二人の世界。 ディッシュ 「嗚呼、勿論よ。ごめんなさいね、マイ・ディア・ス プーン! 貴方の心を疑うつもりなんてなかったの」 スプーン 「知っているとも、マイ・ディア・ディッシュ。君は ちょっと」 会話を遮るように咳払い。  ※ スプーンの台詞は↑と↓で一続き、途中にマーニ   の咳払いが被る形。 マーニ 「〈再度咳払い〉」 スプーン 「疲れているだけなんだ、無理もない」 マーニ 「〈うぉっほん、と大きく咳払い〉」 月の娘 「〈合わせて小さく咳払い〉」  ※ マーニは露骨に話の脱線と惚気《のろけ》を咎めている。そ   の露骨さを少し嗜《たしな》めつつ、マーニ同様に話を元に   戻すべく月の娘の咳払いが入る。 スプーン 「おっと、ごめんよ。話が逸れてしまったね。まあ、 そんな仕打ちに堪えられなくて。俺っちは二人で逃 げてきたのさ」 牝牛 「そりゃまあ、お気の毒」 スプーン 「旦那様の気がしれないよ。前のおかみさんはとって も器量の良い人で、俺っちも毎日つるつる、ぴっか ぴか、綺麗に磨いてもらえたものさ」 ディッシュ 「だけど前のおかみさんはくしゃみをしたかと思った ら、呆気なくころりと死んじゃった」 スプーン 「恐ろしいバラの花輪の呪いだよ」 ディッシュ 「……Ring《リング》-a《ア》-Ring《リング》-o《オー》‘ Roses《ローゼス》」 呪文のように厳《おごそ》かに呟く。  ※ 『Ring-a-Ring-o' Roses』という歌の一節。ペス   トの流行を暗喩した、実は怖い歌。タイトルはペ   スト症状の赤い発疹を指している。子供達が輪に   なって歌う遊戯歌。 その響きにつられるよう誰からともなく手を繋ぎ合うと、自然に口々に繰り返す。 月の娘 「Ring《リング》-a《ア》-Ring《リング》-o《オー》‘ Roses《ローゼス》……」 牝牛 「Ring《リング》-a《ア》-Ring《リング》-o《オー》‘ Roses《ローゼス》……」 マーニ 「駄目です、駄目です、いけません」 月の娘がはっとして首を振る。 月の娘 「恐ろしい呪文、私とした事が」 牝牛 「ついつられちまったよ」 沈黙。気まずい空気の中、ディッシュが切り出す。 ディッシュ 「この駆け落ちに心残りがあるとしたら」 後ろ髪を引かれる思いで元来た道を振り返る。 スプーン 「前のおかみさんの、忘れ形見」 ディッシュ 「可愛いロビン坊やがいじめられていないかだけが、 私とっても……気になるわ」 ヴァイオリンのBGMに紛れてハティの遠吠えが不吉な感じに尾を引く。遠吠えが聞こえてくるのと入れ代わりにBGMがフェードアウト、最後は一瞬静寂の間を残す。 解説: 『Hey, Diddle Diddle』という有名なナンセンス歌に ちなむ。猫がフィドル=ヴァイオリンを弾き、牝牛が 月を飛び越え、それを見た仔犬が大笑いし、皿と匙が 駆け落ちするという、何とも不思議な歌詞。猫は獅子 座、フィドルは琴座、牛は牡牛座、仔犬は小犬座、ス プーンは北斗七星、皿はコップ座をそれぞれ暗示して いるという説がある。なお、これらが夜空に一堂に会 するのは四月のみ。 ..第三幕 第三幕 ^Hey, Diddle Diddle 2/2- 登場人物: ロビン ビートル(仕立て屋) オウル(墓堀り) ルック(牧師) カイト(棺運び) トラッシュ(聖歌隊) ブルフィ(鐘撞き) 〔マザー・グースの世界:昼下がりの道端〕 場面、時間軸共に転換。長閑なイギリスの片田舎風のBGM。農村の道端の木々に動物達が集って談笑している。  ※ ちゅんちゅん、ぴーちくぱーちく、etc...。夜行   性のオウルは半分寝ているためガヤの鳴き声なし。 道の向こうから微かに泣き声が聞こえてくる。目の良いカイトがそちらを見やりロビンを見つける。 カイト 「おや、あれは」 トラッシュ 「どうしたの、カイト?」 ロビンが泣きながらとぼとぼと歩いて来る。零れる涙を両手でぐしぐしと拭きながらしゃくり上げて。 ロビン 「っく、ひっく」 他の動物達もロビンの様子に気付きざわめき始める。 トラッシュ 「あれは……ネズの木の家の坊やじゃない」 ルック 「本当だ、ロビン坊やじゃないですか」 カイト 「目を真っ赤に腫らして泣いてるぞ」 ビートル 「まあ、それ本当? 可哀想に……」 オウルは一人だけ乗り遅れて目をこすっている。  ※ 欠伸混じりに、常に寝不足のようにだるそうな口   調。低音でゆったりと、達観したような超越した   ような、他の動物達とは違った浮世離れ感。 オウル 「あふぁ。こんな真っ昼間から何をめそめそしてるん だか。この陽射し、絶好の昼寝日和だっていうのに」 次の台詞の間だけBGMや周囲のガヤをしぼって、リスナーだけに語りかけるように。 オウル 「まあ、もっとも……夢の中では夢も見れない。眠気 も覚めない。いつまで経っても小生は眠い。インソ ムニア」 周囲はこの台詞は完全に無視して会話を続ける。  ※ 聞こえていない扱い。 ブルフィ 「オウルの兄《あに》さん、それは兄《あに》さんが夜行性だからさ。 ロビン坊やは人の子で。昼間は元気に遊び回ってい るものだよ。一緒にしちゃダーメ」 オウル 「ホゥ。そういうものか、ブルフィ。言われてみれば そういうものだったような気もする。しかし、それ ならそれで泣いているのもいったい何があったやら」 ぱたぱたと動物達がロビンの元へ飛び立っていく。オウルも少し遅れて重たい腰を上げる。ロビンの涙を何羽かがそっと羽根先で拭ってやりながら。 ルック 「これ、ロビン。どうして泣いているのです」 ロビン 「鳥さん……泣いてなんか、ない。ちょっと目が、痛 いだけだよ」 嗚咽を喉の奥に押し込みながら強がるロビン。 トラッシュ 「しょっぱい涙は美味しくないわよ。蜜の味がするの なら、幾らでも舐めてあげられるんだけどね」 動物達は訳知り顔、事情をよく知っている様子で。 ビートル 「またママにいじめられたの?」 ロビン 「違う、違うよ、そんなじゃないさ! そんなじゃな いって事に、しといてよ……」 すん、と鼻を鳴らして。 ブルフィ 「と言ってもねぇ……」 決まり悪そうにぽりぽりと頬を掻くブルフィ。 ロビン 「ママは僕の事なんか嫌いみたいだけど。それだとマ ルレーンが泣いちゃうから。マルレーンは僕の事も ママの事も好きだから。仲が悪いとすごく悲しむん だ」 カイト 「妹のためなら我慢するっていうのか、手前《てめえ》は。妹思 いは良い事だが。そんな事じゃ手前の人生、先が思 いやられるな」 ロビン 「だって……」 ブルフィ 「あんたのママは我侭だよ。あんたは嫌い、でもマル レーンの事はだぁい好き。だったら、大好きなマル レーンのためにママの方が我慢すりゃ良いじゃない か、なあ」 オウル 「可愛い可愛い実の娘と。前の女が残した息子。我が 子可愛さはというやつか。至極残念な事だが……、 至極当然な事でもあるな。それで、何があったんだ い」 落ち着いたロビンが深刻な面持ちで話し始める。 ロビン 「台所から、お皿とお匙がなくなったんだ。ママの… …僕の本当のママが大事にしてた、お皿とお匙が」 ルック 「ふむ、ディッシュにスプーンですか」 ビートル 「それならルック、これはきっと駆け落ちね」 ロビン 「駆け落ち?」 トラッシュ 「そういえば、昨日は確か満月……。誰か、牝牛が月 を飛び越すのを見ていない?」 カイト 「つっても、オウルは別だけど、己《おい》らは基本夜目は利 かんし。嗚呼、でも、月の御者マーニの怒鳴り声な ら聞いた気がする」  ※ 訛った『オイラ』ではなく、一人称が『おい』。   その複数形で『己等《おいら》』。発音に注意。 ルック 「嗚呼……マーニといえば、飛び出し常習犯の牝牛に 大層ご立腹とか。彼の声が地上にまで聞こえたとい うなら、そういう事なのでしょう。月の姫のお付き ともあろう者が声を荒げるなんて、他では滅多にあ りませんからね」 トラッシュ 「ならやっぱり、駆け落ちで間違いなさそうね」 ロビン 「満月だから、お皿とお匙は消えちゃったの?」 ロビンはあまり要領を得ていない様子、マザー・グースの歌についてほとんど知らないような反応。 オウル 「昨夜はフィドルの音色が聞こえてたね。良い心地の 音だった」 音色を思い出してうっとりするオウル。 フィドルという言葉に顔を見合わせると、鳥達が第二幕と同じ拍子をとって歌い出す。 トラッシュ 「♪猫はフィドルを弾き鳴らし、」 カイト 「♪牝牛は月を飛び越して、」 ブルフィ 「♪それ見て小犬は大笑い、」 ルック 「♪そうしてディッシュとスプーンは、」 トラッシュ 「♪逃げ出し、駆け出し、駆け落ちよ」 自慢の美声でドヤ、という感じで〆るトラッシュ。歌っていない面々は小さく歓声を上げてぱちぱちと拍手。ロビンの手前、わぁっと沸くのではなく控え目に。  ※ なお、歌っていないのはビートルとオウル。ビー   トルは虫なので歌えない。 ビートル 「皆さん流石にお歌がお上手。中でもやっぱりトラッ シュの歌声は格別ね」  ※ 『トラッシュ』はやや名前としては語呂が悪いの   で『トラシュ』に近い発音を推奨。 まんざらでもない微笑を零すトラッシュ。 トラッシュ 「それほどでも。……嗚呼、ごめんなさい。坊やが置 いてけぼりね」 おずおずと、不安げに切り出すロビン。 ロビン 「お皿とお匙は、もう戻って来ないの?」 オウル 「戻らないだろうね。駆け落ちは単なるお出かけとは 違うんだ」 ロビン 「そう……なんだ。僕、お皿とお匙に嫌われちゃった のかな。だったら、何だか……寂しいな」 オウルに対してもう、めっ、と叱るように。 ビートル 「もう、オウルったら。そんな言い方しちゃ可哀想よ」 カイト 「Shh《しーっ》,ビートル。可哀想と言う方が可哀想じゃな いか? ま、どっちにしたって」 ルック 「オウル、貴方の言葉はどうにもしばしば」 ルッ・カイ 「「残酷だ」」 二人揃ってオウルをぴしりと指差す。ルックの『残酷だ』は『仕方ない奴め』という風に。カイトの『残酷だ』は純粋に批難するように。 カイト 「だいたいなぁ、……」 カイトの台詞が鳥の鳴き声に入れ代わっていく。 * * * ここからオウルの台詞は別の次元に向けられる。  ※ この状態の時、マザー・グースの世界の登場人物   の声は全て元の動物の鳴き声になる。別次元に向   いているオウルを尻目に鳥達は鳥達でぴーちくぱー   ちくお喋りをしている。いかにも会話をしている   ような感じでバックにSEを挿入。BGMも変化   しても良いかもしれません。 誰も理解者はいない、という様子でやれやれと独り言。 オウル 「残酷、ねぇ。これはそういう筋書きなんだよ。現実 じみて残酷で。時に現実よりも残酷な。それが童話 やお伽噺の特権なんだから」 『残酷』の部分は微かに鼻で笑うように。  ※ キャラクターの性格的に露骨な嘲笑にはならない   事。面倒臭さや達観の方が前面に出る。 ロビン 「残酷?」 おや、と含み笑いをするオウル。  ※ 先程の台詞も本幕2ページ目のオウルの台詞同様、   他の登場人物には聞こえていない扱い。それにロ   ビンが反応したため、少し驚いている。 オウル 「ホゥ、貴君はやはり現実側の人間なのかな。こうい う『第四《だいし》の壁』を超える言葉はこちらの世界では認 識されないものなんだが」 ロビン 「……?」 しげしげとロビン観察する素振りをして独り言。 オウル 「ロビン、といったか。ホゥ、ホゥ。ロビン、そうか、 駒鳥《ロビン》か。この面子が集まっていながら被害者が出て いないなとは思ったが。まさかこの子が?」 対話相手をロビンに戻し。 オウル 「そう、物語は残酷かとびきり甘いかどちらかだ。こ とこの世界においては、甘さなんてものは毒にも等 しい」 ロビン 「でも、女の子はお砂糖でできてるって言うよ? 蛙 に蝸牛《かたつむり》、仔犬の尻尾でできているのが男の子。砂糖 にスパイス、それから素敵な物何もかもでできてい るのが女の子。そうでしょ?」 表情を曇らせ俯く。 ロビン 「ママが、マルレーンにそう言ってた」 その様子を思い浮かべて苦い顔をするオウル、吐き捨てるように。  ※ オウル比でちょっと珍しいくらい尖ったシーン。 オウル 「そんなの世迷言《よまいごと》は信じるもんじゃない。くだらない にも程がある。この世界と同じくらい、くだらない」 気圧されて、反射的に消え入りそうな声で謝るロビン。  ※ ママ相手に謝り慣れている感がある。 ロビン 「ご、ごめんなさい」 その反応に少し罪悪感を覚えて顔をしかめるオウル。 * * * 別次元会話モード解除。  ※ 鳥の鳴き声SEはここですっぱりオフになる。B   GMも変更していた場合は元に戻して。 周囲も二人がやり取りをしているのに気付き始める。会話の発端や経緯が解らないので戸惑いながら。 ブルフィ 「おいおーい、オウルがいじめてどうすんの!? てか 何やってんだよ。らしくないじゃん、どうした」 間に入ってロビンを庇い、オウルを睨むブルフィ。 オウル 「別にいじめちゃいないさ」 ブルフィ 「はぁ?」 『何処が?』という風にジト目で。 オウル 「……嗚呼、解った。悪かった。 〈はーと長く息を吸い込んでから、短く溜息〉 小生だって何も意地悪をしたい訳じゃない。でも、 たまには本当の事を言ってみたくもなるのさ」 何処か遠くを見るように一息置いて、小声で嘆く。 オウル 「見えている世界が違うというのは、本当に面倒な事 だよ。まるで言葉が通じない。まったく、我が主は 厄介事を押し付け給《たも》う」 トラッシュ 「オウル? 何をぶつぶつ言っているの?」 オウル 「いいや、何でもない。ただの寝言さ。小生は眠いん だ。少しうとうとさせとくれ」 ぷいとそっぽを向き近くの木に凭れかかると、しばらく蚊帳の外を決め込むオウル。 * * * 心配そうにオウルの方を窺うビートル。 ビートル 「オウル……」 カイト 「何だよ、変な奴」 ルック 「ふむ……ともかく話を戻しましょう。ディッシュと スプーンの事です。駆け落ちしてしまったものは仕 方がありません。悲しいかもしれませんが諦めなさ い、ロビン坊や」 ロビン 「でも、戻って来ないなんて、僕困るんだ。このまま じゃご飯が食べらんない」 ルック 「それはまた、何故?」 ロビン 「ママが、言うんだ。お皿がないならご飯はお鍋から 食べなさいって、お匙がないならご飯は手で食べな さいって。パパの大好物がシチューだから。僕ん家 のご飯は毎日シチュー。お皿とお匙がなくちゃ駄目 なんだよ」 ビートル 「惨い事を言うママね。そんな事をしたら、坊やのお 手ては大火傷だわ」 ここからロビンの長語り。合間に動物達の相槌がひそひそと挟まる。 ロビン 「朝起きたらもうお皿もお匙もなくなってたのに、マ マは僕が失くしたって言うんだ。僕がつまみ食いを するために、夜中にこっそり起きてきてお皿とお匙 を使ったんだろって」 トラッシュ 「呆れた想像力ね」 ブルフィ 「手前《てめえ》が坊やにちゃんと食べさせてないって、そう自 覚があるからこんな妄想ができるんだ」 ロビン 「ショーコをインメツするために、汚したお皿とお匙 を何処かへ捨てて来たんでしょって。僕、そんな事 してない。ママのお皿を捨てる訳なんかないのに! お腹はぐぅぐぅ鳴いたけど、我慢してずっとベッド でウィリーが来るのを待ってたんだから。なのに、 ウィリーは中々来てくれないし」 思い出してまた涙ぐむロビン。 ルック 「待っている子がいるというのに」 カイト 「しょうのない奴だな、寄り道ウィリー」 ロビン 「マルレーンがちょっぴり羨ましい。ママからおやつ も貰えるし。お布団はガチョウの羽根でふかふかで」 『ガチョウ』という単語に反応するオウル。ロビンに向き直り、寝起きのような低い声のまま。 オウル 「ロビン、悪い事は言わない。諦めて家《うち》にお帰り。も う間違いなく手遅れだ」 ロビン 「え? 手遅れって、……?」 動物達も訳が解らないというようにオウルを見る。 ブルフィ 「それは一体何の話だ?」 オウル 「ちょいと気になって見通してみたんが。この世界に は足りない鳥が一羽いる」 オウル以外にはまったく意味不明。 ルックだけ何となく察しながら聞いている。 ビートル 「足りない……? それと坊やに何の関係が?」 オウル 「足りないものは埋めやすい。そこには空席があると いう事だから。この世界を紡いだ魔女は、何故だか 敢えて空席を一つこしらえた。ある者の存在を抹消 してね。それに気付いた悪戯猫が、その空席にはま る者を招き入れた……そんなところだろう」 『魔女』という単語は動物達には意図的にスルーされる。  ※ 魔女に支配されている動物達は魔女という存在も   概念も認識できない。宇宙を知らない者に宇宙人   の話をするようなちぐはぐ感。 トラッシュ 「訳が解らないわね」 カイト 「オウル。その空席だとか何だとかのために、お前は ロビンにスプーンとディッシュの事は諦めて腹を空 かせてろって言うわけか。帰っても飯なんざ食わせ て貰えねえっていうのに」 オウル 「見付からないなら帰るしかあるまい。貴君らは何だ、 駆け落ちした二人が今更戻ってくるとでも思ってい るのか? ロビンを家にも帰さず野垂れ死にさせる つもりか」 ビートル 「誰もそうとは言ってないわよ、喧嘩腰にならないで」 以下、ガヤ台詞。 ブルフィ 「何だよ、アイツ」 トラッシュ 「いつもの事よ」 カイト 「森の賢者か何か知らねえけどよ」 不満そうに唸る鳥達のガヤを無視して。  ※ ガヤは途中から鳥の鳴き声と入れ替えられていっ   ても良いかと。 オウル 「何とでも言うが良い。さあ、可愛いマルレーンが探 しに来る前に。悪い出来事は全部忘れて帰りなさい」 ロビン 「うん……そうする」 よく解らないが、取り敢えず従うロビン。不服ながらも心配そうに見送る鳥達。 トラッシュ 「Good《グッド》-bye《バイ》,Lovin‘《ラヴィン》 you《ユー》」  ※ 『Lovin' you』はラヴィンの響きをロビンにかけ   て、発音は正規の『ラヴィンニュー』よりも若干   『ロヴィンニュー』に寄せている。 ロビン 「ありがと、皆。じゃあ、またね」 ロビンが手を振って去っていく。動物達もぱたぱた手(翼)を振り返す中、オウルは凭れかかっていた木から身を起こすと、近くに立て掛けていたショベルを手に取り動物達の輪から抜けようとする。そのオウルを呼び止めるルック。 ルック 「どうしたんです、オウル。ショベルなど担いで。貴 方の仕事道具の出番はまだでは?」 意外そうに眠たげだった目を少し見開いて。 オウル 「ホゥ。もう我々の役割を理解している者がいるとは。 ミヤマガラスのルック……カラスの端くれたる君も また、魔女の眷属というわけか」 ルック 「さてね、私に与えられた役割は『死者の哀悼、そし て終わりなき追憶』、それだけですよ」 オウル 「ホホゥ、『Nevermore《ネヴァーモア》』と狂いの呪詛《じゅそ》を吐 くのではなく?」 諧謔(洒落)の応酬。滅多に通じない会話が珍しく通じている事を少し楽しんでいる。  ※ 二人が引用しているのはエドガー・アラン・ポー   の書いた詩に関するもの。 ルック 「恋する青年が相手ではありませんからね。私の性質 は悪食《あくじき》ですが、子供は狂っているより無垢な方が好 みなもので。まあ、今は別のものでお腹がいっぱい ですけれども。ふふっ」 それはそれで悪趣味だと思いながら、最後の言葉にぴくりと眉を上げて。 オウル 「その様子では幾らか掠め盗っているようだね」 オウルは別に責めている訳ではないし、ルックも少し楽しんでいるかのようなやり取り。 ルック 「掠め盗るだなんて人聞きが悪い。私は少々この世界 のお掃除を手伝っているだけです」 オウル 「まあ良いさ、思いもがけず愉快だったよ。嗚呼、そ うだ。さっきの貴君の問いだがね」 ルックに背を向け立ち去りかけて。 オウル 「小生は陽のある内には墓穴を掘らない主義なんだ。 だから、今夜中にやっておかないと間に合わんのだ よ」 その状態からぐりんと首だけ百八十度振り返る。 オウル 「誰がロビンを殺すのだろうね。ホゥ、ホゥ、ホゥ」  ※ ここの『ホゥ』の響きは『Who《フー》』に寄せる。   『Who Killed Cock Robin』への伏線。 解説: マザー・グースに登場する動物や無機物は全て擬人化。 擬人化といっても非常にアバウトかつご都合主義で、 擬人化体で墓を掘っていた次の場面で鳥の姿になって 飛んで行く事もできる。また、死後の魂は古今東西問 わずよく鳥に喩えられる。登場する鳥達の中にも実は 既に死んでいる者がいるのかもしれない。 監督宛:  羽ばたきや仕草のSEを音量等で差をつけられるなら、 鳥のサイズに応じて何段階かバリエーションを お願 いします。スケールは左の通り。  ロビン   >  レン、ダヴ   >  その他ほとんどの鳥達   >   オウル、ルック、カイト ..第四幕 第四幕 -My Mother Has Killed Me 1/2- 登場人物: ロビン マルレーン ママ パパ 〔マザー・グースの世界:ロビンの家〕 台所から大きなネズの木が見える家。長閑なイギリスの片田舎風のBGM。  ※ 第三幕と類似(同一でも可)。時間経過でBGM   を変えても良し。回想諸々含め、お任せします。 窓の外で鳥がぴちち、と長閑に鳴いている。  ※ この幕では時折バックでランダムに鳥の鳴き声を   挿入。基本BGMに紛れる背景的扱い。第三幕に   登場した鳥達(オウルを除く)が鳴いている。 大きな箱の中からママがリンゴを取り出し、マルレーンに手渡す。 ママ 「はい、今日のおやつよ」 マルレーン 「うわぁい、リンゴぉ」 口をいっぱいに開けてかぶりつく、可愛い音。 マルレーン 「うふふ、美味し」 ママ 「あんたは本当に可愛い子ね」 愛おしそうにマルレーンの頭を撫でる。しゃくしゃくとリンゴを食べていたマルレーンが不意に動きを止めてママを見上げる。 マルレーン 「ねえ、ママ」 ママ 「何?」 マルレーン 「後でロビンお兄ちゃんもリンゴ食べて良いよね?」 内心で舌打ちするママ、白々しく。 ママ 「あら、ロビンはリンゴは嫌いじゃなかったかしら」 少し考え込むマルレーン。 マルレーン 「そんな事、ないと思う。だってお兄ちゃん、『良い な』って言ったもん」 ※ 回想に繋ぐため、二行目は余韻を持たせた口調で。 〔回想:ロビンの家〕 回想中はバックの鳥の鳴き声オフ。  ※ 鳴いている鳥の種類は、第三幕の登場人物から梟   を除外したもの。 回想前と同じようにマルレーンがリンゴを頬張っている。それを羨ましそうに見ているロビン。ママはその場にはいない。 マルレーン 「〈リンゴを頬張ったまま〉んん?」 ロビン 「……良いな」 ごっくん、頬張った林檎を呑み込んで。 マルレーン 「お兄ちゃんも食べる?」 齧りかけのリンゴを差し出すマルレーン。慌てて首を振り目を逸らすロビン。  ※ 実は林檎だけではなくマルレーンの唇も見ていた、   という淡い恋心。 ロビン 「べ、別に、いらない」 マルレーン 「どうして?」 ロビン 「……お前のおやつを奪《と》ったら、ママに怒られる」 きょとんとするマルレーン。 マルレーン 「奪《と》るんじゃないよ? マルレーンがあげるのに」 本音では欲しいが我慢して、少し未練を滲ませながらも拒否するロビン。 ロビン 「っ、それでも、駄目なものは駄目!」 マルレーン 「変なお兄ちゃん……。(ずっとリンゴ見てたのに。 マルレーンの、気の所為《せい》?)」  ※ 括弧内は心の中の台詞。 〔回想終了〕 バックの鳥の鳴き声オン。話を聞いて考え込むママ。前々から疎ましく思っていたロビンを殺してしまう方法が頭の中で閃く。 マルレーン 「ママ……ママ?」 妄想の世界からカムバックして。 マルレーン 「どうしたの、ママ?」 ママ 「あ……、あら、何だったかしら」 マルレーン 「だからね、ロビンお兄ちゃんにもリンゴをあげて欲 しいなって。そしたらマルレーンも嬉しいなって」  ※ この『だからね』は『だーかーらー!』ではなく、   こういう理由『だから』リンゴをあげて〜という   ニュアンスで、お願い風に。 ママ 「ええ、分かったわ。ロビンが帰ってきたら、そうし ましょう」 後半は黒く、優しげな声音でなおかつどす黒く。  ※ 可愛い娘と接する際の優しさ+邪魔者を始末でき   る事への愉悦。(←重要) バックで猫(キティ)の鳴き声、ニャァン。ぱたぱたぱた、と驚いた鳥達が逃げていく羽音。以降、鳥の鳴き声オフ。 マルレーン 「わぁい、ありがと、ママ!」 ママ 「それじゃあ、マルレーン。あんたはお茶にしましょ う、こっちへいらっしゃい」 マルレーン 「はぁい」 ぱたぱた、駆け寄るマルレーンと一緒にキッチンへ。水を汲み暖炉に火を点ける音、お湯を沸かし始める。ぱらぱらとハーブを千切ってそこに落としながら。 ママ 「バレリアン、ラベンダーにマージョラム」 魔法を唱えるような口調で列挙していく。  ※ 全て催眠作用のあるハーブの名前。これからハー   ブティーでマルレーンを眠らせるつもり。 興味津々でそれを下から眺めているマルレーン。ふと目が合って首を傾げる。 マルレーン 「?」 微笑みを深くするママ。 ママ 「あんたは本当、可愛い子」 『ロビンを殺す良いアイデアを与えてくれてありがとう と心の中で付け加えるくらいの気持ちで。ママの無意識では『良い子』=都合の良い子でもある。 〔時間経過:昼下がり→夕方(まだ明るい)〕 場面転換後、鳥の鳴き声オン。  ※ 先の場面から少し時間が経過しているため、鳴き   声の種類を変更。掛け合いでは未登場のミソサザ   イ(レン)一羽だけが時折小さな声で鳴くのみ。 第三幕で帰宅を促されたロビンが、ママの顔色を窺うように恐々とした様子で家に帰ってくる。 ロビン 「ただいま……」 台所で上機嫌でシチューを作っていたママが振り返る。 ママ 「お帰り、ロビン。遅かったわね。マルレーンは待ち くたびれてお昼寝中よ」 ロビン 「ママ。その……」 ディッシュとスプーンの事を言い出せずまごつくロビン。 ママ 「どうしたの? 早く入ってらっしゃいな」 出迎えるように戸口の方へ歩み寄るママ。普段はそんな事はしないので、ロビンは更に戸惑う。 ロビン 「……お皿と、お匙。見付からなくて」 ママ 「まあ、そんな事気にしてたの? 良いのよ、今朝は 少し言い過ぎたわ。悪かったわね」 不審そうに顔色を窺うロビン。 ロビン 「ママ……?」 ママ 「それよりも、お腹が空いたんじゃない?」 ロビン 「う、うん」 ママ 「よく熟れたリンゴがあるわよ」 ロビン 「え、食べて良いの……?」 ママ 「駄目だったら言わないわよ。なぁに、いらないの?」 ロビン 「ううん、欲しい!」 ママ 「なら、そこの箱に入ってるわ。あんたが好きなのを お取りなさい」 人が一人くらい入りそうな大きな木箱を指差す。小走りに駆け寄り箱を開けるロビン。蓋を開けた瞬間、リンゴの甘酸っぱい香りが漂う。 ロビン 「わぁ、良い香り……。本当に、どれでも良いの?」 ママ 「勿論よ」 ロビン 「えっと、それじゃあ……どれにしようかな。どれも 美味しそうだし。大きいのが良いな。んっと……」 ごそごそ、リンゴに手を伸ばそうと箱に頭を突っ込む。以下、ママの心の声とロビンの独り言を重ねながら、ロビンの動きを実況するように。 ママ 「(そうよ、もっと奥まで首を突っ込みなさい。頭が すっぽり入ってしまうくらい。ふふ、リンゴなんか 欲しがるからいけないのよ。あんたは今から、この リンゴ箱の蓋で首を切り落とされるのよ)」 ロビン 「あ、これ……」  ※ 心の中で『マルレーンの頬っぺたみたいな色』と   付け足して演技して下さい。 リンゴを一つ手に取って頭を上げようとするロビン。慌ててロビンを箱の中に戻そうと唆《そそのか》すママ。 ママ 「(嗚呼、出てくるのが早いでしょ!)それはまだ少 し青くないかしら?奥にもっとよく熟したのがあっ たはずよ」 ロビン 「え、そう、かな? んー、どれだろ……」 少し未練を滲ませながらもリンゴを手放して。 ロビン 「〈くんくん、と匂いを嗅ぎ〉……あ、これ。凄く甘 い匂いがする」  ※ 予めロビンにリンゴを探す演技を長めに演じても   らい、尺に合わせて編集で微調整できるようにし   ておく事。もしくはママの演技をモノローグを先   に収録し、ロビンがそれを聴きながら尺を合わせ   る事。 ママ 「(……! 今よ!!)」 すかさずロビンの背後に近付き蓋に手をかけるママ。 ロビン 「うん! これが良」 ばたん! ママが思い切り箱の蓋を閉め、ロビンの首が挟まる。 ロビン 「っ……!?」 蓋の縁で首が切断される一瞬の断末魔が、蓋が閉じる音の後ろでほんの微かに聞こえる。全く何が起こったか解らぬまま事切れるロビン。ギロチンのように切断された首が箱の中へ転がり落ちる。ごとん、箱の中でくぐもった音。更にロビンの体が床に倒れる音、そして静寂。窓の外では鳥がぴちち、と他所事のように鳴いている。余韻を持たせて、沈黙の尺は少し長めに取る。 ママ 「ロビン?」 沈黙。 ママ 「……ロビン?」 恐る恐る、震える声で。 ママ 「返事がないわ。ええ、ええ、そりゃそうよね。今あ たしの目の前に倒れてるのは、首なし死体。あの子 の頭はリンゴ箱の中……」 徐々に殺したという実感が歓喜となって湧いてくる。 ママ 「ふ、うふふ、あはははは。馬鹿な子! 何てお馬鹿 さんなの! こんなに上手くいくなんて。あぁっと、 声が大きいわ。マルレーンが起きてしまう」 声のトーンを落としリンゴ箱を開ける。 ママ 「さあ、どうしようかしら。流石にマルレーンやあの 人にはあたしが殺したと言う訳にはいかないし。  ……そうね、こうしましょう。『証拠』はきちんと 『隠滅』しなくちゃいけないものね」  ※ 『証拠』『隠滅』はママの口癖。印象に残るよう   にお願いします。 〔時間経過:夕方(まだ明るい)→夕方(暗い)〕 更に時間が経過し、鳥の鳴き声オフ。マルレーンが目をこすりながら子供部屋から出てくる。 マルレーン 「ふあぁ、ママぁ? あ、ロビンお兄ちゃん!」 ロビンが食卓に座っているのを見て嬉しそうに駆け寄る。ロビンの首には包帯が巻かれ、胴体と頭を繋いでいる。 マルレーン 「お帰りなさい、お兄ちゃん。お腹空いてない? マ マがね、リンゴ食べて良いって……お兄ちゃん? そのお首はなぁに? どうして包帯なんかしてるの? お兄ちゃん? ……お寝んねしてるの? だったら、 ベッドに……」 反応がないのを訝しみゆさゆさと袖を掴んで揺さ振る。するとロビンの首に巻いてあった包帯がしゅるっと解け、ロビンの頭が床に落ちる、ごっとん。 マルレーン 「!? ひっ……え、ぅ、あ……お兄ちゃ……、く、首、 首が……なんで、とれて……?」 ごろごろ転がるロビンの頭と、倒れ掛かってくる体を咄嗟に受け止めたら血だらけの首の断面とご対面。表情が凍りつき、恐怖に震え始める。 マルレーン 「あ……、血……? ……ゃだ、うそ、やだ」 一気にパニックになって火が点いたように泣き出しながら、ロビンの体を支えていた手を離しぱっと後退る。ロビンの体が床へ倒れる生々しい音。。 マルレーン 「う、あぁぁぁん、うわぁぁぁん、ママ、ママーッ!!」 ママ 「どうしたの、マルレーン!」 台所の奥から待ち構えていたように飛び出してくるママ。 マルレーン 「お、おに、お兄ちゃんの、頭が、っ、頭が……。う えぇぇん、おち、落ちちゃったぁ!」 ママ 「嗚呼! それは怖かったわね。大丈夫よ、ママがい るから大丈夫」 泣きじゃくるマルレーンを抱き締めてあやすママ。自分のした事が受け入れられずがたがた震えながら。 マルレーン 「どうしよう、お兄ちゃん、死んじゃった……? マ ルレーンが殺したの?」 ママ 「あんたは悪くないわ。泣かないで。ロビンの事はマ マが何とかしてあげる」 マルレーン 「ほんと……?」 マルレーンはママがロビンを治してくれるかも、という期待を抱くくらいには幼くて純粋。涙をいっぱい溜めて縋るような目でママを見上げる。 ママ 「ええ、だからここはママに任せて。でも、一つだけ 約束をしてちょうだい」 マルレーン 「何、ママ? マルレーン、何でもするから」 ママ 「今からママがする事は誰にも内緒。二人だけの秘密 よ、良い?」 マルレーン 「うん、約束する。だから、ロビンお兄ちゃんを…… (助けてあげて)」 『助けて』の部分はママには聞こえない心の声。 梟の鳴き声がホゥ、ホゥ、ホゥ、と微かに聞こえる。  ※ オウルからの『私は見ているぞ』メッセージ。第   三幕の最後の台詞に似せる。 〔時間経過:夕方(暗い)→夜〕 梟の鳴き声が時折ホゥ、ホゥ。 パパが仕事から帰ってくる。  ※ パパの訛りは方言ではなく農家訛り。より喋り易   いようにアドリブで変えてもらって構いません。   ロビンには多少パパの訛りが移っていても良いの   で、先に収録してそれを聴いてもらってから収録   に臨んでもらうのもアリかと。ママは訛りなしで   OK、マルレーンはママ寄りですが一つ二つなら   ロビンやパパの訛りを真似ていても良いです。 パパ 「おぉい、帰《けえ》ったぞぉ」 台所から声を掛けるママ。 ママ 「お帰りなさい、あなた」 パパ 「良《え》え匂いじゃ。今日もシチューけ?」  ※ 好物なので嬉しそうに。 ママがシチューの皿を運んできてパパの前に置く。 ママ 「勿論、だってあなたの大好物ですもの。今日のは特 別製よ」 パパ 「おお、そら楽しみじゃ。おお? おお……こりゃ、 たまげたな。お前、こりゃ肉が入っとるんか!」 ママ 「吃驚した?」 パパ 「当ったりめえよ! こんご時勢に肉なぞ何処で手に 入れよった?」 ママ 「ふふ、それは秘密。それより、食べて」 パパ 「ああ、ああ、食うとも」 一口すくって口に運びもごもごと咀嚼して。 パパ 「うん、美味《うま》かぁ!」 ママ 「良かった、あなたのお口に合って」 じんわり涙ぐむパパ、かたりとスプーンを置いて。 パパ 「すまんのう。あんまり久々の肉じゃったから。もう 長い事お前らに美味いもんも碌《ろく》に食わしてやれんで。 ほんに、すまんかったなぁ」 ママ 「良いんですよ、あなた。そんなの、何処の家も同じ。 それに、マルレーンはあなたの作るリンゴが本当に 大好きなんだから」 ふっと笑んでまたシチューを食べ始めるパパ。 パパ 「そういやぁ、子供らはどないした? 二人とも寝て しもうたんかい。晩餐に肉が出てきたとあっちゃ、 あいつらも喜んだじゃろ」 にっこりと作り笑いをするママ。 ママ 「……ええ、そりゃあもう。お腹一杯になったら次は すっかりおねむで。あなたの帰りも待たずに眠りこ けてるわ」 子供の顔を見る事ができず少し残念そうなパパだが、お腹が一杯で眠ったと聞くと微笑む。 パパ 「そか。いんや、寝る子は育つ、良《え》えこっちゃ。美味 い肉もあるんじゃから、尚の事な」 こっそり起きて食卓の下にもぐり込んでいたマルレーン。泣き声を殺しながら、食卓の下に散らばっているロビンの骨を拾い集めている。  ※ ここからはマルレーンに視点を合わせる。パパと   ママの会話は少し遠く、卓一枚隔てている風に。 マルレーン 「ロビンお兄ちゃん、ごめんなさい。でもね、でもね、 内緒だから言えないの」 パパ 「にしても、こりゃ何の肉じゃ? 牛でもなか、羊で も豚でもなかっぽい。鳥かの、うんにゃ鳥にしちゃ 随分大きゅうな」 ママ 「そうね、鳥でも間違いではないかしら」 パパ 「はは、何じゃそりゃあ。けったいな動物じゃの」 マルレーン 「♪My《マイ》 father《ファーザー》 is《イズ》 eating《イーティング》 my《マイ》 brother《ブラザー》, I《アイ》 sit《シット》 under《アンダー》 the《ザ》 table《テーブル》, Picking《ピッキング》 up《アップ》 bury《ベリー》 them《ゼム》……」 『My Mother Has Killed Me』の歌の主語を変えたもの。小さな声で歌いながら、段々歌詞に違和感を覚え始める。以下、パパとママの台詞は↑のマルレーンの歌にかぶる。 パパ 「およ、テーブルの下に何ぞあるな?」 ママ 「あら、気の所為でしょ? 今日もあたし、きちっと お掃除したはずよ」 パパ 「いやいや、お前《みゃあ》は案外そそっかしゅうから。箒《ほうき》で何 ぞ掃き込んだんかもしれんで」 マルレーン 「(この歌、何? マルレーンは知らない。なのに、  違う。何かが違うって、判る。どうして……)」 ここからマルレーンの歌詞が正しいものに変わる。同時に、マルレーンの声にロビンの声が重なりしんと周囲の音が消える。  ※ 演出的なものなのでキャラクターには聞こえてい   ない。マルレーンは本当の歌詞をロビンにつられ   て口にしている。何者かに操られて唄っているよ   うな唄い方。ロビンは哀切が滲む声音にエコーを   加えて。 兄妹 「「♪My《マイ》 father《ファーザー》 is《イズ》 eating《イーティング》 me《ミー》, My《マイ》 sister《シスター》 sit《シット》 under《アンダー》 the《ザ》 table《テーブル》, picking《ピッキング》 up《アップ》 bury《ベリー》 them《ゼム》 under《アンダー》 the《ザ》 cold《コールド》 marble《マーブル》 stones《ストーンズ》」」 ↓の会話は直前のパパとママの会話と続けて収録する事。 ママ 「ご飯中によしてちょうだいな」 パパ 「うん? 何や大きいぞ、猫でもおるんじゃなかろか」 ママ 「あなた!」 マルレーンに気付きテーブルクロスを捲り上げるパパ。 兄妹 「「♪My《マイ》 mother《マザー》 has《ハズ》 killed《キルド》 me《ミー》」」 ぴたり、歌が止まる。食卓の下を覗き込んだパパ。目を腫らしたマルレーンと目が合って固まる。マルレーンの手の中にはロビンの骨。ママは険しい表情で黙り込む。重い空気の中、訝しげにママを見やりパパが口を開く。 パパ 「マルレーン。さっきお前、寝た言うて。……そこで 何しちょる?」 マルレーンは沈黙、ロビンだけが歌詞を繰り返す。 マルレーン 「……〈はくはくと喉に何かが詰まったように喘ぐ〉」 ロビン 「♪My《マイ》 mother《マザー》 has《ハズ》 killed《キルド》 me《ミー》,」 つられるように、マルレーンも次の歌詞を口にする。 兄妹 「「♪My《マイ》 father《ファーザー》 is《イズ》 eating《イーティング》 me《ミー》」」 パパ 「……マルレーン?」 呆気にとられるパパ。事情がバレたかどうかはリスナーには有耶無耶のまま。最後にまた、梟の鳴き声がホゥ。 解説: 『My Mother Has Killed Me』という歌にちなむ。た だし、ここから後の展開はこの歌の元となったグリム 童話の『ネズの木』にストーリーを寄せるため、歌と は異なる筋書きになる。イギリスやドイツといった食 糧事情の悪い土地の童話において、子供を殺したり捨 てたりする話は口減らしを暗喩しているケースが多い。 ..幕間 幕間 -Humpty Dumpty- 登場人物: ハンプティ ダンプティ 〔マザー・グースの世界:リンゴ箱の中〕 メルヘンチックな子供部屋っぽいBGM。暗い箱の中でリンゴに腰かけている二人。以下、手紙を読み上げるような口調でグリムへ状況を伝えている。 ダンプティ 「拝啓、リンゴ箱の中より」 ハンプティ 「初めて私達が見た空は、夜空でした。お星様は夜空 いっぱいにひしめいて、じっと私達を見つめていま した」 ダンプティ 「星は『好奇心』を燃やしているからあんなにきらき ら輝いているんだと、黒猫キティは言いました」  ※ 空の星を全て人間の目に置き換えた風景を想像し   て演技して下さい。空は現実とマザー・グースの   世界との境界、グリムや不特定多数(リスナー含   む)の観客がそこから覗き込んでいるイメージ。 ハンプティ 「何て綺麗なのかしら」 ダンプティ 「何て不気味なんだろう」 『星空』にうっとりするハンプティ、一方でダンプティは『星』を嫌悪する。  ※ 『星』から『好奇心』を一斉に向けられる嫌悪感。   ハンプティは観客を全てひっくるめて風景と捉え   ており、鑑賞される事を何とも思っていない。 ハンプティ 「キティの目は闇の中で煌々《こうこう》と光り、私達を導きます」 ダンプティ 「ゆらゆらと手招く尻尾を追って僕らが辿り着いたの は、庭に大きなネズの木がある家でした」 ハンプティ 「曰《いわ》く、このお家のリンゴ箱の中で待っていればじき に一際大きなリンゴが降ってくる、と」 ダンプティ 「曰く、そのリンゴの中には生まれる前の雛がいて、 一つ魔法をかければその雛は実を食い破って飛び出 すだろう、と」 ハンプティ 「曰く、その後にもう一つ魔法を唱えれば万事全ては 上手くいく、と」 双子 「「だから私達(僕ら)は今こうしてリンゴ箱の中に  いるのです」」 ダンプティ 「敬具、ハンプティ・ダンプティより」 ハンプティ 「偉大なるグリムの兄君様と弟君様へ」 手紙口調はここで終わり。 ダンプティ 「魔法って、僕らでも使えるものなんだね」 ハンプティ 「一つ目の魔法は、あの方達が特別にお貸ししてくれ るんですって」 ダンプティ 「二つ目の魔法はこの世界を創った魔女のものらしい けど、僕らだったら使えるだろうってキティは言っ てたね」 ハンプティ 「いったいどういう事かしら?」 ダンプティ 「さあ、どういう事なんだろう?」 にこりと微笑を浮かべて。 ハンプティ 「そんなの別にどうでも良いわね」 ダンプティ 「うん、これで本当に母様に会えるなら」 ハンプティ 「私達は」 ダンプティ 「それで満足」 ぎぃ、とリンゴ箱の蓋が開く音。 ダンプティ 「見て、ハンプティ。箱の蓋が開いたよ」 ハンプティ 「きっとリンゴが降ってくるんだわ」 第四幕のロビンとママのやり取りが漏れ聞こえる。  ※ 長時間流すと間延びするので、幾つかぱっと聞い   て判り易い台詞をクロスフェードさせる。 ばたん!  ※ ママがリンゴ箱の蓋でロビンの首を切り落とした   場面をリンゴ箱の内側で聞いているという設定で   諸々のSEが入る。 ロビンの首がダンプティの真上から転がり落ちてくる。一緒にロビンの首から飛び散った血も降ってくる。 ハンプティ 「あっ、危ない!」 ダンプティ 「ぅわっ!!」 間一髪で直撃を免れ、首はごろごろと床に転がる。 ハンプティ 「大丈夫、ダンプティ?」 ダンプティ 「……大丈夫、何ともない。もうちょっとで頭がぐっ しゃり割れちゃうとこだったよ」 ハンプティ 「嗚呼、無事で良かった。私達が怪我なんてしたら、 たとえ王様がお馬と兵隊さんをありったけ連れてき たって」 一瞬BGMを絞り、シリアスに。 ハンプティ 「元には戻れないんだから」  ※ ハンプティ・ダンプティとは『危うい状況』『も   う元には戻らない』という事の象徴。 何事もなかったかのようにぱっと切り替えて。BGMも元に戻る。 ダンプティ 「それよりさ、キティが言ってたのはこの事だよね。 大きくて瑞々しい真っ赤なリンゴ。 〈息を吸い込み〉嗚呼、とっても良い匂い」 血塗れのロビンの首を手に取るハンプティ。血はまだぱたぱたと滴っている。 ハンプティ 「泉の中の金のリンゴとそっくりな香りね」 ダンプティ 「新鮮な錆の匂い」 ハンプティ 「命の香りだわ」 ダンプティ 「蜜が零れて勿体無いね」 ハンプティ 「赤くて綺麗なのにね。貴方の顔にも付いてる、ダン プティ」 ダンプティ 「君の髪にも付いてるよ、ハンプティ。リンゴが落ち てきた時にかかったんだね」 ハンプティ 「取ってあげる」 ダンプティ頬に付着した血に口付けるハンプティ。 ダンプティ 「僕も」 ハンプティの髪をすくって口付けるダンプティ。 ハンプティ 「ふふ、甘い」 ダンプティ 「食べちゃいたいね」 ハンプティ 「駄目《だぁめ》、このリンゴを割るのは中にいる鳥さんなんだ から」 ロビンの首をぬいぐるみか何かのように軽く撫でるハンプティと、未練がましくその首から血を少し指で拭って舐めるダンプティ。 ダンプティ 「はぁ、他のリンゴで我慢するしかないのかなぁ……。 じゃあ、もう魔法かけちゃおう」 ハンプティ 「そうね。このリンゴが、ネズの木の下に埋められる ように」 双子 「「Von《フォン》 dem《デム》 Machandelboom《マッヒャンデルボーム》」」  ※ グリム童話のタイトル、ドイツ語で『ネズの木』。 ダンプティ 「本当の始まりはここからさ、ふふっ」  ※ そのまま次のくすくす笑いに続く。ハンプティの   台詞の間だけ笑い声を抑えるイメージで。 ハンプティ 「私達も行きましょう」 双子 「〈くすくす笑い〉」 尾を引く笑い声と共に二人の姿は掻き消えていく。  ※ 空間が一緒くたになってぐるぐると混ざり合い、   リンゴもハンプティ・ダンプティもロビンの首も   ロビンの血も笑い声も、全てがごちゃ混ぜになっ   て消滅するようなイメージ。 BGMフェードアウト。 解説:  一つ目の魔法=第四幕の『My Mother Has Killed Me』 の結末をグリム童話に繋げるための魔法。マルレーン にロビンの骨をネズの木の下に埋めさせ、ロビンを鳥 として生まれ変わらせる効果がある。また、二つ目の 魔法は第六幕の最後で唱えられる。 ..第五幕 第五幕 -My Mother Has Killed Me 2/2- 登場人物: ハンプティ ダンプティ マルレーン キティ 〔マザー・グースの世界:早朝の道端〕 死と嘆きを連想させる、静かで悲しげなBGM。啜り泣マルレーンの声が聞こえる。そこへ歩み寄っていくハンプティ・ダンプティ。 マルレーン 「うぅ……ぐすっ、くすん……」 ハンプティ 「誰かが泣いてるみたいよ、ダンプティ」 ダンプティ 「本当だね、ハンプティ。とても悲しそうで素敵な泣 き声。可愛いね」 マルレーンの傍まで来て立ち止まる。 ハンプティ 「あら? このおちびさん、どうしたのかしら。瑞々《みずみず》 しいお骨《ほね》なんか両手に抱えて」 ダンプティ 「Sky《スカイ》 burial《ベリアル》.まるで空葬《くうそう》した後みたい」 マルレーン 「ぐすっ……すかい、何……?」 ハンプティ 「空のお葬式、って書いて空葬《くうそう》よ」 ダンプティ 「鳥のお葬式、で鳥葬《ちょうそう》とも言うね」  ※ 同じ語感の『空想』、『Who Killed Cock Robin』   における鳥達の葬列にかけている。何でもないよ   うで意味のある台詞です。 マルレーン 「よく、解んない……」 ダンプティ 「まあ、そうだろうね」 ハンプティ 「どうしてお骨なんか抱えてるの?」  ※ 二人はマルレーンが泣いている事は全く気にかけ   ていない。 涙を拭い二人を見上げるマルレーン。 マルレーン 「貴方達は、ハンプティ・ダンプティ? ……変よ、 初めて会ったはずなのにどうして名前が判るの?」 ダンプティ 「決まっているからさ」 マルレーン 「決まって?」 ハンプティ 「鳥は鳥、人は人。私達はハンプティ・ダンプティ」 ダンプティ 「それより、君のお話聞かせてよ」 マルレーン 「あのね、ロビンお兄ちゃんが死んじゃったの」 ダンプティ 「おやまあ」 ハンプティ 「あらまあ」 声を揃えて相槌を打つ。  ※ ダンプティは他人事のように素っ気なく、少し愉   快げ。ハンプティも死そのものは愉快だが、幾ら   か同情的に。とはいえ、『肉親が死んだ』という   程の重さはなく『ほんの少し離れ離れになった』   程度の軽さ。死別の深刻さを認識していない。 ハンプティ 「じゃあ、それはお兄さんのお骨なわけね」 ダンプティ 「随分小さいんだね、卵の殻かと思ったよ」 ハンプティ 「それはちょっと薄過ぎるわ。せめて、粉々になった お皿の破片よ」 ダンプティ 「それはちょっと無機的過ぎるよ。あんな瑞々しい香 りがするのは生き物だけさ」 ハンプティ 「うぅん、それもそうね」 マルレーン 「何のお話してるの……?」 ダンプティ 「ごめんね、君には解らない話だね。ねえ、そのお骨 はどうしてそんなに小さいの?」 マルレーン 「ママが、お兄ちゃんを切り刻んじゃったから」 ダンプティ 「なるほど、それでばぁらばら」 ハンプティ 「子供を切り刻んじゃうだなんて。貴女のママは人喰 い一家、ビーンの末裔かもね」  ※ ビーン=スコットランドに実在した人喰い一族。 さっと顔色を青くするマルレーン。 ダンプティ 「あはは、それはないよハンプティ! 彼らは皆《みぃんな》、捕 まって処刑されちゃったはずだもの」 ハンプティ 「も・し・も。もしものお話よ、ダンプティ」  ※ 『そんな現実的な話はしないでよ、面白くない子   なんだから』という呆れのニュアンスで。 切り返して反論に移る。 ハンプティ 「じゃあ、ヘンペルのカラスを誰か試してみたかしら? 世界中の人という人を調べ上げて、誰《だぁれ》もビーンの生 き残りじゃないよだなんて、確かめたりしたかしら?」 苦笑するダンプティ。 ダンプティ 「それは全知の悪魔、ラプラスの魔《ま》に聞いてみなきゃ。 もっとも、そんなのいる訳ないけど」 ハンプティ 「イグノラムス・エト・イグノラビムス、『我々は 知らない、知る事はないだろう』……いたとしたっ て、誰もそれを認識する事なんてできないの」 ダンプティ 「誰も全てを知らないなら、世界はシュレディンガー の猫箱と同じ。どんな不条理も『有り得る』お話。 でも、どうせ非現実的な話をするなら、もっと童話 的な話をしようよ。そう、この子のお兄さんのオハ ナシの続きを、さ」 『話の続き』にこそ意味があるんだと言わんばかりに。肩を竦め、少しつまらなそうにしつつも従うハンプティ。 ハンプティ 「そうね、オハナシが進まなきゃ退屈なままだものね。 お兄さんを殺した酷いママのお話、だったかしら?」 マルレーン 「違うの、ママが悪いんじゃないの! だって、…… お兄ちゃんを殺したのはマルレーンだから。ママは ショーコのインメツで、お兄ちゃんをシチューにし ちゃっただけ。それをパパが知らずに美味しい、美 味しいって食べちゃっただけ」  ※ なお、第三幕でも同様にロビンがママの言葉を引   用して『ショーコ』を『インメツ』と言っている。   マルレーン自身は単語の使い方自体をきちんと理   解していないので片言、ママの真似をしている。 顔を見合わせて妙な顔をする二人。 ダンプティ 「なぁんだ、本当に人喰い一族だったよ」 マルレーン 「違う、違うの! ママもパパも人喰いのお化けなん かじゃないもん!」 ハンプティ 「誰もお化けなんて言ってないわよ、ねえ?」  ※ ○人喰い人間 ×人喰いお化け   人喰いとは言ったがお化けとは言っていない、と   いう屁理屈だが二人は真面目。 マルレーン 「本当?」 声を揃えて。 ハンプティ 「本当《ほんとう》よ」 ダンプティ 「本当《ほんと》だよ」 少し微妙な沈黙が挟まる。 ダンプティ 「ふぅん……で、それが残ったお骨ってわけだ」 ハンプティ 「可哀想ね、お兄さん」  ※ ハンプティは殺された事が可哀想なのではなく、   食べられて骨だけになってしまった事が可哀想と   思っている。 二人のリアクションに不穏さ、得体の知れない恐ろしさを感じてマルレーンが少し警戒心を抱き始める。 マルレーン 「ハンプティ・ダンプティ……? マルレーンは何か おかしな事、言った?」 ハンプティ 「? どうしてそう思うの?」 純粋に理解できないためきょとんと問うハンプティ。 マルレーン 「だって、何だか二人共変だから……」 ダンプティ 「変? 僕らの何が変なのかな」 ハンプティとは違って心当たりのあるダンプティ。 冷めた視線で、口許だけで微笑みながら問う。言葉に詰まり視線をさ迷わせるマルレーン。 マルレーン 「分かんない……。でも何か、変な感じ。ちょっと、 怖い……」 ハンプティ 「あら。私達、嫌われちゃった?」 ダンプティ 「何もしてないはずなのに、不思議」 『不思議』の言い方は皮肉混じりに、萎縮する蛙を視線でいたぶるような黒さを見せる。それを遮るようにぱちぱちぱち、と唐突に拍手が響く。 キティ 「ふふふ、あははははっ」 ぽとっと世界に闇が落ち、見る間に辺りに滲んでいく。  ※ キティ登場のエフェクト。笑い声に呼応するよう   に蝙蝠《こうもり》がキィキィ鳴きながら飛び立つ。 双子 「「……」」 少し嫌そうに顔を顰める二人(特にダンプティ)。 マルレーン 「だ、誰……?」 びくりと怯えて周囲を窺うマルレーン。  ※ 双子とマルレーンの反応はほぼ同時、双子にマル   レーンのリアクションを被せて。 キティ 「そんなに驚かないで? 愛らしいお嬢さん。キミの 純心に感心しちゃってさ。見守るだけのつもりが思 わず出てきちゃった、うふふ」 悪戯っぽい仔猫そのままのイメージで、楽しそうに闇の中から姿を現す。  ※ この辺りまで裏でキティ登場のエフェクトを流す。   キティの姿が出てくるところでは大勢の蝙蝠が一   斉に鳴きながら飛散していく。第十一幕で登場す   るスノードロップの出現の仕方と対になるイメー   ジで。 キティのテーマBGMオン。  ※ 気紛れで何処か神秘的な黒猫をイメージ。 ハンプティ 「貴方は……キティ?」 ハンプティの怪訝そうな反応の理由に思い至り。 キティ 「あー、キミ達も人の姿のを見るのは初めてだっけ? そそ、黒猫キティさ。この耳と尻尾になら見覚えあ るよね」 猫耳をぴこぴこと動かし、尻尾を手に取ってくるんと撫でてみせる。 マルレーン 「貴方、猫さんなの?」 吃驚しながらも恐る恐る問いかける。 ニィっと笑うキティ。 キティ 「そうだよぉ。可愛い可愛い黒猫さんさ」 マルレーン 「黒猫さん……」 怖がるような素振りでハンプティ達の背に隠れる。嫌味を言うダンプティ。 ダンプティ 「わぁ、怖がられてる」 キティ 「もう、何でぇ? 皆黒猫は不吉だとか魔女の使い魔 だとか、今でも本気で信じちゃってるワケ?」 ハンプティ 「でも、実際貴方はそのお陰で魔法が使えるんでしょ?」 ハンプティに呆れたように言われてぶーたれるキティ。 キティ 「そうなんだけどさぁ……。てか、厳密にはその裏で 積み上げられてきた我輩達の死体の数こそが、この 魔力の源だと思ってるけどね」  ※ ボク達=世界中で殺された黒猫達の事。 マルレーン 「黒猫さんは魔法使いなの?」 キティ 「嗚呼、そうとも。知っているかい、小さなお嬢さん。 黒く生まれた我輩達の不幸を。謝肉祭《カーニバル》で毛を毟られ、 真夏の夜には火炙りにされ、水曜日には時計台から 投げ殺され、魔女裁判でも焼き殺される! 耳と尻 尾を切り落とされ、脚を一本叩き潰され、毛皮を引 き裂かれて始めて我輩達は無実になれるんだ」 マルレーン 「そんな事したら、死んじゃうよ。可哀想……」 悲しそうに震えた声で嘆くマルレーン。ヒートアップしていた口調がふわりと穏やかになる。賢者タイム。 キティ 「そうとも、死ぬ。死ねば赦される。でもね、死んだ ところでどうなる? 赦されたところで何になる? それならこの降り積もった辛苦と怨嗟《えんさ》で、魔性に成 り果てる方が余程に愉快さ」 にやぁっ、と瞳孔を細めて笑みを深める。 キティ 「キミ達だってボクと一緒だよ、ハンプティ・ダンプ ティ。むしろ、我輩よりキミ達の方が遥かに恐ろし い怪物だ」 少し険な視線を向けるハンプティ・ダンプティ。すっと無機質な声で。 ハンプティ 「何が言いたいの、キティ?」 ダンプティ 「君は僕らに協力する、そういう約束だよね」 念押しするダンプティに対して、首を竦めるキティ。 キティ 「勘違いしないで。我輩はグリムに言われてキミ達の 付き添いをしてるだけ。キミ達の望みの邪魔なんて しないけど、我輩にだって自由を制限される義務は ない」 ハンプティ 「だったら、どうしてこんなに出しゃばるの」 キティ 「さあ、虫唾が走ったからかな」 挑発するようなキティ。 むっとするハンプティを手で制するダンプティ。 ハンプティ 「何が?」 BGM一段絞る。 キティ 「無責任に魔性を振り撒く世間知らずのガキってホン ト、迷惑なんだよね」 底冷えのする声でハンプティ・ダンプティを睨めつける。 マルレーン 「……っ、こわい」 さっきからずっと縮こまっていたマルレーンが、堪らずぎゅっとロビンの骨を抱き締めて小さく声を啜り泣く。  ※ 『こわい』はほとんど消え入りそうな声で。 ハンプティ 「……」 気圧されたように息を呑むハンプティ。 一息置いて切り返すダンプティ。 ダンプティ 「……そう言う君だって、今随分禍々しいよね。ほら、 泣いちゃいそうだよ?」 マルレーン 「うぅ、ロビンお兄ちゃん……」 『怖いよ、助けてお兄ちゃん』のニュアンスで。ふっと凄みを解き一歩後ろへ下がるキティ。BGM元のボリュームへ戻る。 キティ 「予言しとくよ。キミ達は確かに望みを叶えるだろう。 でも、それは決して幸せな結末にはならない」 ここまで来てもあくまでハンプティ・ダンプティの声は無機質、かっと熱くなるのではなく鋭く冴える気質。 ハンプティ 「私達を呪うつもり?」 まさか、と鼻で笑うキティ。 キティ 「キミ達が受け入れる事になるのは正しい現実だけさ。 呪い程の悪意もない」 ダンプティ 「ふぅん。……ま、いいや。もう行けば」 キティ 「嗚呼、そうしよう。邪魔して悪かったね」 二人に対してはあまり悪いとは思っていないキティ。  ※ ここまで裏でマルレーンはぐすぐす泣き続けてい   る。どういう演出にするかはお任せします。 マルレーン 「ぐすっ、くすん……」 先程までが嘘のように声音を和らげ。 キティ 「もう泣きやみな、優しいお嬢さん。この先にはまだ 哀しい事もあるだろう。でも、少しは良い事だって ある。それは我輩が約束しよう」 屈んでマルレーンの頭を一撫でし、背を向けるキティ。意味を計りかね涙目のまま小さく問いかけるマルレーン。 マルレーン 「〈鼻を啜り〉……黒猫さん?」 キティ 「苦い魔法は、大人のための魔法。でも、それは子供 にはあんまり酷《こく》過ぎる。子供に与える魔法は甘味が なくちゃね」 しなやかな足取りで遠ざかり音もなく影の中に消える。キティ登場時に世界に落ちた闇が蒸発するように浄化されていく。消えゆく影の中から響いてくる声。 キティ 「じゃあね、ハンプティ・ダンプティ。変わらず見届 けているよ。At《アット》 his《ヒズ》 Majesty《マジェスティ》.全ては 我が主の仰せのままに」  ※ 『At His Majesty』は『仰せのままに』の意。His   はグリムを指しているため、『グリムの命令のま   まに』という意味合いのかけ声。 キティのテーマBGMアウト。最後にキティの存在が完全に消えたという意味で、何かSEを入れても良いかも。 * * * ハンプティ 「はぁ、すっかり興醒めだわ」 ぷりぷりするハンプティ。 ダンプティ 「取り敢えず、話を元に戻そうか」 ハンプティ 「そうね、そうしましょ」 ダンプティ 「せーの」 二人で巻き戻しの魔法を唱える。魔法のBGMオン。 ダンプティ 「☆One《ワン》,two《トゥー》, buckle《バックル》 my 《マイ》shoe《シュー》,」  ワン(手拍子)・トゥー(手拍子)  バックル(踵を鳴らす)・マイ・シュー(踵を鳴らす) ダンプティが靴の踵を鳴らし、 ハンプティ 「☆Three《スリー》,four《フォー》, open《オープン》 the《ザ》 door《ドア》,」  スリー(手拍子)・フォー(手拍子)  オープン(ドアノブを捻り)・ザ・ドア(ドアが開く) ハンプティが木製のドアを開き、 ダンプティ 「☆Five《ファイブ》,six《シックス》, pick《ピック》 up《アップ》 sticks《スティックス》,」  ファイブ(手拍子)・シックス(手拍子)  ピック・アップ・スティックス(木の枝を打ち鳴らす) ダンプティが木の枝を拾い上げて打ち鳴らし、 ハンプティ 「☆Seven《セブン》,eight《エイト》, close《クローズ》 the《ザ》 gate《ゲイト》,」  セブン(手拍子)・エイト(手拍子)  クローズ(ギィと扉がスライド)・ザ・ゲイト(がっちゃんと扉が閉じる) ハンプティが開いていた扉を閉れば、 双子 「☆Nine《ナイン》,ten《テン》, Let《レッ》‘s《ツ》 do《ドゥ》 it《イット》 again《アゲイン》!」  ナイン(手拍子)・テン(手拍子)  ドゥ・イット・アゲイン(魔法が発動するSE) 魔法が成立、魔法のBGMオフ。  ※ 英語の数え歌。『One Two Bucklr My Shoe』で検   索すれば、拍子をとって歌っている動画が見付か   るので参考に。魔法のシーンのBGMや演出の細   かい部分はお任せします。 本幕4ページ目までシーンは巻き戻り。それ以降に起こった出来事は、これから起こる出来事によって上書きされマルレーンの記憶からは取り払われていく。本幕開始時と同じBGMオン。  ※ 最初に少しだけ倍速逆再生をきゅるきゅるっと流   し、それから普通に音楽が流れ出す……といった   感じの処理ができれば面白いかも。 ダンプティ 「……で、で、それで。それが残ったお骨ってわけだ」 ハンプティ 「可哀想ね、お兄さん」 この二つの台詞は既に4ページで演じたものだが、ここで新規収録。ダンプティの最初の『で』の繰り返しは、強制的にマルレーンの意識を4ページまで引き戻すつもりで。  ※ 意識が別の方を向いている人に対して、『ねえね   え、それでさ、ほら聞いて?』と気を引くように。 記憶がリセットされ、狐につままれたような心境のマルレーン。キティとの事は全て忘れているが、キティに対して抱いた感情だけは残っている。 マルレーン 「お兄ちゃん、可哀想……?」 何の話をしていたんだっけ、と呆けながら呟く。自分の腕が抱えている白い骨に目を落とし。 マルレーン 「……そうだ、ロビンお兄ちゃん。マルレーンはお兄 ちゃんの骨を拾ってきて、それで……。ねえ、ハン プティ・ダンプティ。こういう時って、どうしたら 良いの? どうしてあげたらお兄ちゃんは嬉しい?」 また少し涙ぐむ、ぼそぼそと沈んだ喋り方で。 ハンプティ 「それなら、まずお墓を作ったらどう? こんな剥き 出しのままのお骨じゃ、きっとお兄さんも寒いと思 うわ」 手を伸ばし骨のラインをつ、と指先でなぞるような仕草。 マルレーン 「そしたら、お兄ちゃんはマルレーンを許してくれる と思う?」 ダンプティ 「さあ。君がお兄さんを殺した動機も経緯も知らない けど。そのままよりは良いんじゃないかな。嗚呼、 でも……君がお兄さんを抱いていたいなら、そりゃ もう話は別だけど」 ハンプティ 「嗚呼、それは素敵だわ。新しい物語《ライム》が生まれそうね!」 マルレーン 「らいむ? あの緑の酸っぱい、ライム?」 ハンプティ 「あら、ナーサリー・ライム、知らないの? そんな はずないわ、だってここはマザー・グースの世界だ もの。物語《ライム》は水や光や風と一緒で、そこら中に満ち 溢れているんだから」 ダンプティ 「酸っぱいライムは果実のライム。ナーサリーは子供 部屋で、こっちのライムは韻を踏んだ詩の事さ。歌 があれば物語《ものがたり》がある、歌を歌えば物語《ものがたり》が始まる。そ れがマザー・グースの魔法だよ」 マルレーン 「マザー・グースは魔法使いなの?」 ハンプティ 「そうね、でも老婆だから魔女の方がお似合いかしら」 マルレーン 「マザー・グースはお婆さんなの?」 ダンプティ 「そうさ、何処の家《うち》でもガチョウの世話はお婆さんの 役目でしょ?」 マルレーン 「マルレーンの家《うち》にはお婆さんはいないの。だから、 そんなの知らないわ」 ハンプティ 「そうなの? 変ね、ダンプティ。まるでこのおちび さん、この世界の住人じゃないみたい」 ダンプティ 「変じゃないよ、ハンプティ。だからこそ、あの方の ……『グリムの魔法』がかかりやすかったんじゃな い? 『My《マイ》 Mother《マザー》 Has《ハズ》 Killed《キルド》 Me《ミー》』、そもそもこの物語《ライム》の元はグリム童話なんだ」 ハンプティ 「なぁんだ、オリジナルじゃないのね? そう。だか らキティは綻《ほころ》びがあるって、介入できるって言った のね」 ハンプティ・ダンプティの会話においてけぼりにされ、解せないというように唸りながらマルレーン。 マルレーン 「解んない、二人のお話よく解んないよ。でも、お兄 ちゃんにお墓がないままは嫌。だから、マルレーン はお墓を作ってあげたい。 ♪picking《ピッキング》 up《アップ》 bury《ベリー》 them《ゼム》」 第四幕のように、操られるように唄い始める。それに伴い、空間が歪み始めるようなエフェクト。 ダンプティ 「あっ、駄目駄目!」 マルレーン 「♪under《アンダー》 the《ザ》 cold《コールド》 marble《マーブル》」 ハンプティ 「それじゃあ元に戻っちゃう」 マルレーン 「♪stones《ストーンズ》……んぐっ」 慌ててマルレーンの口を塞ぐ二人。  ※ マルレーンの歌は続けて収録、編集でハンプティ・   ダンプティの台詞をそこに被せて下さい。 エフェクトが収まり空間も元通り静かになる。二人で顔を見合わせて安堵したように。 双子 「「〈はぁぁ、と溜息〉」」 ハンプティ 「危なかった、折角の改竄《かいざん》が修正されちゃうとこだっ たわ」 ダンプティ 「流石のGrimms《グリムズ》 Maerchen《メルヒェン》もアウェー じゃこんなものなんだね」 マルレーン 「んぐぐ、ぷはぁっ。何? 何なの?」 口を塞いでいた手が離れ、驚いたような抗議するような声を上げるマルレーン。諭すように双子がマルレーンを上から覗き込む。 ダンプティ 「marble《マーブル》 stones《ストーンズ》,大理石の墓石なんて 君の手には負えないよ」 マルレーン 「何処から、どうやって持ってきたら良いのかなって。 マルレーンもちょっと困ってた。でも、お墓には目 印がいるんでしょ?」 ハンプティ 「そうね、後でお花を供えるなら。そうでなくても、 お祈りを捧げるなら必要ね」 ダンプティ 「でもそれなら、石じゃなくても構わないよね」 ハンプティ 「例えば、そうね。貴方のお家《うち》にお庭はある?」  ※ 庭があるのを知った上での問いかけ。 マルレーン 「うん、あるよ」 ダンプティ 「それじゃあ、そこに木は?」  ※ これもネズの木があるのを知った上での問いかけ。 マルレーン 「それもあるわ、大きな大きなネズの木が」 ダンプティ 「それなら、そのネズの木を墓標にすれば良い」 ハンプティ 「根っこのところにお兄さんのお墓を掘るのよ」 マルレーン 「そっか、それならマルレーンでもできそう! それ に、お庭の木の下なら毎日見れる。お兄ちゃんに毎 日お花をあげに行ける」 ダンプティ 「ネズの木なら、枯れない限りそこにある」 ハンプティ 「嵐が根こそぎ持っていきでもしない限り、ね」 マルレーン 「ありがと、ハンプティ、ダンプティ。マルレーン、 お兄ちゃんのお葬式挙げる。誰も来ないし、お弔い の鐘も鳴らない。でも、ショベルがあったらお墓は 掘れる。マルレーンだけでも、お祈りはできる」 微笑ましげに口許を緩めるハンプティ。 ハンプティ 「頑張って、おちびさん。素敵なお墓ができると良い わね」 マルレーン 「うん! じゃあね、親切なハンプティ・ダンプティ!」 駆け去っていくマルレーンを見送り手を振る二人。ややあって、ハンプティがダンプティを振り返る。 ダンプティ 「くすっ、これで賽は投げられも同然だね。後は転が り落ちるだけ」 ハンプティ 「丘に登ったジャックとジルみたいに?」 ダンプティ 「ころころ転げて頭がぱっくり」 ハンプティ 「ジルも後からこーろころ」 ダンプティ 「急いで消毒しなくちゃね?」  ※ 『Jack and Jill』という歌の引用。頭がぱっくり   割れても消毒すれば大丈夫、という何処か的外れ   な怖さがある。 双子 「「〈くすくす笑い〉」」 尾を引く笑い声と共にBGMもフェードアウト。 解説: 西洋文化をベースにしているため、基本は土葬。冒頭 で双子がマルレーンの抱えている骨に対して奇妙な反 応を見せたのも理由は同じ。ちゃんと土葬されたなら 骨を持っているはずもなく、掘り起こしたにしては腐 敗もなく綺麗だったから。 ..第六幕 第六幕 -Von dem Machandelboom- 登場人物: ハンプティ ダンプティ レン ロビン マルレーン ママ パパ 〔マザー・グースの世界:ロビンの家の庭〕 始まりはBGMなし。客観的で淡々としたナレーション。 ロビン 「僕、ロビンは死んだ。死んでばらばらの骨になった。 マルレーンは健気に僕の墓を掘る。小さな手に、大 きなショベルで。庭の片隅、ネズの木の下に、ネズ ミの巣のような小さな穴を」 『大きなショベルで』辺りからマルレーンが穴を掘っている音がフェードイン+『庭の片隅』辺りから穏やかな昼下がりの陽射しを感じさせる麗《うらら》らかで静かなBGM。木漏れ日に包まれたネズの木の下でマルレーンが墓穴を掘っているシーンへクローズアップしていく。  ※ 合間に息遣いや小さな掛け声を織り交ぜながら。 マルレーン 「はぁ、はぁ……はぁっ」 掘り終えて汗を拭いながら一息吐き、ショベルを土に突き立てしゃがみ込む。 マルレーン 「このくらいの深さで、大丈夫かな」 足許には掘ったばかりの穴。絹のハンカチで包んだロビンの骨をその中へ。  ※ しゃがみ込みながらの台詞。 マルレーン 「棺はネズの木の根っこ。お布団はマルレーンの大事 な余所行きの、絹でできたハンカチよ。お花は何が 良いかしら。やっぱり白いのが良いよね、お葬式だ もん」 語りかけながら少し涙ぐんだりしつつ。 マルレーン 「そうだ、あっちの茂みに……あっ」 立ち上がって小走りに近くの茂みへ向かおうとして、小鳥が一羽収まりそうなくらいの小さな穴に躓いて転ぶ。  ※ この辺りも動作をしながら喋っている感じでテン   ポ良く次の台詞へ繋げる。 マルレーン 「うぅ……こんな所に、小ちゃな穴が。痛いよぉ…… う、ぅ。でも……泣いたら、駄目。もうお兄ちゃん はマルレーンの手を引いてくれない。マルレーンは 一人でもちゃんとしないと」 必死に泣くのを我慢しながら、スカートの土を払い立ち上がって茂みの方へ歩み寄る。茂みには白い薔薇の花が咲いている。惚れ惚れとし、躊躇なく手を伸ばす。 マルレーン 「いっぱい咲いてる。綺麗な薔薇の花……あっ」 薔薇の棘が刺さったりしながら、それでもめげない。 マルレーン 「痛く、ないもん。こんなの、お兄ちゃんに比べたら 全然痛くなんかないもん」 薔薇の花を摘んでいる最中の痛みに堪えている様子も。 マルレーン 「いち、にい、さん、しい……うん、これで」 戻ってきてまた穴の前にしゃがみ込む。 マルレーン 「ほら、お兄ちゃん、綺麗でしょ」 花を全て並べ終え、お祈りをして。 マルレーン 「ばいばい、ロビンお兄ちゃん。マルレーンが天国に 行けたらね、またね、キスしてね」 半分泣きながら立ち上がり、再びショベルを手にする。穴を埋める音やショベルを振るう息遣いがフェードアウトしながら、再びロビンのナレーションが被る。  ※ 最初の淡々としたナレーションとは違い、ロビン   の死後の魂が墓穴の中でぼんやりとしている風に。マルレーンに対する愛情を込めて、義理の妹というよりも初恋相手の女の子くらいのつもりで。 ロビン 「マルレーンが泣いてる。あのふっくらとした頬っぺ の上を涙が転がり落ちているなら。こう、優しく、 拭ってあげなくちゃって思う。でも、マルレーンを 泣かせてしまったのは僕で。おまけにもう、僕の手 はマルレーンに触れられそうにない」 穴が完全に埋められ、マルレーンの気配が感じられなくなる。次のナレーションは最初の淡々とした調子に近い。 ロビン 「柔らかく湿った土と、包み込む野薔薇の香り。その 中に紛れ込んだ微かな血の匂い。これは……多分、 マルレーンが薔薇を摘んだ時、棘に刺されて痛めた 指から流れた血。温かい。妹の、幼い命の温度。冷 えた僕の骨に沁みるその温もりが、恋しくて、愛し くて、仕方なくて。どうしてだろう……僕は、泣き たくなった」 駒鳥の鳴き声がすぐ傍で聞こえる。ロビンの泣きたい、が駒鳥の鳴いた理由。  ※ 哀しそうな、寂しそうなロビンの声が駒鳥の鳴き   声と混ざるようなイメージ。 ロビン 「もっと、ママに。愛して、欲しかった、な。それで、 もっと……マルレーン、とも、一緒、に……」  ※ 本当のママと今のママ、両方にかかっている。 涙混じりに、ふっとロビンの意識が遠のく。それと同時にばさばさ、っと駒鳥の飛び立つ音。BGMフェードアウト。ロビンの魂はマルレーンに埋葬される事によってやっと自由を得、鳥の姿に変化する。  ※ 最後の魂の昇華シーンのために、BGMに何処か   清らかな悟りを連想させるものを選んでも良し。 * * * 少し切なめのしっとりとしたBGM。ロビンが目を開くとそこは地上、鳥の姿で自らの墓の上に立っている。 ロビン 「……〈言葉を口にしようとして詰まる〉」 喋れないロビンの代わりに喉から出たのは駒鳥の鳴き声。 ロビンは甦ったが駒鳥の姿になってしまった。 ロビン 「〈何度か確かめるように鳴いてから〉 (僕、鳥になってる……? 死んだはずじゃ)」 以降、ロビンの心の声と駒鳥の鳴き声が常に並列して流れる。  ※ 鳴き声の方が実際に音となっている事を強調する   ため、心の台詞にはエフェクトを。また、鳴き声   と台詞は同じ位置にパンを振って下さい。 木の枝の上に腰掛けていたレンがロビンに気付く。『よもやそこに駒鳥がいるとは思っていなかった』という驚きと、駒鳥を見付ける事ができて嬉しいような哀しいような気持ちがない交ぜになった様子でロビンに呼びかける。レンの思考詳細は第十一幕参照。 レン 「おや、そこにいるのは駒鳥ロビン? これはまあ… …生まれたてのLovin‘《ラヴィン》 you《ユー》.こんな所で 会うなんて」  ※ 第三幕同様、発音は正規の『ラヴィンニュー』よ   りも若干『ロヴィンニュー』に寄せて。レンのロ   ビンに対する二人称として、『マイハニー』的な   ニュアンスで使用される。 軽快な羽音を響かせロビンの傍らに降り立つレン。 ロビン 「〈戸惑いながら問いかけるような鳴き声〉 (誰? 僕を知ってるの?)」 レン 「うん? 僕はレン、ミソサザイのレンさ。君は駒鳥 ロビンだろ? 見れば判るよ。逆に聞きたいんだけ ど……僕の事、知らない?」 余所余所しいロビンに少し複雑そうなレン。ロビンが首を振るのを見てぽりぽりと頭を掻く。 レン 「生まれたばかりじゃ無理もないのかな。駒鳥は神の 雄鳥《おんどり》。この僕、ミソサザイは神の雌鳥《めんどり》って言われて る。不思議だよね、君と僕と番《つがい》なんだって。だから、 これはきっと運命の出会いだ。まさか本当に君と出 会ってしまう日が来るなんてね」 本心では出会ってしまいたくなかったレン。  ※ ロビンを嫌っているのではなく、自分達の意思と   は関係なく夫婦扱いされてしまう事への無意識の   反感。喩えるなら、神様に勝手に許婚を決められ   たような気持ち。 ロビン 「〈困惑しきったような小さな鳴き声〉 (つがい……夫婦って事?)」 レン 「そ。解るよ、君が困っちゃうのも。でも、そういう ものなんだから仕方ない。決まりは決まりさ。とこ ろで、君はどうして泣いてたの?」  ※ 君なんか別に本当に好きな訳じゃない、と突き放   したいのだが、元々優しいのでロビンの様子を見   てついつい憐れに思ってしまっている。性根は優   しい子。 ロビン 「〈問いかけるような鳴き声〉 (え。僕、泣いてた?)」 レン 「うん。それにほら、今も」 ロビンの目元に指を這わせる。 レン 「涙、濡れてる」 ロビン 「(……)」 まじまじと自分の涙で濡れたレンの指先を見詰める。 ロビン 「(僕は……マルレーンに、妹に、会いたいって。そ うだ、せめてちゃんとお別れをしたくって)」  ※ ここは完全に心の中の台詞、鳴き声なし。 すぅっと息を吸い込み、歌い始める。 ロビン 「♪僕はママに殺されて、体はパパに食べられた。 骨を拾った妹は、ネズの木の下墓を掘り、 僕を埋《うず》めた、墓の中。僕を埋《うず》めた、土の下」 声の出せないロビンだが、この歌だけは歌える。少し面倒臭そうにレンが顔を顰《しか》めて独り言を呟く。 レン 「へぇ、歌なら声にできるんだ。にしてもこの歌……。 変だ。『My《マイ》 Mother《マザー》 Has《ハズ》 Killed《キルド》 Me《ミー》』? 埋葬されて、魂になった。それはまだ理 解もできる。死後の魂は鳥になって空へと向かうと も言うからさ。君はもしかして、生まれ変わったっ て事? でも、それが何で駒鳥に……いや、そもそ も生まれ変わりの物語《ライム》は聞いた事がない」 ロビン 「〈よく解らなくて、首を傾げて短く鳴く〉 (物語《ライム》?)」 レン 「物語《ライム》を知らない? じゃあ、いよいよ君はこの世界 とは本来縁が薄いみたいだね。でも、見えるよ。君 の羽根、足、尾っぽ……あちこちに糸が雁字搦《がんじがら》めに 絡まって。まるで、蜘蛛の巣に囚われた蝶みたいに。 ……君の運命には、どうしようもなく自由がない」  ※ ロビンに語りかける部分は甘く、あたかも恋人の   ようだが、湧き始めているのは庇護欲寄りの愛情。   世界やマザー・グースについて語る部分は至って   シリアス。 レン 「やっぱり、君とは死に別れる運命なんだね。あの忌々 しい物語《ライム》の通り」 話を逸らすようにぱっと声を明るくして。 レン 「そうだ、綺麗な声の可愛いロビン。君に僕からプレ ゼントをあげよう。金の鎖に、可愛いお靴、それか らあともう一つ。少し重たいけど……よいしょっと、 この石臼さ! さっき黒猫に会ったんだ。『キミが もし墓の上で歌っている小鳥を見かけたら、これを プレゼントしてあげると良い』って。これって、君 の事なんだろ? ふふ、この靴は僕が直接君に履か せてあげたいくらいだけど。君には……正確には、 鳥の足にはちょっと大き過ぎるみたいだ。残念」 恋人にプレゼントをあげようとしているような浮き浮きした感じを装って、鎖と靴と石臼をロビンに手渡すレン。 レン 「何から何まで訳が解らない、って顔だね。僕にも理 解できないし。多分、手の出しようもないんだと思 う。何せ、番なんて言ったって所詮《しょせん》僕なんか……」 憂いに沈んだ表情を見せるレン。 ロビン 「〈心配するような鳴き声〉 (レン? どうしたの、何だか辛そうな顔してる)」 レン 「辛そう? はは、有難う。君は優しいね。良いんだ よ、僕は別に君と本当に恋人って訳じゃあないんだ からさ。君が僕に優しくする必要なんか、ないんだ」 言葉とは裏腹に切なげな気持ちを隠しているレン。 レン 「……さ、それを持って家《うち》にお帰り。可愛い可愛い、 Lovin‘《ラヴィン》 you《ユー》.妹が待ってるんだろ」 これ以上の事は自分にはできないというように寂しげに。次はロビンの心の中だけの声、鳴き声なし。 ロビン 「(……レン。それじゃあ君は、どうして僕に優しく してくれるの? ねえ。どうしてそんなに、哀し そうな顔をしてるの……?)」 背を向けるレンを見て。 ロビン 「〈呼び止めるような鳴き声〉 (待って、レン!)」 もどかしげに振り返るレン。 レン 「何だい。行きなよ、早く」 ロビン 「〈真剣な鳴き声〉 (レンは僕の事、嫌い?)」 レン 「……そんな事ないよ」 ロビン 「〈苦笑のような小さな鳴き声〉 (でも、好きでもないんだね)」 顔を背けたまま、苦虫を噛み潰したような顔をするレン。 レン 「……」 ロビン 「〈しみじみと語るような囀《さえず》り〉 (良いよ。僕、判るんだ。ママが僕を嫌いだったの は、僕が本当のママの子じゃないから。僕も確か に、最初は『こんなの、僕のママじゃない』って 思った。だから、お相子《あいこ》なんだ。でも、やっぱり 寂しくなって。ママに優しくして欲しくなったけ ど。そんなの、虫が良過ぎるよね。だから、罰《ばち》が 当たったんだ)」 一息置いて。 ロビン 「〈苦笑するような鳴き声〉 (レンは僕と番なんかじゃないんでしょ。そんな感 じがする。無理してる)」 レン 「〈苦笑〉……敵わないな」 ロビンに向き直り。 レン 「そうなんだろうね。いや、そうだった。お仕着せの 番なんて糞食らえって思ってた。でも、君の話を聞 いてたら。何だか放っておきたくなくなった。君は きっとまだまだ子供だったろうに、とてもサミシイ 考え方をするなって。それは多分、君の所為でもな くて。君を取り巻いていた運命とかそういうものの 所為だったんだろう」 ひたとロビンを見据えるレン。 レン 「ねえ、駒鳥君。こんな僕でも、君の慰めになれたり しないかな。君にとっても僕は出会ったばかりのた だの小鳥に過ぎないだろうけど。僕は……君と、番 になってみたい。そうすれば、本当の番がどういう ものか、理解できるようになれる気がするんだ」 ロビン 「〈真剣な鳴き声〉 (僕と、番に?)」 レン 「いきなりなのは解ってる。でも、多分今言わなきゃ 駄目なんだ」 ロビン 「〈困惑したような鳴き声〉 (でも……)」 レン 「だって、だって、君はっ……!」 『そう遠からず、死ぬ事を定められているんだ』と叫びかけて、困惑したロビンの表情に気付き口を噤む。 レン 「っ、……ごめん、忘れて。僕が悪かった」 唇を噛んでさっと飛び去るレン。 ロビン 「〈追い縋るような鳴き声〉 (あっ、待って。レン、待って……!)」 追い駆けようとしたが、さっき貰った臼やら何やらが重くて飛び立てない。 ロビン 「〈叫ぶような鳴き声〉 (レン……!!)」 * * * 飛び去った先、高い木の上でさめざめと両手で顔を覆う。 レン 「神様なんて嫌いだ。それから、魔女はもっと嫌いだ」 昏い目で虚空を睨む。 レン 「僕が何をしたって言うんだ。あの子が何をしたって 言うんだ。どうして、こんな……」 苦しげに顔を歪める。 BGMフェードアウト。 レン 「これが恋なら、知らないままの方がきっと僕は幸せ だった。でも、もう僕はこの気持ちを忘れる事なん てできない」 場面転換前に少し沈黙を挿入。 〔マザー・グースの世界:ロビンの家〕 第四幕と同じような牧歌的なBGM。ロビンがネズの木の枝に止まっている。 ロビン 「〈沈んだ鳴き声〉 (レン……僕、レンに悪い事したのかな)」 じゃらりと手にした鎖を掲げて。 ロビン 「(これ、何だったんだろ。金色の鎖に、小さな靴に、 大きな石臼。これを持って家《うち》へお帰りって、レン は言ったよね)」 重たい荷物を背負って枝先の方へ歩いて行く。そこから台所の窓を見下ろすと、ママが片付け中。ロビンの持ち物を見付けてはずた袋に放り込んでいく。せいせいする、というように楽しそうに鼻歌混じり。 ママ 「もうあの子のものは要らないわね。やっと処分でき るわ、あれもこれも、それも! うふふ、くすくす」 継母や姉がシンデレラをいじめる時のように、わざとらしく大袈裟に。 ママ 「汚らしい靴! こっちは何? やぁだ、ポケットに小 石! 信じられないわ」 床に綺麗な小石がばら撒かれる。 ロビン 「〈哀しげな泣き声〉 (ママ……)」 ママ 「随分と辛気臭い声で鳴く鳥ね」 ロビンの声に気付いたママが窓から顔を出す。 ママ 「あら、まだ雛鳥じゃないの。ちょっと、あんまり家《うち》 の周りで鳴くんじゃないわよ。煩いのは嫌いなの、 しっしっ」 追い払おうとするママにかちんとしたロビン。歌なら声になる〜とレンに言われたのを思い出し、歌う。歌い始めると同時にBGMオフ。 ロビン 「♪僕はママに殺されて、体はパパに食べられた。 骨を拾った妹は、ネズの木の下墓を掘り、 僕を埋《うず》めた、墓の中。僕を埋《うず》めた、土の下」 歌詞の内容に顔を引き攣らせるママ。不穏なBGMが流れ始める。 ママ 「この鳥、今何て……いいえ、そんなまさか。いや、 でも……。マルレーン、マルレーン!」 落ち着きなくうろうろし、子供部屋に向かって大声で。 マルレーン 「なぁに、ママ?」 ママ 「マルレーン、あんたロビンの骨を何処にやったの?」 マルレーン 「お兄ちゃんのお骨? えっとね。ハンカチで包《くる》んで お庭のネズの木の下に埋めたよ」 ママ 「……」 青い顔でロビンとマルレーンを交互に見るママ。 マルレーン 「いけなかったの?」 ママ 「あの人にはこの事は」 遮るようにロビンが歌う。これまでよりもしっかりとした声で、糾弾するように。 ロビン 「♪僕はママに殺されて、体はパパに食べられた。 骨を拾った妹は、ネズの木の下墓を掘り、 僕を埋《うず》めた、墓の中。僕を埋《うず》めた、土の下。 (以下リフレイン) 僕はママに殺された。僕はママに殺された」 マルレーンは歌詞があるという事に気付かない様子で、駒鳥の鳴き声を聞いて窓に駆け寄る。以下、ロビンの歌に途中から被せていく。  ※ リフレイン部分について、もし歌が会話より早く   終わってしまった時のために収録しておく。会話   が終わるまで、ママを責めるように繰り返される。 マルレーン 「鳥さんが、鳴いてる。綺麗な歌声」 ママ 「綺麗ですって!?」 マルレーン 「お兄ちゃんのお墓の上だわ。お兄ちゃんに、お歌を 歌ってくれてるのかな」 ぱっと寝室の方を振り返って呼び掛けるマルレーン。 マルレーン 「ねえ、パパ。パパ、来て! 窓の外で鳥さんがお歌 を歌ってるわ」 寝室から眠そうに目をこすりながらパパが出てくる。 パパ 「うぅん、お早う。おらぁまだ眠いんだ……おや」 ロビンの歌を聞くと眠気が少し覚めた様子で。 パパ 「へぇ、駒鳥じゃな。まだ随分声が若いな?」 マルレーン 「駒鳥さんっていうの?」 パパ 「嗚呼。駒鳥はロビン……そういや、あの子と同じ名 か……。にしても、何処に行っちまったんじゃろう な、ロビンの奴ぁ。駒鳥みたく飛んで戻って来てく れりゃあ良いんじゃが」 沈んだ声、パパはロビンが失踪したと思い込んでいる。パパの呟きを聞いて、まさか、とぎょっとするママ。 ママ 「っ」 マルレーン 「お兄ちゃんと同じ名前の、鳥さん。ねえ、ねえ、駒 鳥さん。もっと歌ってちょうだい、素敵なお歌を!」 ママ 「……〈苦々しげに歯軋り〉」 パパ 「どうした、おまえ?」 ここでロビンの歌が終わり。 ロビン 「〈皆を外へ誘うように鳴く〉」 マルレーン 「あら、もう止めちゃうの? んん?」 ロビンの様子を目に止め。 マルレーン 「マルレーン達を見てるわ。外に出てきて欲しいのか しら」 パパ 「うん? そらえらい懐こい子じゃな、どら」 窓から顔を出したパパの手にロビンが金の鎖を落とす。 パパ 「おっと! こりゃあ……驚いた」 マルレーン 「何? 今駒鳥さん、パパに何をくれたの?」 パパ 「見てみい、お前、マルレーン。こりゃ金じゃ、金の 鎖じゃ。たまげたな……」 マルレーン 「わぁ!」 はしゃぎながらマルレーンが勝手口から外に飛び出す。パパも後について外へ。 パパ 「おい、駒鳥や。こんな物《もん》貰ってしまって良いんかい?」 ロビン 「〈頷きながら一鳴き〉」 マルレーンの上に移動して、今度は靴を落とす。 マルレーン 「へ……これ、お靴? すごい、お人形さんみたい! 良いの?」 ロビン 「〈頷きながら一鳴き〉」 ママ 「……気味が悪いわ。そんなもの、二人とも捨ててお しまいなさいな」 マルレーン 「えぇ、嫌よママ!」 パパ 「何や、駒鳥からの贈り物なんて素敵やないか」 ママ 「あんた達はおかしいと思わないの!? あの歌といい、 妙な物を寄越してきたり!」 ヒステリックに怒鳴るママの上へ飛んでいくロビン。 ママ 「嗚呼、何なの……! そんな重たそうな石臼を抱え てこっちに来ないでちょうだい! あっちへ行って!!」 ロビン 「……」 ママの反応に哀しそうに顔を歪め。 ロビン 「(ママは、僕が嫌いだった。でも、それでも、何も 殺さなくたって良かったのに。ママ……) ♪ママが僕を殺したんだ」 歌のメロディはそのまま、歌詞だけ変更。  ※ 後で語呂合わせします。 冷たい歌声、これも歌詞の内容はママにだけ聞こえる。 ママ 「いや、許して、悪かった! あたしが悪かった!! だ からお願い、ロビ」 ぐしゃっ、ロビンの落とした石臼がママを押し潰す。 ママ 「ぎゃあぁぁぁあ!!」 ママの悲鳴に合わせてBGMフェードアウト。 マルレーン 「ママ!」 パパ 「おまえ!」 マルレーンとパパの台詞は同時。最後にロビンの淡々としたナレーション。 ロビン 「……こうして、僕のママは死んだ。パパには金の鎖。 マルレーンには可愛い靴。僕のために薔薇を摘んだ マルレーンの手は傷だらけで。僕のあげた可愛い靴 は、その傷口から滲む血の色で薔薇のように真っ赤 な靴になった。白薔薇を赤く染めるため、健気なナ イチンゲールは心臓に棘を突き刺したという。そん なお話を思い出して、僕は少し微笑んだ」 何か奇跡が起こりそうなBGMがフェードインし始める。 グリム弟 「復讐を遂げた小鳥は少年の姿で甦り、父親と妹と共 に末永く幸せに暮らしたのでした。めでたし、めで たし。……そう、本来ならそうなるはずだった。そ の時、微笑むロビンの背後で呪いの言葉が囁かれな ければ」 が、途中でBGMにノイズが入り。 双子 「「♪Who《フー》 Killed《キルド》 Cock《クック》 Robin《ロビン》?」」 歌うような囁きの後、グリムがホラーっぽく呟く。  ※ 問いかけというよりも定型句。 グリム弟 「誰が駒鳥《ロビンを》、殺したの?」  ※ 『こまどり』と『ロビンを』の二パターンを収録、   どちらのパターンも同時に聞こえるように被せて   編集する。。 ヒュッ、と矢が風を切ってロビンの胸に突き刺さる。BGMは矢が刺さると同時にぱたっとオフに。はたりとロビンが地に落ち、静寂に小さな蠅《はえ》の羽音と魚が水面で跳ねる音。 双子 「「〈くすくす笑い〉」」 解説: ロビンとレンは双方性別は男として描写。『駒鳥には 雄しかおらず、ミソサザイには雌しかいない。そして この二種は番である』とかつてイギリスでは信じられ ていた。ロビンとレンの性別の食い違いはその迷信に 対するアンチテーゼ。 ..第七幕 第七幕 ^Who Killed Cock Robin- 登場人物: ハンプティ ダンプティ 〔狭間の世界:卵の殻の中〕 舞台はプロローグと同じ。第六幕ラストと同一のくすくす笑いで始まる。  ※ あちらはマザー・グース世界でのもの、こちらは   卵内空間でのもの。卵内空間はハンプティ・ダン   プティの精神世界のようなもの。同じ音源を使用   するならば第六幕はエフェクトなし、第七幕はプ   ロローグ同様の反響エフェクトを付加。 双子 「「〈くすくす笑い〉」」 ダンプティ 「さあ、仕上げの魔法だよ!」 ここから『Who Killed Cock Robin』の歌。  ※ ハンプティの歌の合間にダンプティの合いの手が   挟まる。『♪』が歌、『☆』が合いの手。 ハンプティ 「♪Who《フー》 Killed《キルド》 Cock《クック》 Robin《ロビン》? 誰が駒鳥殺したの? 『それは私』、雀が言う」 ダンプティ 「☆Sparrow《スパロウ》, Arrow《アロウ》」 ハンプティ 「♪誰が亡骸看取ったの? 『それは私』と蝿《はえ》が言う」 ダンプティ 「☆Fly《フライ》, Eye《アイ》」 ハンプティ 「♪誰がその血で染まったの? 『それは私』、魚が言う」 ダンプティ 「☆Fish《フィッシュ》, Dish《ディッシュ》」 ハンプティ 「♪誰が白衣を仕立てるの? 『それは私』、カブトムシ」 ダンプティ 「☆Beetle《ビートル》, Needle《ニードル》」 ハンプティ 「♪誰がお墓を設《しつら》うの? 『それは私』、梟《ふくろう》が言う」 ダンプティ 「☆Owl《オウル》, Shovel《シャヴル》」 ハンプティ 「♪誰が牧師を務めるの? 『それは私』とミヤマガラス」 ダンプティ 「☆Rook《ルック》, Book《ブック》」 ハンプティ 「♪誰が付き人務めるの? 『それは私』、雲雀《ひばり》が言う」 ダンプティ 「☆Lark《ラーク》, Dark《ダーク》」 ハンプティ 「♪誰が松明《たいまつ》掲げるの? 『それは私』とムネアカヒワ」 ダンプティ 「☆Linnet《リネット》, Minute《ミニット》」 ハンプティ 「♪誰が喪主を務めるの? 『それは私』と鳩が言う」 ダンプティ 「☆Dove《ダヴ》, Love《ラヴ》」 ハンプティ 「♪誰が棺《ひつぎ》を担《かつ》ぐの? 『それは私』と鳶が言う」 ダンプティ 「☆Kite《カイト》, Night《ナイト》」 ハンプティ 「♪誰が棺衣《かけぎ》を捧げるの? 『それは私』とミソサザイ」 ダンプティ 「☆Wren《レン》, Hen《ヘン》」 ハンプティ 「♪誰が賛美歌唱えるの? 『それは私』、鶫《つぐみ》が言う」 ダンプティ 「☆Thrush《トラッシュ》, Bush《ブッシュ》」 ハンプティ 「♪誰があの鐘を鳴らすの? 『それは私』と鷽《うそ》が言う」 ダンプティ 「☆Bull《ブル》, Pull《プル》」  ※ 最後の一連はダンプティが歌い、ハンプティが合   いの手を入れる。 ダンプティ 「♪お空の上、全ての小鳥」 ハンプティ 「☆溢れる溜息、啜り泣き」 ダンプティ 「♪その鐘の音を誰もが聴いた。  哀れな駒鳥を葬る鐘を」 双子 「♪死出の旅路へと送る鐘を」 * * * ハンプティ 「これから始まるお葬式」 ダンプティ 「杓子定規《しゃくしじょうぎ》のお弔い」 ハンプティ 「何がそんなに悲しいのかしら?」 ダンプティ 「誰も駒鳥の事なんて知らないはずなのに」 ハンプティ 「オウル、お墓を掘るのってどんな気持ち?」 ダンプティ 「レン、どうして君が喪主じゃない?」 ハンプティ 「いつも死ぬのは何故だか駒鳥」 ダンプティ 「毎度、心臓《ハート》を射抜かれて」 ハンプティ 「それがマザー・グースの歌だから?」 ダンプティ 「歌っただけで死ぬだとか」 ハンプティ 「軽い命ね。羽根のように軽い」 ダンプティ 「Birds《バーズ》 of《オブ》 a《ア》 feather《フェザー》?」 ハンプティ 「flock《フロック》 together《トゥギャザー》」 ダンプティ 「それつけたら違う意味になっちゃうよ」 ハンプティ 「あら? でも、ぴったりの諺《ことわざ》だと思うけど」 ダンプティ 「『同じ羽根の鳥は群れ集う』?」 ハンプティ 「言い換えれば『類は友を呼ぶ』」 ダンプティ 「確かに、あのお葬式にはお似合いかもね」 ハンプティ 「でしょ? だって、本当にあの生き物達は『群れ集 って』いるだけなんだもの」 * * * メルヘンチックな子供部屋っぽいBGMが殻の向こうから聞こえてくる。  ※ 幕間と同じBGM。 ハンプティ 「そろそろ次の幕が上がるみたいだわ」 ダンプティ 「その前にこの幕は降ろしておかなきゃね」 ハンプティ 「私達もこれで後はお客様」 ダンプティ 「裏でこっそりお話してよう」 ハンプティ 「二人で金のリンゴを齧りながらね」 ダンプティ 「じゃあ、そういう事だから。 See《シー》 you《ユー》 soon《スーン》」 ハンプティ 「その内また会いましょう」 双子 「「〈無邪気な笑い声〉」」 これから食べるリンゴを楽しみにしているとか、そんな類の極々純粋な子供の感情。エフェクトのかかった双子の笑い声が消えていくのと入れ代わりにBGMが近付いてくる。ページを捲る音と同時にBGMオフ。  ※ ティータイム参照。 解説: ダンプティの合いの手は『動物の名前』+『韻を踏む 単語』で構成されている。例えば、最初の雀=『スパ ロウ』は『アロウ』を使いロビンを殺したという事に なっている。『Who Killed Cock Robin』の歌は押韻 詩であり、登場する動物とその役割は全て韻を踏んで いる。OwlとShovelのみ韻になっていないが、この歌 ができた十四世紀頃の英語では韻になっていたらしい。 監督宛: ここは曲の書き下ろしをお願いしたいです。 ..ティータイム ティータイム -Scarborough Fair- 登場人物:  グリム兄 グリム弟 キティ スノードロップ 〔狭間の世界:グリムの家〕 ティータイムの優雅なBGM。アバンタイトル同様、暖炉では火が燃えている。ナレーション。童話作家がお伽噺を語っているような情景描写。  ※ アバンタイトルと対になっている。 お湯を沸かし珈琲を淹れながら語るグリム。 グリム弟 「こうして、月夜の晩にお伽《とぎ》の世界に生まれ落ちた双 子のハンプティ・ダンプティは、継母に殺された可 哀想な少年ロビンを駒鳥として甦らせました」 珈琲をカップに注いで椅子に腰掛ける。  ※ 不自然でなければ砂糖とミルクを入れるSEも。 一口珈琲を啜り。 グリム弟 「さて、何故ハンプティ・ダンプティはそのような魔 法を使う事ができたのでしょう。そこがマザー・グー スの世界なら、全ての因果は世界の主《あるじ》たるマザー・ グースにしか紡ぐ事はできません。それこそが、マ ザー・グースがこの世界で魔女と呼ばれる所以《ゆえん》です」 カップをソーサーに戻す。語り口調を止めて対話調へ。 グリム弟 「ボクが魔法を貸し与えたから? うん、そう、それ も確かに理由の一つ。厳密にはボクが貸したんじゃ なくて、ボクの作品の中からキティが使えそうなも のを選んで教えてあげただけなんだけど。幸い、ボ クとマザー・グースは地理的にも民族的にも比較的 的近しいものがあるからね。ボクらの魔法にはある 種の親和性があったんだろう」 少し首を傾げ。 グリム弟 「時に、『魔法』の定義って何だと思う? 兄上」 グリム兄 「さあな。向こうの世界での『魔法』という事なら、 一定の結末を導き出す強制力と言って良いのかもし れん。物語で言うところの筋書きか」 グリム弟 「なら、魔女は魔女なんて悪者めいた名前じゃなしに 『神サマ』って呼ばれても差し支《つか》えないと思わない? でもって、魔法も『魔法』じゃなしに『奇跡』とか 『神のご意志』とかさ」  ※ グリム弟は本気で不思議に思っているのではなく、   喩えとして『神様』を引き合いに出している。 グリム兄 「神を騙《かた》るにはそれがあまりに救済的でないからだろ う。神は娯楽で運命の糸を爪弾《つまび》かない。もとい、戯 れで運命を左右するような存在を人は神とは崇めな い。畢竟《ひっきょう》、命の生き死にを物語のピースとして組み 立てるような所業は、形容するならやはり『奇跡』 ではなく『魔法』とするのが生理的に妥当だという 事なのだろう」 グリム弟 「まあ、神サマっていう程大仰なもんでもないけど さァ、神サマだって慈悲深くて清廉潔白なモンでも ないし。似たり寄ったりと思うんだけどナ」 不信心発言に顔を顰めるグリム兄。 グリム兄 「おい」 グリム弟 「ちょっと、ボクの顔でそんなしかめっ面しないでよ。 怖い! あ、いや、解ったから!」 グリム兄 「〈溜息〉いや、お前にも一理ある。だからこそ。私 は原初の魔女の肖像に、信仰を失った女神の慣れの 果てを見るね」 グリム弟 「信仰は自ずと失われたのか、それとも異なる信仰に よって排斥されたのか。どちらにせよ、だね」 ぽつっと、虚空に雪を落とすように呟く声。儚げでふっと消えてしまいそうな雪のような声音。 スノー 「かなしいイキモノね、魔女って」 いつからそこにいたのか、窓辺に佇むスノードロップ グリム弟 「スノードロップ。戻ってたんだ」 スノー 「スノーは、白猫。キティ兄様とは違う。兄様みたい に立派な魔法が扱えるわけじゃない。だから。いて もしょうがないもの」 グリム兄 「何か持って帰ってきているみたいだが」 スノー 「ん。駒鳥……の、羽根」 足音もなく机に近寄ると鞄(袋?)を下ろす。鞄の口を開くと、中から羽毛が大量に溢れ出す。 グリム弟 「これはまた。慎ましい、綿毛みたいな羽根だね」 スノー 「羽根布団ができそうなくらい、あった。駒鳥のベッ ドね。それも、女王様のベッドにできるくらい。大 きな」 グリム弟 「へぇ、そんなに?」 スノー 「全部は持ってこれないし、置いてきたけど。多分、 世界中の駒鳥が死んだくらい」 グリム弟 「それじゃあ、あの世界は駒鳥の血に染まってる? 何それ、すっっっっごくゾクゾクするんだけど!」 やや変態じみた勢いでときめくグリム弟。 グリム兄 「おい、私の顔ではしたなく恍惚するな。気持ち悪い」 グリム弟 「ちょっと、酷くない!?」 スノー 「駒鳥は死に絶えた。なのに鳥達の葬列は始まらない」 グリム弟 「え、無視!? スノードロップぅ」 次のスノードロップの台詞は『え、無視!?』の直後に既に我関せずといった感じで続けられる。  ※ 台詞の後ろで『スノードロップぅ』といういじけ   声が聞こえ、それでもスノードロップが無視して   話し続けるためグリム弟も諦める。 スノー 「目撃者はまだ現れない。現れる気配もない。キャス トは確かに用意されているのに、誰もがそのまま置 いてけぼり」 ふむ、と珈琲を一口啜り首を傾げるグリム兄。 グリム兄 「恣意的だな。まるで駒鳥の死体が、いや、駒鳥の存 在が世界から隠蔽されているようだ」 スノー 「うん。だから、兄様が悪戯を考えた」 * * * スノードロップの猫目がきゅっと瞳孔を細める。 スノー 「ハンプティ・ダンプティ……あの子達が持ってた、 たった一つきりの因果線。それと、執着しか知らな い、まっさらの心。だけど、何より決定的だったの は、あの世界に歪みがあった事。兄様はそこに付け 込んだ。駒鳥の名を持つ男の子、二度《ふたたび》死ぬ事になっ た、カワイソウな男の子」 同情の色が濃いスノードロップの口ぶりに。 グリム弟 「でも、おかげで番《つがい》とも出会えたんだし。それはそれ で幸せだったんじゃない? だってあの子、あのま まじゃ恋をする事すら侭ならなかったろうし、サ」 スノー 「そういうものなの?」 グリム弟 「少なくとも、冷たい墓石の下に埋められてオシマイ よりは良くない?」 スノー 「でも、もう一度死ななきゃならない。童話作家は心 が麻痺してるのね」 グリム弟 「あは。だってそりゃ、ボクは大量殺人鬼だよ! キ ミってば、ボクのお話の中だけで一体何人死んでる と思ってるの? 沢山、それこそ山のように大勢さ。 善い人も悪い人も、人間も動物も、等しくね」 スノー 「平等に無慈悲だって言いたいの?」 グリム弟 「必ず悪者が死ぬなんて嘘臭いじゃない。童話はアン リアルなお話じゃない。リアルを孕まない童話なん て、そんなの童話じゃないよ」 にぃっと笑って珈琲を啜るグリム。 スノー 「そう。……そうね」 グリム兄 「そう考え込むな、スノードロップ。お前も一杯どう だ?」 軽くカップを揺らして見せる。 スノー 「いい。それ、ドングリ珈琲でしょ。スノーはそれ、 あんまり好きじゃない」 グリム兄 「そうか。目が覚めて良いんだがな」 グリム弟 「そうそう、夢から醒めるには丁度イイぐらいのほろ 苦さ」 ぷいと顔を逸らすスノードロップ。 スノー 「ドングリ珈琲なんて。薄くて、お茶みたいで、森み たいな味がする。それなら、ハーブティーの方が、 好き」 グリム弟 「へぇ。ふふっ、森よりハーブガーデンか。キミは魔 女より修道士が贔屓なのかな」 スノー 「別に。でも、そうね。ハーブの庭の方が、日向ぼっ こは気持ち良い。森には敵がいるけど。修道院に敵 はいないわ」 音もなく現れるキティ。 キティ 「スノーは良いよなぁ、そんな事が言えて。我輩は修 道院なんか恐ろしくて近付くのもヤだよ。ハーブテ ィーは嫌いじゃないけどね」 グリム弟 「おや、キティもお戻りか」 グリム兄 「本当に、お前達は神出鬼没だな」 キティ 「だって猫だもん、ふふっ」 グリム弟 「魔女の薬も結局は薬草、ハーブだからねぇ。魔女の 系譜に修道士が連なる、か。イイね、すごくイイ」 キティ 「やめてよ、そういうどろどろした話。折角ティータ イムっぽい雰囲気だから帰って来たのに」 グリム兄 「悪いな、こいつはいつもこうだ」 会話を無視してふらっと戸棚へ。 スノー 「お茶を淹れましょ。かつての愛を取り戻すために。 ♪パセリ、セージ、ローズマリー・アンド・タイム。 ……兄様、何が飲みたい?」 スノードロップが口ずさんだのは『Scarborough Fair』の一節、有名なのでメロディは検索して下さい。 キティ 「んー? 我輩は紅茶派なんだけどなぁ。まあ良いや。 その中ならセージを選ぼう」 スノー 「セージ。兄様らしい」 キティ 「スノーは?」 スノー 「私は。ローズマリー」 キティ 「我輩の可愛い妹は、変わらぬ愛が欲しいの?」 じゃれつくような気配を滲ませるキティの声。 スノー 「別に。愛だけがローズマリーの象徴じゃないもの」 グリム兄 「なら、貞節、あるいは想い出か」 キティ 「どっちもキミにはよく似合うね」 キティ達の言葉を聞いてはいるもののリアクションはせず、呪《まじな》いのようにハーブをぱらぱらと処方するスノードロップ。 スノー 「スカボロー・フェアは、愛の意志を讃える歌。離れ 離れになった者が歌う、愛の誓い。……先生。あの 子達は、愛を貫けると思う?」 グリム兄 「愛、か。彼らの愛は、真っ直ぐだが歪んだ愛だな。 私としては、そんなもの捨ててしまった方が楽だと 思うがね」 キティ 「でもさ、愛は万能の原動力だしね。だからこそ、今 回もきっと面白いモノが見られる。くすっ。常なら ざる者にハッピーエンドは似合わない」 スノー 「グリムもそう思うの?」 グリム弟 「うん? 別に。ボクはなるようになればそれでイイ よ。どんな結末だろうと、それは一つのストーリー さ。優劣なんかない、ボクは悲劇も喜劇も等しく愛 でる性質《たち》だからね」 スノー 「そう……」 魔法を唱えるように『Scarborough Fair』を歌う。 スノー 「♪Are《アー》 you《ユー》 going《ゴーイング》 to《トゥ》 Scarborough《スカーバラ》 Fair《フェア》? Parsley《パセリ》,sage《セージ》,rosemary《ローズマリー》 and《エンド》 thyme《タイム》」 キティ 「♪Remember《リメンバー》 me《ミー》 to《トゥ》 one《ワン》 who《フー》 lives《リヴス》 there《ゼアー》」 二匹 「♪For《フォー》 she《シー》 once《ワンス》 was《ワズ》 a《ア》 true《トゥルー》 love《ラヴ》 of《オブ》 mine《マイン》」  ※ スノードロップは愛のお呪《まじない》いをハンプティ・ダン   プティに送っている。キティはマザー・グースの   事を考えながら歌う。 BGMは歌の途中からフェードアウト。最後は歌声だけが残り、無音へ。 スノー 「かつて愛した人は、貴方達の事を覚えているかしら。 ヘンゼルとグレーテルは森に迷い込んだ訳じゃない のよ。どう足掻いても、お家《うち》になんて帰れないの。 それはとても可哀想な事だわ。……貴方達を招くの はお菓子の家だけ。そう……甘くて脆い、お菓子の 家だけ」 暖炉の火の爆ぜる音だけが残り、それもフェードアウト。 解説:  『Scarborough Fair』はイギリスの有名なバラード。 多くのメディア作品で様々なアレンジが作られている ため、本作用MIXの伴奏を作って流すのもありかと。 ..第八幕 第八幕 -Birds Of A Feather 1/2- 登場人物: フライ フィッシュ ビートル(仕立て屋) オウル(墓堀り) ルック(牧師) ラーク(付き人) リネット(松明持ち) 〔マザー・グースの世界:昼前の道端〕 牧歌的だが静かで少し重めのBGM。近くを小川が流れている、せせらぎのSE。慌しく飛び回るフライ。乱暴な男口調だが、女の子。少年のようにに聞こえても構わない。 フライ 「おおい、大変だ!」 ビートル 「フライじゃない。大声を出して、いったい何事?」 フライ 「駒鳥が殺された」 ビートル 「ええっ、何て事!? 悪い冗談じゃないわよね?」 フライ 「俺がこの目で見たんだ、本当だっつの」  ※ 『この目』を強調。 ちゃぽん、と水からフィッシュが顔を出す。瑞々しい、元気で可愛い少年のイメージ。 フィッシュ 「嘘じゃないよ、ビートルさん。ほら、僕の手を見て。 これが駒鳥の血だよ。恐ろしい歌があるじゃない。 ♪嗚呼! 牧師様は言った。  お前も死ねば腐るのさ、 死んでしまえばこうなる定め。 って。だから僕、駒鳥が蛆に食われる前に急いで血 を抜いてあげたんだ」 水面に鰭を出し血で染まった様子を見せる。 ビートル 「まあ、フィッシュ坊や。お鰭《ひれ》が真っ赤!」 フライ 「解ったな、解ったらさっさと準備だ、準備。 ♪誰が白衣を仕立てんだ?」  ※ 歌は第七幕でハンプティ・ダンプティが歌ったも   のの口調をいじっただけのもの、メロディはその   まま。 予め決まっている事として、尋ねるというよりも確認するようなニュアンスで歌うフライ。それに応じるビートルも心得たという様子で。 ビートル 「♪『それは私』、カブトムシ。 私の自慢のこの針で立派な白衣を縫ってみせるわ」 フライ 「よし。じゃ次だ。オウルの野郎はこの時間なら寝床 か? くそ、あいつを叩き起こすとかかったりぃな」 すとん、と頭上からオウルが落り立ってくる。 オウル 「あふぁ。こんな朝っぱらから何を騒いでるんだか」 ビートル 「あら、いたのオウル」 オウル 「いたよ、最初から枝の上にね」 驚き半分、面倒が省けて安心半分のフライ。 フライ 「何だ、起きてやがったのか。おいオウル。いたなら 聞いてたんだろ」 オウル 「駒鳥坊やが殺されたんだってね」 ビートル 「えっ、雛鳥なの? 何て惨い……」 怪訝そうに首を傾げるフライ。 フライ 「なあ、俺、駒鳥が子供だとか男だとか言ったっけか?」 オウル 「言ってないね」 フィッシュ 「本当だ、どうして判ったの?」 オウル 「小生は森の賢者、梟《ふくろう》。何だってお見通しなのさ」 フィッシュ 「へぇ、人は見かけによらないんだね」 ビートル 「ふふ、この人は夜の姿が本当の姿だものね。この眠 そうな目がぱっちり開かれてるところなんて、想像 できないのも無理はないわ」 オウル 「フライ、貴君……今『胡散臭』って思ったろ?」 フライの口真似、収録の際は一度フライのキャストさんに同じ台詞を読んでもらいそれを真似する。 フライ 「っ、いきなり首を百八十度こっちに回すな。心臓に 悪ぃだろうがよ」 オウル 「〈くつくつ笑い〉期待通りの反応ありがと」 フライ 「性格悪ッ」 オウル 「褒め言葉かな?」 暖簾に腕押しな反応にうんざりするフライ。 フライ 「〈舌打ち〉……それはそうとして、オウル。駒鳥が 殺されたんだから、お前にも役目があんだろ」 オウル 「お墓ならもう掘ってあるよ」 フライ 「は?」 フィッシュ 「えっ?」 ビートル 「あら」 三匹同時の反応、フライの声だけ少しボリューム大きく。  ※ 他の二匹の反応が後ろになるように。 オウル 「だから、お墓はできてるって。 ♪誰がお墓を設《しつら》うの? 『それは私』、梟《ふくろう》が言う。 ……間違ってないよね?」 フライ 「いや、確かに間違っちゃいねえけど」 フィッシュ 「でも、いったいいつ? 僕達が来るまでだってそん な時間なかったよね」 困惑するフライ。 オウル 「昨日の黄昏《たそがれ》時だったかな」 フィッシュ 「えぇ、どういう事?」 頭の中が『?』マークだらけのフィッシュ。 オウル 「小生の活動時間は夜だから。陽のある内に働くのは 苦痛なんだ。だから、先に掘っておいただけさ」 フィッシュ 「オウルには未来の事まで判るの?」 オウル 「別にそういう訳じゃあないんだけどね。まあ良いか ら、ほれ、他の皆に声をかけておいで」 フライ 「それは! 言われなくても解ってる」 オウル 「それにしても、いったい誰が駒鳥を殺したんだろう ね。ホゥ、ホゥ、ホゥ」 第三幕同様、『ホゥ』の響きは『Who《フー》』に寄せる。 フライ 「はぁ? 雀のスパロウに決まってんだろ。 ♪誰が駒鳥殺したの? 『それは私』、雀が言う。 殺された駒鳥が坊やだとか余計な事は知ってんのに、 いっちゃん肝心な所をド忘れかよ。ジャックは奴さ。 ジャック・スパロウさ」 わざわざ歌ってやるのも面倒臭いというように、歌の部分はあまりリズムもつけず早口に。 オウル 「余計な事、ねぇ。じゃあ一つ問わせてもらうけど。 駒鳥はどうして殺されたんだろうね?」 フライ 「そんなの知るわけねぇだろ。俺がやった訳でもねえ のに」 この辺りでシリアスなBGMに切り替え。 オウル 「犯人が誰かは当たり前みたいなのに、動機について はさっぱりなんだね。いや、そもそも興味なんて湧 く訳ないか。皆が葬儀をしてあげるのは、殺された のが駒鳥だから……それだけだしね」 フライ 「何ごちゃごちゃ意味不明な事言ってやがる」 オウル 「己の胸に手を当てて考えてごらんよ。フライ、君は どうして皆に駒鳥の死を伝えるんだい?」 この辺りから徐々に『目撃者』というアイデンティティがよく解らなくなってくるフライ。 フライ 「それは、俺が目撃者だからだ。目撃者が報せないで、 誰が報せる」 畳み掛けるように間髪入れず。 オウル 「だから? 何のために?」 少し逡巡。 フライ 「それは。死んだなら墓が必要だし、葬式だってして やらなきゃなんねえだろ」 オウル 「お墓を必要とするのは、どっちかって言うと遺され た者の方だよね。葬儀だって然《しか》りだ。駒鳥は誰を遺《のこ》 して死んだの? 貴君が駒鳥の死を伝えて回る相手 は、死んだ駒鳥にとっての何?」 フライ 「……、っ。それは……」 答える言葉が見付からず、沈黙する。  ※ フライにとって駒鳥の死を伝えるのは、洗脳によ   り擦り込まれた本能のような行動。当たり前の事   なのだが、改めて理由を問われると『あれ、何で   だっけ?』と呆然となる。が、一瞬そうして我に   返っても、今度は『いやいや、そんな問いかけす   る方がおかしいんだ』となる。 オウル 「ほら、ね。貴君らは『定められた役目があるから』 それをこなしているに過ぎないのさ」 フライ 「ん、だよ……。じゃあお前は、俺らみたいな赤の他 人が弔ってなんかやらない方が良いとでも言うのか? 駒鳥は俺の目の前で死んだんだぞ!」 オウル 「そんな事は言ってないよ。そう、駒鳥坊やは可哀想 な子だしね。勿論、きちんと弔ってあげるべきだ。 あの子のお墓を必要とする者はちゃんといるからね。 だから、小生だって昨日の内から墓穴を掘った」 フライ 「じゃあ、何が言いたいんだよ」 オウル 「小生はね、フライ。この葬儀は形だけのものだと思 ってる。予め定められた役割を私達はただこなすだ け。こんな茶番が愛されているなんて、大層悪趣味 な話じゃないか」 フライ 「愛されてるだって?」 怪訝そうに、葬式を愛するなんて不謹慎だという普通の道徳的な感情も込めて。 オウル 「嗚呼、そうさ。愛されてるのさ。例えマザー・グー スを、我らが偉大な魔女グースを知らなくとも、こ のフレーズを知っている者はごまんといる。貴君も、 聞いた事くらいあるんじゃないか?」 最終行はリスナーに向けて、一つ息を吸い込んで厳かに。 オウル 「『誰が駒鳥殺したの?』――とね」 少しの沈黙。 フライ 「は、何言ってんだよ。訳解んねぇ。第一、何だ。マ ザー・グースを知らない? そんな物知らずがこの 世界のいったい何処にいるってんだよ、ありえねえ」 戯言だと笑い飛ばすフライ。おもむろに明後日の方向を向き、ぐるりと首を百八十度回してフライを振り返りつつ語るオウル。 オウル 「貴君の反応は無理もない。この世界の住人にとって マザー・グースは唯一無二の支配者で、ここでは全 てが彼女を中心に回ってる。神の他に彼女と同じ力 を持つ者がいるとしたら、イソップ、グリム、ペロー に、後はアンデルセンくらいのものか。まあ……神 には及ばないとしても、イソップ、アンデルセンは 性格が違う。マザー・グースにより近しい『魔術師』 ならグリムかペローになるだろうけど、『マザー・ グース』は名前からして異質だ。嗚呼、『世界』で はなく『国』をの支配者でも良いなら『キャロル』 が最も近しいかな」  ※ 解説参照、リスナーに対する説明台詞に当たる。 それを聞いて険しい顔になるフライ。 フライ 「んな名前、軽々しく羅列するな。罰当たりだぞ」 オウル 「〈肩を竦めやれやれ、という風に小さく笑う〉 その反応も、仕方ないけど。何せ彼の魔法は実に自 在で実に脅威なのだもの」 ルイス・キャロルは男なので『彼』。 フライ 「……悪ぃかよ」 オウル 「いいや。ただね、貴君が思っている程、あの御歴々《おれきれき》 は大筋と関係のない小生達個体の私秘《しひ》的振る舞いま では気にしないよ」 更にぐりんと首を捻りリスナーを見据えて笑う。 オウル 「そこに感性を刺激する特別な物語性がない限りは、 ね」 そう言われても釈然としないフライ。 フライ 「そんなもんか」 BGMが元に戻る。雰囲気を変えるように切り替えて。 オウル 「それより、今は葬儀の準備だったね。引き止めて悪 かった。暗くなる前に他の皆に報せておいで」 フライ 「言われなくても解ってる! 〈舌打ち〉 んだよ、勝 手にべらべら喋っておいて。フィッシュ、行くぞ」 ちゃぷんと水音を立てて傍に寄ってくるフィッシュ。 フィッシュ 「はぁい。二人共、あんまり長いからビートルが白衣 縫い終えちゃったよ、もう」 オウル 「悪いね、待たせてしまって」 ビートル 「私は気にしていないわ。ところでオウル、お墓は何 処に作ったの?」 オウル 「ネズの木の下だよ」 フィッシュ 「えっ」 フライ 「……」 フィッシュとフライの反応はほぼ同時。二人の反応を見たか見ないかの内にすぐ飛び立つオウル。少し首を傾げつつもオウルを追うビートル。 ビートル 「……? それじゃあ、また後でお会いしましょう。 オウル、待ってちょうだいな。一緒に行くわ」 最後はオウルの去った方へフェードアウトしながら。 フィッシュ 「あ、またねー。えっと、じゃあ僕らも行こうか?」 フライ 「何なんだ、あいつ。ネズの木の下だって?」 フィッシュ、呼びかけを無視され一瞬きょとんとした後。 フィッシュ 「……駒鳥が死んだ場所、だよね。偶然、なのかな」 フライ 「確かに、あの殺害現場にゃ今思い返してみりゃ駒鳥 を埋められるくらいの穴があったが……」 独白のようなフライの言葉にフィッシュも沈黙。しばらくしてからぽつりと吐き出す。 フライ 「森の賢者か何だか知らねえが。薄気味悪ぃ奴」 〔マザー・グースの世界:真昼の道端〕 BGM&せせらぎSE継続。ちゃぽん、ちゃぽん、とフィッシュが小川を跳ねる音。その上を飛ぶフライ。 フィッシュ 「あー、ルック達見ーっけ!」 フライ 「おい、ルック、ラーク、リネット!」 ルック 「これはフライではないですか。どうしたのです」  ※ 『どうしたのです』と言いつつルックは大方何が   あったか予想できている口ぶり。 フライ 「駒鳥が殺された」 三羽 「「「〈ざわめく〉」」」 ルック 「それなら私はこの聖書を手に、牧師を務めねばなり りませんね」 ラーク 「だった、ら私《あたし》が付き人としてお手伝いするわ。ただ し、お葬式をするのが真っ暗闇の夜でなければだけ ど。……見えないものは、怖いから」 いかにも守ってあげたくなるようなか弱げな呟き。 リネット 「大丈夫だよ、ラーク。僕がすぐに松明《たいまつ》を持ってこよ う。僕はムネアカヒワだから。この胸の模様みたい に、真っ赤な炎で照らしてあげる。だから、君は安 心して君の役目を果たせば良い」 ラーク 「それなら私《あたし》も平気だわ。ありがとう、リネット」 ルック 「お墓と棺の準備はできているのですか?」 フライ 「墓はもう掘れてるってさ。棺の方はこれからだ」 リネット 「僕達は何処に向かえば良いのかな?」 フィッシュ 「この川を少し遡った先の、大きなネズの木の下だよ」 ルック 「ネズの木ですか。何とも曰《いわ》くのありそうな……」 フィッシュ 「へ?」  ※ ルックもオウルみたいに訳知りキャラなのか? と   いう疑問と驚きが混じった声。 リネット 「でも、お墓にするには悪くないね。知ってるかい、 ネズは永遠と再生を象徴する樹だとも言われてるっ て。小枝を焚いて燻《いぶ》せば悪いものは浄化され、煎じ て飲めば病を癒してくれるんだとか」 ラーク 「きっと神様のご加護がついてるのね。駒鳥さんも安 らかに眠れるはずだわ」 フライ 「どうだかな」 ラーク 「え?」 フライ 「安らかに眠れる訳《わき》ゃねえよ。永遠とか再生とか、そ れよりもっと重大な事がある」 リネット 「どういう事?」 フライ 「駒鳥は、ネズの木の下で死んだんだ」 リネット 「〈息を呑む〉」 ラーク 「まあ……」 リネットとラークの反応はほぼ同時、ラークの『まあ』も息を呑むような感じで。 ラーク 「そんな所にお墓を建てたの?」 眉を顰めるラーク。  ※ 嫌そう、というよりも怖がっているような感じ。 フライ 「俺の知ったこっちゃねぇよ」 ルック 「では、誰の提案です?」 おずおずと切り出すフィッシュ。 フィッシュ 「オウルだよ。墓穴をもうそこに掘ってたんだって」 一同 「……」 わたわたとフォローするように。 フィッシュ 「ぼ、僕は馬鹿だからよく解らないけど、オウルが決 めたんなら悪い事はないんじゃないの? だって、 森の賢者なんでしょ?」 ルック 「〈細い溜息〉……なるほど、オウルのね」 ラーク 「ええ、それなら間違いはないわ」 リネット 「うん、オウルの決めた事ならね」 ルックは心情としては賛成はしきれないものの、何やらオウルに意図があるのだろうと理解した風に。ラークとリネットは少し躊躇しながらも、ルックが納得した様子だし、オウルのする事なら自分達が口を挿むべきでもないと引き下がる。そんな鳥達の微妙な力関係を前にして軽く沈黙する二人。 目撃者組 「……」 ルック 「ともあれ、早くしないと遅くなってしまいます。リ ネットが松明を灯してくれるとはいえ、できるだけ 明るい内に越した事はないでしょう。フライ、まだ 他にも声をかけるのでしょう?」 フライ 「嗚呼、そうだな」 ルック 「それなら。さあ、ラーク、リネット。私達も参りま しょう」 ラーク 「ええ」 リネット 「分かった」 立ち去り際、ルックがフライに耳打ちする。 ルック 「オウルの心つもりは知りませんが。賽はもう、投げ られているようですしね?」 フライ 「〈溜息〉……お前ら鳥共の事はよく解んねぇよ。何 か調子狂うわ、いつも」 ルック 「はは、まああまり真剣に考え過ぎない事ですね。私 達は空を漂うリトル・リドルですから」 『リドル』=謎、不可解な存在の意。ここからリスナーに向けて。 ルック 「貴方も、あまり気にしてはいけませんよ? 魂が天 に向かう時、それを運ぶのは鳥だと言いますが。そ のような信仰と私達に何の関係があるのかなんて、 この世界においては然したる問題ではないのです。 それに」 すぅっと悪魔的に目を細めて。 ルック 「魂を運ぶ鳥の由来は、屍肉を喰らって飛び去る肉食 の鳥。我々や猛禽類のような……ね」  ※ ルックがこの後何かをする訳ではないので、意味   深になり過ぎないように。この劇には描写されな   いが何かをしているかもしれない、というリドル・   ストーリー的な台詞。リスナーが自由に妄想する   切欠として置かれている。 BGMはそのまま第九幕へ。 せせらぎSEは余韻を残しつつフェードアウト。 解説: 童話作家を魔法使いに見立てている。グリム、ペロー  は『本当は怖い○○童話』という風に取り上げられ  る事も多い作家達。マザー・グースも『本当は怖い  マザー・グース』と紹介される事があるため、これ  らの作家は作中世界においては『魔法使い』という  扱い。これに対してイソップ、アンデルセンは比較  的優しい童話が多いため、扱いは『良き魔法使い』。  なお、『神』には世界各地の神話の登場人物を見立  てている。 ..第九幕 第九幕 -Birds Of A Feather 2/2- 登場人物: レン フライ フィッシュ ルック(牧師) ダヴ(喪主) カイト(棺運び) トラッシュ(聖歌隊) 〔マザー・グースの世界:昼過ぎの道端〕 第八幕と同じBGM。高い木の上でレンが不機嫌そうに、遠くでフライが飛び回っているのを見下ろしている。以下、フライとカイトの会話をバックに、メインフォーカスはレンに当てる。 フライ 「おい、カイト! 降りて来いカイト!」 カイト 「聞ーこーえーてーるー」 フライの所まで急降下していくカイト。  ※ カイトはレンに近い高さからフライの場所まで降   りていくので、少し遠ざかるような演出になる。 からかうようにフライの周囲を旋回しながら。 カイト 「せっかちは女の子にモテねえぞ?」 フライ 「うっせ! そんなのどうでも良いっつの。どうせ俺 は蠅《はえ》さ、羽虫さ。それより、駒鳥が殺されたんだ」 カイト 「何? 駒鳥って、この世界の一体何処に駒鳥なんか が……」 フライの『それより』辺りからフェードアウト。以降は完全にレン達の会話だけにフォーカス。 レン 「今ほどあの声が耳障りに思える事はないよ。何でか な、そもそも耳障りなはずの蠅が煩《うるさ》く飛び回ってる からかな。本当、何でこんな……」 自嘲の響きが滲む独白、鬱っぽい。  ※ フライに対して苛ついているというよりも、駒鳥   の死の報せを受け取るのが嫌なだけ。あるいは、   この順番で報せを受け取らなければならないのが   もどかしい。重苦しい心境を紛らわすように不安   定に抑揚を変えて。 ダヴ 「レン」 別方向からダヴがレンを見付けて声をかける。 レン 「! ダヴ……」 ぱたぱたと飛んできて枝に止まるダヴ。レンは苦々しげにそっぽを向く。  ※ ダヴは既にフライからロビンの死を聞いている。 そっぽを向くレンを見ておずおずと。 ダヴ 「こんにちは。何だかご機嫌斜めね。貴方は……もう ご存知なのかしら?」 レン 「まだだよ」 ぴしゃっと即答、たじろぐダヴ。 ダヴ 「まだ私、内容までは言ってないのに……。知らない なんて、嘘でしょう」 ちらとダヴの方を見やるレン。 レン 「先に報せを貰ったからって訳知り顔? 知らないっ て言ったんだから、知らないって事で話を進めて欲 しいんだって事くらい察したら? それとも、何。 君は僕に意地悪がしたいの?」 ダヴ 「そんな、つもりじゃないわ」  ※ ダヴの演技にはマイナスイメージがつかないよう   に特に注意。完全にレンの八つ当たり。 苦い表情でダヴに向き直るレン。謝罪を口にするものの、まだ何処か不貞腐れている。 レン 「……ごめん、八つ当たりだった。僕より君に先に報 せが行くのは仕方ないのにね。そういう物語《ライム》なんだ もん。僕にも君にも、どうしようもない。長年歌い 継がれた歌の歌詞だけ変えたって、それはもう別の 曲だし。僕らが登場人物……キャストされた者であ る以上、筋書きは変えれない」 ダヴ 「貴方の気持ちは、多分私にも少し解るわ。本当なら 私じゃなく貴方がすべき事だもの。駒鳥のお葬式、 その喪主っていう役目は。だって、駒鳥が神の雄鶏《おんどり》 で。貴方は神の雌鳥《めんどり》。何の縁《ゆかり》もない私が喪主で、番《つがい》 の貴方が棺衣《かけぎ》持ちだなんて、おかしな話」 人目を憚《はばか》るように徐々に声をひそめていくダヴ。  ※ 葬式のシナリオや配役は怖ろしい魔女の決めた事   なので、それに文句を言っているところは誰かに   聞かれたくない。魔女の報復が怖いから。 レン 「君はやっぱりお人好しだね、そんな事を気にしてる だなんて。どうにもなりゃしないのに。それも君の 名前の所為《せい》? 博愛のダヴ」 ダヴ 「〈困ったように黙り込む〉」 イエスともノーとも言えないダヴ。気まずい沈黙になりかけるが、それを察してレンの方からさくっと話を打ち切る。同時に自分の中のわだかまりも吹っ切るように、少し態度を軟化させる。 レン 「ごめん、意地悪だね、僕。君に当たるなんてどうか してる。ホント、どうかしてるよ」 レンが態度を和らげたのでダヴも少しほっとして。 ダヴ 「確かに、私の名前は特殊だわ。ダヴ。愛の響きに、 Love《ラヴ》という言葉によく似てる。でも、だからっ て私が特別愛情深い訳でもないの」 レン 「そんな事ないさ。君はいつだって優しいよ。だから 時々、余計に憎らしくなる。いや、君が嫌いって訳 じゃない。君の事は好きだよ、尊敬だってしてる。 それに比べて僕は何なんだろう、ってね。つい思っ ちゃうんだ」 ダヴ 「レン……。それはきっと、それは私がそう見えるよ うに演じてるだけよ」 レン 「なら、君は一流の役者だね。誰もこれをミスキャス トだとは思わない」 寂しげな表情がよぎるダヴ。 ダヴ 「役者、ね。そうね、貴方も私もただの役者。既存の 筋書きをなぞるだけのピース。個性なんて何処にも ない。何もかもが役割のために存在してる。私が優 しいとしたらそれは紛れもなく、そういう役割を与 えられたからよ。私は本当の優しさなんて知りもし ないし、解らない」 少し躊躇して、やはり言わなければと口を開く。 ダヴ 「……だから、間違ってると思っていても、貴方に自 分の役割を譲る事すらできないんだわ」 レン 「いや、違うよ。君はそうやって僕の気持ちを推し量 ろうとしてくれる。それって、優しくなきゃできな い事じゃない」 ダヴ 「これが、優しい?」 レン 「うん。僕はさ、そんな風に自分の行動を他人の立場 から考えた事なんて今までなかった気がするし。多 分、これからもしないと思う。僕は自己中で我《わ》が侭《まま》 だから」 ダヴ 「そんなの、私だって我が侭よ。貴方に役を譲ったら、 私には何もなくなっちゃう。だから今までずっと、 言い出せなかった。……いいえ、言い出さなかった」 レン 「んー、でもそんな言い方するって事はさ。君ってば 僕に罪悪感みたいなものを感じちゃってる訳だよね? しかも、できもしない事をさ」 レンはあっけらかんとしているが、『できもしない』という言い方でダヴは自分が咎められたと思って謝罪の言葉を口にする。 ダヴ 「……ごめんなさい」 レン 「あー、違う。そういう意味じゃなくて! できもし ない、っていうのは。望んだって実現できない、っ て意味。君を責めてるんじゃないんだからね。おい それと、逆らえるものでもないって事は僕だってよ く解ってるし。キャスティングっていうのは、いわ ば召喚。喚《よ》ばれた者はあくまで駒にしかなり得ない」 既にレンはマザー・グースに逆らう意思を固めている。前々から燻っていたものがダヴとの一連の会話の中で明確に決心できたという流れ。 レン 「(でも。駒に意志が芽生える事もある。……嗚呼、 そうか。革命っていうのは) そうやって起きるものなんだ」 脳内の独り言がぽろりと出て、ダヴが目をぱちくり。独り言の中でしかレンの革命意志は表明されていないためダヴからするといきなりレンが何か大それた事が起きる事を予期あるいは計画しているような台詞を口走っているように見えている。 ダヴ 「レン?」 困惑するダヴに何でもないよと首を振り。 レン 「ううん。それにしたって、君、酷い顔だね」 ダヴ 「えっ。そんなに、変かしら。……」 俯いて沈黙してしまうダヴに仕方ないな、と首を竦めて。 レン 「君の事だからどうせ、『どうして私はダヴなんて名 前なんだろう』とかそんな事考えたでしょ。ほら、 顔上げて」 ダヴの頬を両手で挟んで自分の方を向かせ、覗き込む。 レン 「そういうところが優しいんだよ。君の良いところさ」 ダヴ 「……」 目に涙を溜めておずと視線を合わせるダヴ。 レン 「泣かないで。ほぉら、笑って? ただでさえ儚げな 君が泣いてたら、お葬式がこの世の終わりみたいに なっちゃうよ」 『ほぉら』は『ほーらー、早くしてよー』みたいなニュアンスで、意識して少し強引に。 ダヴ 「そうね、私が落ち込んでちゃ……駄目よね」 目元に溜まった涙を指先で拭って弱く微笑む。 ダヴ 「ありがとう、レン」 レンもにこっと笑って。 レン 「どういたしまして」 遠くでカイトが飛び去る音がし、フライが下からレンを呼ぶ声が聞こえてくる。  ※ もう少し長い間呼び続けていても良いかも。 フライ 「レン、おーい、レンー! レーンー!」 ぱっと手を放し距離を取る。 レン 「やっと、来たみたいだね」 ダヴ 「レン」 レン 「ん?」 フライ 「俺が虫だからって無視してんのかゴラァ!!」 フライの羽音が近付いてくる中での会話。 ダヴ 「私、貴方の分まで祈るわね。貴方の駒鳥がどうか安 らかに眠れますように」 レン 「ありがと、ダヴ」 高い木の上まで飛んでくるのはフライにとっては結構大変で、少し息を荒げている。 フライ 「どいっつも、こいっつも、高い所に停まりやがって」 息を整えて切り出そうとしたところで。 フライ 「レン」 レン 「解ってる」 ぴしゃっと遮られ怪訝そうに目を丸くするフライ。 フライ 「はぁ?」 レン 「……解ってるよ」 ダヴ 「〈小さく笑って〉」 静かに飛び立つダヴ、同時にBGMを絞る。飛び立つ羽音をバックにレンが繰り返す。 レン 「解ってる。僕の役目は」 BGMフェードアウト。 〔マザー・グースの世界:夕暮れの道端〕 キリスト教の葬式を連想させるBGM。  ※ パイプオルガンとか、そんな感じ? ネズの木の傍に動物達が集う中、トラッシュが賛美歌を歌っている。 トラッシュ 「♪現世《うつしよ》をば離れて 天《あま》翔ける日来たらば  いよいよ近く御許《みもと》に往き 主の御顔《みかお》を仰ぎ見ん」  ※ 賛美歌320番『主よ、御許に』を引用。厳かに   美しく。ソロのアカペラで聴かせられる事を前提   としたキャスティングをお願いします。見事に歌   えるなら男性でも構いません、脚本の方が性別を   変更する事も辞しません。 啜り泣く動物達。  ※ 本幕のキャスト一覧にない動物達もエキストラと   して啜り泣きには参加して下さい。全員でなくと   も構いません、各キャラの性格等に任せます。た   だし、牧師役のルック、歌っているトラッシュは   この啜り泣きに参加しないで下さい。 ルック 「それでは、これより出棺します。カイト、お願いし ます」 カイト 「おう」 棺を担ぎ上げ、静かに墓穴へと歩き出すカイト。周囲はそれに着いて行く。ブルフィが教会の鐘を鳴らす。 りーんごーん、りーんごーん。その場に佇んだまま動くこうとしないレンの隣にやって来て、担いでいるシャベルを地面に突き刺すオウル。 オウル 「行かないのかな。埋葬されたら、もう二度と会う事 もなくなるよ」 レン 「……埋葬に立ち会っても、あの子に会える訳じゃな い。あの子はもう棺の中に閉じ込められて、顔を見 る事も叶わない。棺に土が被さっていくところを見 たって、何になるさ」 肩を竦めるオウル。揶揄するでもなく、しみじみと。 オウル 「ドライなんだね。棺を隔てて寄り添う事に情や美徳 を感じる者も多いだろうに」 レン 「離別っていうのは死の瞬間にはもう終わってるって、 思わない?」 オウル 「なるほどね。いや、小生個人としては同感だ」 ぽそっと暗く呟くレン。 レン 「それに、大丈夫さ。後は皆が上手くやってくれる」  ※ 自分がいなくても別に構いやしないんだ、と卑屈   な気持ち。 色んな負の感情を押し殺しながら、オウルに問う。 レン 「何で、駒鳥は死ななきゃならないんだと思う」 オウル 「それを小生に訊くのかね」 はぐらかさないで、というようにオウルの目を見据える。 レン 「オウル、君は何故僕のところに来た? このお葬式 の喪主はダヴだ。その彼女にはお悔やみも何も言わ ず、君は真っ直ぐ僕のところに来た」 両者共に目を逸らさない。 レン 「君は、本当の事を知っている側の生き物なんだろ」 オウル 「……」 レン 「森の賢者のカラクリが何だって、僕は構わない。君 が何者だろうと関係ない。でも、あの子の事で知っ てる事があるんだったら」 くしゃりと顔を歪めて。 レン 「頼むから、教えてよ」 深い溜息と共にシャベルを土から引き抜き担ぎ上げる。 オウル 「ホゥ……」 棺が担ぎ去られた方へ一歩足を踏み出し、首を百八十度ぐるんと回して振り返る。 オウル 「良いさ、教えてあげよう。恐らく咎められもすまい。 ただし、棺を埋め終えてからだね。ここにいる以上、 小生も世界を回す歯車の一つに過ぎないのだから」 レン 「勿論さ、埋めてやって。もう二度とあの子の命が弄《もてあそ》 ばれたりしないように。……僕以外の誰の目にも留《と》 まらぬように、深い、静かな、土の底に、ね」  ※ 最後の『ね』は『お願いだよ』と懇願するような   響きで。 BGMフェードアウト。 解説: 前幕に続き『Who Killed Cock Robin』の内容をなぞ るが、似たようなやり取りの繰り返しになるので大幅 に省略。ここからストーリーはマザー・グースを離れ ていく。 ..第十幕 第十幕 -Jack And Jill- 登場人物: ジャック(スパロウ) ジル(スパイダー) 〔マザー・グースの世界:宵の丘〕 静かな夜に虫や蛙の鳴き声がBGM代わりに響く。人気のない暗い丘の上にジャックとジルの姿。かさかさとジル(蜘蛛)がジャックに近寄る。ジルはオネェ口調の男性、女装している。 ジル 「Good《グッド》 Night《ナイト》,ジャック」 ジャック 「Good《グッド》 Night《ナイト》,ジル」  ※ ジャックの台詞は全体的にテンションが低く、低   音ボイスでぼそぼそっと呟く感じ。 ジルに応えたものの、何処か遠くを見ているジャック。 ジル 「長いコト鐘の音がしてたわネ。ミサだったのかしら」  ※ 知っていて敢えて訊いている、話の切欠作り。 ジャック 「葬儀」 ジル 「誰の?」 ジャック 「駒鳥の」 ジル 「へェ。通《どう》りで、何処へ行っても鳥の声一つ聞こえな かったワケだ。お陰でアタシはたっぷり食事にあり つけたケドぉ。少しは警戒してくれないとツマラナ イし、眼中にすらないみたいでちょっと癪だワ」 不満そうに尖らせた唇を指でなぞる。 ジャック 「その腹は獲物で膨れてるのか。獲物を虜《とりこ》にするため の糸が詰まってるんじゃなく」 ジル 「糸なんてほとんど吐いちゃったわヨ」 ふっとほんの少量糸を吐き出して指に絡める。器用にあや取りでもするように糸を編みながら。 ジル 「こうやって、ホラ。カワイ子ちゃんをお誘いするた めに立派な螺旋階段を編んでたんだから。くすっ、 活きの良い子だったわァ。威勢の良い坊やかと思っ たらお転婆なお嬢サンでね。嗚呼、でも、アタシも 解るモノ。性別なんて抗いようのない定めに縛られ て、往生際悪くのた打ち回る姿ってホント素敵。憤 怒と屈辱を一つずつ諦めと涙に染めていくの、堪ら ないわよネ」 ねっとり変態性癖全開のジルを冷めた目で見るジャック。 ジャック 「変態」 ジル 「アラ、アタシに今更それを言う? ところで、お葬 式。アンタは行かなかったんだ?」 手で糸を編むジェスチャーを続けながら問いかけるジル。 ジャック 「行く訳ない」 ジル 「どォしてよ? アンタだって鳥じゃない。ううん、 厳密には『鳥にだってなれる』ね。そうでしょう、 殺し屋雀のジャック・スパロウ」 糸を絡めた手でジャックの頬に触れようとするジル。 ジャック 「糸まみれの手で触れるな。汚《きたな》らしい」 ジル 「やだ、つれなぁい。濡れ羽でもがく小鳥って凄く綺 麗でそそるのに。ちょっとくらい愉《たの》しませてヨ」 ジャック 「吐く糸どころか言葉尻まで一々粘ったらしい。いつ の間に僕の弟は毒蜘蛛なんぞに成り果てた。……付 き合いきれない」 ジル 「んもう……不公平よね。蚕の吐く糸は良くて、アタ シの吐く糸はダメなんだから。ま、別に良いわよ、 コモンセンスがアタシに味方しないのなんて知って た」 やれやれと手を引っ込め、オネェ口調を少し和らげる。男っぽさ割り増し。 ジル 「それで、どうしてお葬式に参加もせずにこんな遠い 所からバードウォッチしてたのかって訊いてるんだ ケド」 ジャック 「別に」 ジル 「嘘おっしゃい。アンタ、何時間此処に居座ってたと 思ってんの? 求愛を拒まれて未練たらたらの雄鳥《おんどり》 みたいにサ。行きたかったんデショ」 図星を突かれて悪態が零れる。 ジャック 「ウォッチャーはどっちだ、このストーカー」 ジル 「アタシへの罵り言葉はお好きにどーぞ。でも、質問 には答えてよネ」 ジャック 「何故僕が葬列に加わらなかったか。そんなの、僕が ジャックのスパロウだから。それ以外にどんな理由 があると? だって、ほら、殺したのは僕。ジルが その口で言ったろう、『殺し屋雀のジャック・スパ ロウ』と。加害者が参列する葬儀なんて悪趣味。滑 稽極まる」  ※ ジャック=犯人の意で。 ジル 「それの何がいけないの? あのお葬式自体が既に最 上級で滑稽なんだから、結構、滑稽上等で花を添え てやればイイじゃない。魔女様の魔法が悪趣味なの だって、何も今に始まった事じゃなし。吹っ切れて ないのよ、アンタはさァ」 一歩距離を取る。軽くおどけて踊っているような雰囲気で。少し妖しげに。 ジル 「ひたひた浸って、芯から染まって。プライドもモラ ルも、何もかも麻酔にかけてしまえばイイ。 ☆Good《グッド》 Night《ナイト》, Sleep《スリープ》 Tight《タイト》, ウィリーにとろとろ蕩《と》かしてもらえば、この世の夜 とひとつになれる」  ※ ウィリー関連と☆の台詞については第一幕参考。 ジャック 「御免だ。持て余された思考、感情。それが眠らされ 混じり合って。夜の色はますます濁りを増す。星の 眼差しは不純物を見透かすだけで、何もしない。 一《ひと》度《たび》眠らせてしまえばもう、その心は僕の胸には戻 らない」  ※ 発音はアリアンロッドとアリアンフロドの中間く   らい。ケルト神話における月の女神の名前。月の   姫の本名。 ジル 「処理できない気持ちなんて抱えてたって苦しいだけ。 夜は無限の屑籠なんだから、上手く使いなさいな」 ジャック 「僕から生まれた心は僕のモノ。捨てる事はできない」 ジル 「はァ、生き辛いの」 聞き分けのない子だな、と首を振り振り肩を竦めるジル。 ジル 「質問を変えましょうか、ジャック。どうして加害者 を称しながら被害者のお葬式に出たがるの? アン タのそれはどういう心境? 行きずりの殺害対象を 憐れむアンタじゃないわよネ。まさか本気で恋して るとか言わないでヨ」 ジャック 「そんなんじゃない。僕はただ、自分が正しく扱われ たいだけ」 ジル 「至って正しく見えるケド。アンタは殺し屋。あの駒 鳥だって殺させてもらったんデショ。何が不満なの」 ジャック 「違う。魔女が、僕を、扱うって話じゃない」 ジル 「じゃあ、誰が、誰を」 ジャック 「皆が、僕を」 視線を合わせてしばし沈黙。切ないような狂気じみたようなBGMイン。  ※ ここからジャックの狂気が見え隠れし始める。実   際にジャックは駒鳥を殺していないが、駒鳥を殺   したのは自分だと強固に思い込んでいる。ジルも   またその思い込みを知っているが、指摘はしない。   そう思い込む事がそもそもジャックに与えられた   役目だから。 ジャック 「気味が悪い。何故僕が駒鳥を殺したのか。それを誰 も追及しない。あんな風に啜り泣きながら葬儀を執 り行うくせに、その元凶には憎しみ一つぶつけに来 ない。まるで舞台装置。駒鳥の命に価値はない。そ れ以上に、僕の心にも価値はない」 ジル 「……〈ふっと小さく溜息〉」  ※ ジルにとっては既に諦め済みの事。自分達は駒で   しかないと割り切っているため、ジャックの吐露   に対しても何処か冷めている。 ジャック 「あいつらが泣きながら抱いてる感情は何だ。僕が殺 めながら抱いていた感情は何だ」 ジル 「何って。アンタ、キャスティング上の事なんだから。 そこを掘り返してもアンタが望むような答えは出て 来やしないわヨ」 ぐっと声を抑えて顔を近付けるジル。両手でジャックの頬を挟み、覗き込む。 ジル 「誰の心も皆空っぽ。瓶の蓋を開けてみても、中には なァんにも入っちゃいない。でもォ、そこに『何か』 を生み出すのはアタシ達にしかできない事よネ。無 より喜怒哀楽を、妬けるような愛憎を、練成して空 の瓶を満たしていく。アタシ達はある種の錬金術師《アルケミスト》」 ジャック 「なら、何故憎しみは生じない。これは事故じゃない。 殺生《せっしょう》だ」 ジル 「アイツはきっと、アンタを糾弾《きゅうだん》すべき相手と見做し てない。これは復讐劇に到る物語《ライム》じゃないから。故 に、アンタにぶつける憎悪が生まれる事はない。そ れだけのコトじゃあないかしラ」 ジャック 「誰を殺めれば、僕は罪人になれる? 僕は疑う余地 なく『ジャック』なのに。僕以外に駒鳥を殺して良 い者はいないのに」  ※ 『罪人』は『つみびと・とがびと・ざいにん』の   中から選択。ジャックのキャストさんが読んだ時   に一番素敵な響きに聴こえるものを選んで下さい。 ジル 「さァ、それはどうかしらねェ」 ジャック 「……?」 聞き捨てならない、と眉を顰めるジャック。 ジル 「駒鳥の命は、何もアンタだけのモノではないデショ」 ジャック 「それでも、僕は殺した。僕が殺した。あの瞬間、彼 の命は誰の物でもなく。僕の物。僕の、被害者」 BGMフェードアウト。 〔回想:ロビンの家の庭〕 本当は回想というよりもジャックの妄想に近い。第六幕ラスト参照。 ジャック 「あの時、声が聞こえた。幼い子供の、声がした」 ここから、その当時の場面がジャックの頭の中に甦る。綺麗かつシリアスで狂気的なBGMイン。 ジャック 「『誰が駒鳥殺したの?』って」 第六幕ラストの双子の台詞、『♪Who《フー》 Killed《キルド》 Cock《クック》 Robin《ロビン》』がバックに重なり。 ジャック 「それはきっと魔法の囁き。気付けば僕の手には弓が あった。僕は澱《よど》みなく駒鳥を視界に捉え。尾羽を一 つ抜き矢をつがえた。感慨なく。動機もなく。疑問 もない」 ぎりぎり、と弓弦を引き絞る音。 ジャック 「殺意を探し当てるより早く、慣れきった動作で小さ な胸の中心に狙いを定め。風船でも手放すかのよう に矢羽が指を離れたら」 ひゅっと空を切り、駒鳥の胸に突き刺さる。 ジャック 「矢は真っ直ぐ心臓を射抜いて、駒鳥は熟れきった リンゴみたいに呆気なく樹から墜ちていった」 ぱたっと駒鳥の体が地面に落ちる。 ジャック 「血に濡《ぬ》れた駒鳥の胸、それはそれは美しい。見《み》惚《と》れ てたら、蠅《はえ》の羽音と、魚の跳ねる音。僕の犯行を奴 らは見てた。不思議と目撃者を消す気なんて起こら なかったし。向こうも僕を追いかけてはこなかった」 フライが飛ぶ音とフィッシュが跳ねる音。  ※ 一連のSEの流れは第六幕ラストと同じ。 ジャック 「……足りない。何もかも」 BGMアウト。何かが壊れるようなSEと共にぶつっと切ってしまっても良し。 〔回想終了〕 回想前と同じBGMイン。 ジャック 「ある文学がこう書いてる。『殺意のない殺人は事故 であって殺人ではない。殺意のない殺人はない。理 由のない殺意はない』と。鳥は人じゃないが、便宜 上そのまま引用しよう」  ※ 出典、小野不由美『屍鬼』より。 ジャック 「本能の為す殺しは捕食にしろ防衛にしろ、生存の為 の行為。それ以外の理由から生じる知的生命体特有 の殺害行為も、情動と理性で説明がつくはず。だけ ど、僕の中にはどんな殺意も残ってない。利益なく、 愉悦も快楽もない僕のこれは、殺人ではない?」 ジル 「狙い定めて矢を放っておいて事故はないでしょうヨ」 ジャック 「良かった。事故を振り撒くだけの存在なら疫病神。 それは嫌だ。僕はあくまで殺し屋が良い」 ジル 「殺意が迷子の殺し屋、ねェ」  ※ 殺意を迷子扱いされて少しむっとするが、気を取   り直すように自慢気に。 ジャック 「殺意が迷子でも殺しを遂行できる僕の無意識には、 立派な殺害回路が備わってる」 ジル 「無意識? アンタのそれはイドじゃないワ。むしろ エゴを超越したエゴ、『超自我』からの囁き。組み 込まれた命令は魔法のパラム一つで実行される」 ジャック 「僕を動かすのは殺意じゃなくてただの命令だと?」 ジル 「アタシ達の遺伝子にはそういう風に刷り込まれてん ノ。絶対的な痛みや苦しみが与えられた時、意図せ ず涙が零れるのと同じように。特定のコンテクスト に遭遇すれは各自定められた所作を催す。これは言 うなればもはや生理的現象よネ。生理、『生きる理』 が根源にある。それが殺せと囁いた。だから殺した。 ……これがアンタの殺しの理由。理由があれば殺意 は成り立つ。殺意があれば死は事故じゃなく殺人と して成立する。ホラ、心配せずともアンタは殺し屋」 ジャック 「違う。殺しは、殺生は、もっと純粋に。情が、心が 通ってるもんだ。我《われ》への執着、透き通すような恨み、 焦がれるほどの憎悪、深淵に溢れる愛、悲愴に満ち た哀訴嘆願《あいそたんがん》。目を奪う仄昏《ほのぐら》い望みに溺れるが侭《まま》、  胸裏《きょうり》に渦巻く狂気を研いで。胸の鞘に呑み込む」 徐々に饒舌になる様は何かに魅入られているかのよう。ジャックは『殺し』という行為そのものを愛している。 ジャック 「ただ一人のために磨いた、世界に一つきりの凶器。 それが殺意」 呆れ顔のジル。 ジル 「いっそ敬服するワ。殺しに恋する夢見鳥サン。嗚呼、 ホントの意味での夢見鳥ならアタシが食べてあげる のに」  ※ 夢見鳥=蝶。 ジャック 「夢見鳥……蝶の事か。たとえ蝶になる事があっても それだけは御免こうむる」 びしっとジャックの鼻先に指を突き付けるジル。 ジル 「良いコト、ジャック。アタシ達を支配してるのは、 魔女が創りしエンベデッドシステム。魔女と同じソ サエティに属する以上、そのシステムから逃れるの は時を超えるにも等しい不可能事。この世界で己を 保っていたければ、心如き百千万と捨てなさい」 ジャック 「姥捨《うばす》て、子捨ての森の中。誰が捨てたか心まで。殺 意だけが僕を真《まこと》のジャックにしてくれる」 ジル 「そこまで『殺し屋』に拘るのは何故?」 ジャック 「貴様が毒蜘蛛を気に入るのと何か違いが?」 ふっと笑って小声で呟く。 ジル 「ま、大差はないか」 BGMアウト。序盤のマザー・グースの世界観を思い出させるような幻想的なBGMイン。閑話休題、少し話の内容を切り替える。 ジル 「♪ジャックとジルは丘の上、水を汲むため丘の上。 ジャックが転んで頭を割れば、 ジルも後から転げて堕ちる」  ※ 『Jack and Jill』という歌の引用。丘から転がり   落ちて怪我をしたというのが本来の内容だが、    転んだジャックは頭が変に、連鎖してジルもおか   しくなったというような意味で歌う。実は第五幕   で既にハンプティ・ダンプティに引用されている。 ジル 「懐かし。アタシ達もかつては神話の兄弟だった。そ れがいつしかUnknown《アンノウン》の象徴格。ね、アンタ の古い名前は、ヒューキ」 何百年も昔の事を懐かしむように表情を和らげる二人。 ジャック 「そう言う貴様の名は、ビル。山の泉、蜜酒《みつざけ》を汲みに 行った僕らは、月の御者マーニに攫われた」  ※ 息子を攫われた父がマーニを叩き殺し、父はその   罰として蜜酒を毒酒に変えられそれを延々飲み続   ける事となった。なお、父は息子よりも蜜酒の方   が大事だった。……という北欧神話が『Jack and Jill』の元になっているという説を導入。 ジル 「あの日、地上では赤い月が見えたそうヨ。天文学的 には皆既月蝕とか言うそうだケド」 ジャック 「あの時のあれは、そんな現実的なもんじゃない。赤 かったのは全部マーニの血だ。事の発端になった蜜 酒も、神の怒りで毒酒に。無惨な顛末だ」 ジル 「血染めの月に毒の酒、酸鼻《さんび》も極まる地獄天《ヘヴンズ・ヘル》。ヒュー キとビルはきっと月に消えたの! アタシ達はその 亡霊なんじゃないかシラ。 ♪ジャックとジルは丘の上、月から墜ちて丘の上。 ふふ、うふふふふ、あはは! 亡霊、イイわ。イイ じゃない! だからアタシ達ってば『こう』なのネ」 恍惚の表情を見せるジルと対象的に冷淡なジャック。 ジャック 「成程、貴様が毒に魅入られたのはあの時からか。 『毒蜘蛛ジル』」 ジル 「アハ、アンタが死《し》に狂《ぐる》いになったのと一緒にネ。  『殺し屋ジャック』」  ※ マーニは死んだとも、ジャックがマーニに手をか   けたとも一言も言っていない点に注意。 BGMフェードアウト。更け行く夜、虫や鳥の鳴き声も共にフェードアウト。  ※ 余韻として鳴き声の方が少しだけ長く残る。 〔マザー・グースの世界:ジルの巣〕 ジルの独白。精神世界での独り言という風情で、静かで別世界的なBGMイン。ジルの内面なので多少ホラーっぽくても良し。全体的にゴシックで、蜘蛛の巣のレースカーテンや虫の骸のような意匠が散りばめられた空間。その部屋へ到るには、ジルの糸で編まれた螺旋階段を上りきらなければならない。罠そのものの螺旋階段の奥に鎮座する秘密の部屋の中、椅子に腰掛けて頬杖を突くジル。足をぷらぷらさせながらリスナーに語り始める。 ジル 「名称で個体を呼び分ける文化があれば、『不特定の 誰か』を呼び表す名前も必然存在するデショウ。誰 とも知れぬUnknown《アンノウン》達は、男ならばジャック と呼ばれ、女ならばジルと呼ばれ。名無しは仮初め の名に納まり、ジャックとジルは夥《おびただ》しき名無し人《びと》の 包括者となる。さて、そんな不明瞭な者達を投影す るアタシ達においては、それはそれは迷信、妄執《もうしゅう》、 欺瞞《ぎまん》に流言《りゅうげん》、虚実折々背負《しょ》い込まされて。はてさて、 己は如何に振る舞えば良いかと惑いもする……。  よっと」 とん、と椅子から降りるとサイドテーブルの上の瓶を手に取る。瓶の蓋をきゅっと開け、中からお菓子を取り出す。蜘蛛の糸で絡め取った獲物をお菓子化したもの。フライの残骸がその中にある。それを口に放り込みかりっと噛み砕いて。 ジル 「うん、美味し。うん? 嗚呼、これ? おつまみヨ。 さっき捕まえた蝿のお嬢サン、食べきれなかったか ら。足と、羽根をもいでネ。蜜を絡めて甘ぁく煮詰 めたの。甘露煮、グラッセって奴ネ。ねぶって楽し むのも悪くないわヨ。一本いかが?」 会話中も適度に齧ったり舐めたりしながら。最後にリスナーに向かって蜜漬けのフライの足を一本差し出すが、『気持ち悪い』という反応をされてしまう。首を竦め、ぽいっと自分の口に放り込んでかりこり。別段気分を害した訳ではなく、そういうものとして楽しんでいる。 ジル 「足だからヤなのかしら。虫だからヤなのかしら。羽 根ならどう? バラバラなのがヤ? それとも、蝿な のがヤ? ……ま、イイわ。キモチワルイと思われ るって、知ってるもの」 最後にべとついた指先を舐め、瓶をサイドテーブルに戻すと再び椅子に腰掛ける。 ジル 「数ある現し身の中から気に入った写し身を見い出し ても、何も罰《ばち》は当たらない。ジャックとジルの名前 を担う彼も、アタシも。偶像、Idol《アイドル》ではあるけ れど、結局一つきりの実体をもちゃぁんと持ってる」 此処にはいないジャックに問い掛けるように。 ジル 「脂身の食べれないジャック・スプラット。ハートの クイーンからタルトを盗んだハートのジャック。あ るいは、マザー・グースの息子のジャックなんての もいる。それから、もはやこちら側の世界に落ちつ つある、切り裂きジャックなんていう現人《あらひと》もネ。そ して、アタシ、このジルのたった一人の兄。丘から 転がり落ちたいたいけな少年、ジャック」 首を傾げる。 ジル 「真実なんて知れた事だケド。虚構に生きるも人の性《さが》、 か。ふふ、欲深いわネ。アンタも、アタシも」 BGMフェードアウト。 〔マザー・グースの世界:夜更けの丘〕 ホゥホゥ、梟が鳴き月も傾き始めた頃。先の場面からしばらくつらつらと語り明かした後。髪を掻き上げながら大きく伸びをし、欠伸するジル。 ジル 「ふあぁ。夜も更けてきたわネ。こんなに長話したの も久々。お腹も重いし、流石にアタシはそろそろ塒《ねぐら》 に戻るとするワ。アンタもちゃぁんと寝なさいヨ?」 かさ、と座り込んでいた草の上から立ち上がるジャック。梟の声がした方をじっと見詰めながら。 ジャック 「僕は行く所がある」 ジル 「こんな夜と朝の狭間の時間に? 駒鳥殺してから一 睡もしてないデショ、アンタ。ちょっと休みなさい」 ジャック 「今以外にはない。番の小鳥が動くんだ」 ジル 「番の、レンが? この物語《ライム》にそんな続きはないはず」 草むらを掻き分けてジャックが歩き出す。本幕最初に使われたものと同じ、切ないような狂気じみたようなBGMイン。 ジャック 「僕は迷子の殺意を取り戻しに行く。周りが糾弾して くれたら僕にも殺意の在り処が判る気がしてたけど。 それが期待できないなら……僕が迎えに行かないと」 少し開いた二人の距離、声を上げて呼び止めるジル。 ジル 「ねえ! アンタにとって殺意って、何? そうまでし て取り戻す価値って、何なの?」 立ち止まってちらと振り返るジャック。 ジャック 「愚問。心が感情を生むなら、己の心から出《い》でた感情 は我が子も同然じゃないか。とりわけ、殺しをアイ デンティティとする僕にとって最も大切な我が子と いえば」 慈しみという名の狂気を孕んだ目で、うっそりと微笑むジャック。周囲の音が一瞬全て消える。 ジャック 「それは殺意以外にはないと思わないか?」 静寂の後、ジルが皮肉と愉快の入り混じった歪んだ笑みを浮かべる。楽しそうに。 ジル 「はは、ちょっと感心しちゃった! その狂気、そう 遠からず極上の凶器になるワ」 ジャック 「じゃあな、ジル。 ☆Good《グッド》 Night《ナイト》,」 草を踏み分けて遠ざかり、適当な所でばさばさっと雀の姿になって飛び立つジャック。その背を見詰めながら緩く微笑むジル。 ジル 「ええ、ジャック。 ☆Sleep《スリープ》 Tight《タイト》」 BGM一段絞る。十分にジャックが遠ざかってから。 ジル 「……『殺意のない殺人はない』。もしそれが正しい なら。アンタは殺し屋なんかじゃなかったでしょう ヨ。アンタにないのは殺意じゃない。アンタは殺意 なんてモンは生んじゃいない。例えば、アンタが実 際『誰も殺してなんかいない』んだとしたら。全て が至って正しいとは思わない?」 くるりと肩越しにリスナーを振り返るジル。 ジル 「ま、これも所詮はIdol《アイドル》 Talk《トーク》。取るに足ら ない与太話。ホントの事が何割あったかなんて、ア タシ達だって判りゃしない。だって、此処はマザー・ グースの世界で」 カメラ目線でにぃっと、口の端に皮肉を乗せて笑う。 ジル 「全ては戯曲に過ぎないんだモノ」 BGMフェードアウト。遠くで小さく梟がホゥホゥ。 解説: 『○○太郎』『○○花子』に相当する名前がイギリス では『ジャック』『ジル』になる。例えば、『切り裂 きジャック』は正体不明の切り裂き魔。女性と見る場 合は『切り裂きジル』と呼称される。ジャックとジル は、そんな正体不明の者の仕業を一手に引き受ける。 誰とも知れない者の犯行は全てジャックとジルがやっ た事。彼らに意思はない。『Jack And Jill』に登場 するジャックとジルも、丘に水を汲みに行った名無し の兄妹。ただし、ジルも古い歌では男の子であるとさ れているため、ここではオカマキャラとして脚色する。 ..第十一幕 第十一幕 -Snow Snow Faster- 登場人物: レン オウル スノードロップ 〔マザー・グースの世界:夜の森〕 風の音が静かに流れ、時折森の木々がざわめく音がBGM代わりに流れる。  ※ 第十幕と同じ時間軸、対となる雰囲気で。 マザー・グース問答。 オウル 「この世界には創り主がいる。それがマザー・グース である事は誰もが承知しているだろう。ところで、 マザー・グースとはいったい誰なのだろうね?」 レン 「それは駒鳥と関係ある事なの?」 オウル 「小生は幾分回りくどいけど、無意味な事は話さない 性質《たち》だよ」 レン 「マザー・グースの正体……考えた事もなかったけど。 グース……ガチョウに乗った小母さん、だよね」 オウル 「彼女にはとても強い匿名性があってね。というより、 そもそもが誰か特定の人物を指す呼称ではないんだ」 レン 「どういう事? 女性がガチョウを乗り物にする民族 がいるとか、そういう事?」 オウル 「ホッホッ、それはまた愉快な発想だ」 レン 「笑うなよ。真剣に考えてるのに」 次の会話の途中から民族風のBGMイン。  ※ 吟遊詩人や語り部のテーマっぽいもの。 オウル 「いや、すまないね。うむ。でも、良いセンを行って いるかもしれない。マザー・グースとはそもそも、 英語圏発祥の民話や童歌《わらべうた》の総称なのさ。これらの語 り部や歌い手の多くはガチョウを飼う老婆だった。 というのも、ガチョウというのは非力な老婆でも飼 育できる非常に優秀な家畜でね。子供に昔話を語り 聞かせる老婆の傍には、大抵ガチョウの姿があった。 故に、子供達は老婆の語る物語を指してこう言った」 レン 「『ガチョウ婆さんのお話』、『マザー・グース』か」 オウル 「そう。だから、マザー・グースというのは人の名で はない」 レン 「じゃあ、僕らが呼ぶ『偉大なる魔女』っていうのは、 いったい誰の事なの?」 オウル 「そこなんだ。そもそもこの世界は八百万《やおよろず》の語り部に よって創り上げられた世界なのだから、絶対的な神 みたいなものは存在しない。けれど、逆に『八百万 の語り部は、その全てが創り主の性質を担っている』 のだとも言える」 レン 「ちょっと待ってよ、それって。語り部なら誰でも神 様に成り得るって事?」 オウル 「そんな事を考える語り部は普通いないんだけどね」 遠回しの肯定に、少し呆然とした面持ちのレン。 レン 「普通?」 オウル 「だって、独創性がなかろう。既存の概念を語り継ぐ だけの存在が神を名乗るなどおこがましい。嗚呼、 決して貶《けな》している訳ではないよ。それ自体、文化構 成員として至極正しい在り方だし、価値がある。ガ チョウ婆さん達がいなければ、この世界はとうの昔 に滅んでいただろう。伝承の評価として、彼女達は 魔女の称号を勝ち取ったんだ。八百万いなくば世界 は成らず、八百万いるが故にその実態はあたかも霧 の如く掴み難《がた》い。奇怪な世界観を共有する彼女らの 歌は小生達を捕らえて離さない。これは一種の恐怖、 ちょっとした化け物だ。そうは思わなかい?」 レン 「〈同意の意味を込めた小さな吐息〉 僕らはずっと、その世界に囚われてきた?」 少しずつ理解してきた、という風に呟くレン。 レン 「彼女らそれぞれが『一定の世界を具現する程度には 力を持った魔女』であるなら……。でも、それなら 余計に解らない。駒鳥が殺される世界をただ描くだ け? どうして、そんな事をする必要がある? どう して、そんな歌が唄い継がれる意味がある?」 民族風のBGMオフ。 オウル 「意味などないのさ」 少しの空白。 レン 「無意味だと?」 シリアスで鋭利なBGMオン。  ※ 残酷な真理のテーマ。あるいは、ケルティックな   宗教的BGMで『古くから続けられてきた根強い   因習』のような存在感を演出。 オウル 「かつては意味もあったのかもしれない。しかし、こ の歌が『駒鳥の死から始まる葬儀の歌』として定着 したその時から。もはや駒鳥の死はこの歌の主役で はなくなっていた」 レン 「それじゃあまるで、死よりもお葬式の方が大事みた いじゃないか!」 オウル 「その通り」 レン 「何だって?」 オウル 「誰がどういう理由で駒鳥を殺したかなんて、どうで も良いんだよ。この歌を唄う者にとってはね。だか ら、きっとスパロウにも動機はない」 レン 「じゃあ、あの子の命も? あの子の死も、本当にど うでも良かったって言うの? だったらなんで、わ ざわざ誰かが死ななきゃならないような歌なんか!」 オウル 「誰かが死ななきゃ葬儀はできないだろう。そういう 意味では、殺意はむしろ邪魔でしかない。歌一つの ために立派な動機が不可欠なら、この魔女は憎しみ を自在に操る魔法を求め始めるだろう」 レン 「そんなの本末転倒だ。殺しのために憎しみを生み出 すなんておかしいだろ。お葬式をするために死体を 用意するのだって、馬鹿げてる。死者のために用意 されるのがお葬式でしょ、違う?」 オウル 「魔女が見たかったのは駒鳥が殺害される光景ではな く鳥達による葬儀の方だというのは、詩がよく表し ているじゃないか。駒鳥の死はたったの一連。それ に対して、執り行われる葬儀の描写は十三連もある」 詩=歌詞。 レン 「〈やるせなげな呻き声〉」 歯を食い縛って視線を逸らしたレンをちらと見て。この先長台詞の応酬のため、テンポ良く入れ代わり立ち代りの舌戦風にスピーディに力強く進めて下さい。オウルは比較的穏やかなままで良いですが、レンは言葉を斬り返すように、叩き付けるように。 オウル 「葬儀なんてものは、結局執り行う方の都合でしか進 まない。遺された者の心を慰めるための儀式さ」 レン 「形骸化した儀式なんて慰めにもならない」 オウル 「離別は死の瞬間に既に完了している。そう言ったの は他でもない貴君だったはず」 レン 「僕が了解してるのは、どんなに棺に縋ってもあの子 を取り戻す事はできないという事」 オウル 「当然至極。不可逆は生命の本質である故《ゆえ》に」 レン 「でも! あの子のためであるはずのお葬式すら、あ の子の存在を無視したものなのだとしたら。僕はま すますこの死を肯定する事はできない」 オウル 「憎み疎まれたならまだ納得もできよう。それすら見 えぬ、殺意なき殺生《せっしょう》。だがね、一見何処にも見当た らないようで、殺意は確かに存在したんだ」 レン 「加害者の殺意は歌の外側にあるって事だろ」 オウル 「Nein《ナイン》,それでは殺意が存在しない限りこの歌を 歌う事はできなくなる。そうじゃないんだ。歌とい うのは何時如何なる時でも歌えなければならない。 歌がキャストの意思を汲むのではなく、キャストの 方が歌に従う。これがマザー・グースの魔法の摂理」 Nein=No. 身を乗り出して詰め寄るレン。 レン 「だとすれば。加害者にすら動機がないのなら。殺意 を持つ事ができるのは、魔法を操る側のニンゲン」 犯人の名前を重く噛み締めるように。 レン 「マザー・グース」 無言で見詰め合う二人、目を細めるオウル。 オウル 「ご名答……だが、事態は存外こじれているんだ」 BGMアウト。 レン 「え? あの子は魔法の所為《せい》で死んだんだから、犯人 はマザー・グース以外に有り得ないんじゃないの?」 オウル 「嗚呼。犯人というのが何を指すか、……結局、殺意 とは何だったのかというお話さ。それによって厳密 な犯人というのは変わってくる」 レン 「……犯人はお葬式が行われるのを見たかった、って いう話じゃなかったの?」 オウル 「いいや、うん。ここからは小生では役不足だろう」 ぱんぱん、と手を鳴らし舞台の外へ呼び掛けるようにオウルが大きく声を張る。 オウル 「スノードロップ、来ておくれ」 * * * レン 「?」 きら、きらと綺麗な雪が辺りに降り始める。  ※ スノードロップ登場のエフェクト。第五幕に登場   したキティのエフェクトと対になる感じで。 スノードロップのテーマBGMオン。  ※ 幻想的な雪が気紛れに舞うようなイメージ。 雪に気付いてふと空を見上げれば、見事な星空。 レン 「雪? こんなに星も出てるのに、っ……」 風が吹き付けると同時に溢れるように雪が舞い、暗い闇夜を侵食していく。積もった雪の中から待雪草が咲き始め、同じく雪の中からスノードロップが頭をもたげる。 スノー 「♪雪、雪、降れ早く。  Ally《アライ》-ally《アライ》-blaster《ブラスター》, 雪花石膏《せっかせっこう》、アラバスター。  ガチョウの羽根を摘んで売るの、 1枚たったの1ペニーで」  ※ 『Snow Snow Faster』という歌より。『Ally-   ally-blaster』は待雪草達のコーラス   でも良い。 頭に積もった雪を軽く首を振って払う。 レン 「雪の中から……、何者? 猫?」 ふるりと羽毛を膨らませるオウル。 オウル 「呼び立ててすまないね、スノードロップ」 スノー 「別に。必要だから呼んだ。……違う?」 小首を傾げて見詰めてくる猫の目を見詰め返し、笑う。 オウル 「違わないな」 レンに向き直り。 オウル 「彼女は魔王キャロルが産んだ双子猫の片割れさ。黒 猫のキティと、白猫のスノードロップ。元々は幻想 の少女に飼われていた」 レン 「キャロル。あの世界で最も愛された少女の生みの親? 無秩序に秩序を生み出す、数秘を操る魔法律の王。 じゃあ、この子の飼い主っていうのは」 スノー 「アリスの事かしら」 レン 「……まさか。どうしてこんな所に」 普通であれば遭遇する事のない有名人が目の前にいる事に小さく震えるレン。  ※ マザー・グースの世界には登場しない人物がいる   =世界が別の世界から干渉を受けている異常事態   を察知して胸騒ぎを抱く。 そんなレンに反して平静としたスノードロップ。 スノー 「彼女も偶像に過ぎない存在。それは私も。さておき、 貴方がレンね?」 レン 「そう、だけど」 スノー 「そう。気の毒だったわね」 さくさく、と雪を踏んでレンの前までやって来る。 レン 「何の事」 スノー 「何の事かしら。そうね。駒鳥『達』の事」  ※ スノードロップの鸚鵡返しは仕様です。 眉を顰めるレン。 レン 「僕が知ってる駒鳥は一羽きりだよ」 スノー 「その一羽の駒鳥は何処から生まれたのかしら」 レン 「何処って、あの子は……」 スノードロップのテーマBGMアウト。切なさと悲哀が入り混じった感じのBGMイン。第六幕のロビンの歌がフィードバックする。 ロビン 「♪僕はママに殺されて、体はパパに食べられた」 レン 「(一度死んで)」 ロビン 「♪骨を拾った妹は、ネズの木の下墓を掘り」 レン 「(埋葬されて)」 ロビン 「♪僕を埋《うず》めた、墓の中。僕を埋《うず》めた、土の下」 レン 「(生まれ変わって……?)」 ぐっと眉根を寄せて歯噛みする。 スノー 「貴方はこれまで駒鳥と出会う機会がなかった」 レン 「っ、何でそんな事まで知ってるの」 スノー 「本来、私達と貴方達、居る次元が違う。ねえ、駒鳥 は有り触れた野鳥。ことこの国のニンゲンは駒鳥を こよなく愛してる。なのに、どうして貴方はこれま で一羽の駒鳥としか出会った事がなかったと思う?」 レン 「……それは僕も不思議だった。小さい頃、僕は駒鳥 と会う日を待ってた。ずっと駒鳥の姿を探してた」 以下独白。 レン 「(……でも、何年経っても彼らは一羽たりとも僕の 前に現れなかった。本当は、夢見てた。きっと一 目見た瞬間、僕は駒鳥に恋をして。駒鳥も僕に恋 をするんだって。だって、僕らは神に祝福されて るんだから。けど、どれだけ待ち焦がれても駒鳥 は何処にもいやしない。寂しかった。その内、見 た事もない相手を夢想してる自分が馬鹿みたいに 思えてきて、それでも頭の中から消えなくて。苦 しかった。こんなの本当の気持ちじゃない。誰か に刷り込まれた戯言《たわごと》なんだって、駒鳥なんていつ 殺されるとも知れない存在なんだから、恋なんか したって不毛なだけだって。ずっとずっと自分に 言い聞かせて。それでやっと諦められそうな気が してたのに。それなのに)」 ロビンとの出会いを思い返す。 レン 「(あの子を見た時、『見付けた』って思ってしまっ た。出会わなければ良かった。今更、今更そんな 刷り込みの通り恋なんてするもんかって。でも、 それとあの子は関係ない。あんな寂しそうな独り ぼっちの子供を放ってなんておけない。それは僕 の本当の気持ち)」 独白終了。 レン 「この世界がまともなら、僕はもっと早くに駒鳥と出 会えてた」 スノー 「そうね。そして、あの子とは関わり合うはずもな かった」 レン 「どうしてこんなに狂ってしまったのか、僕には解ら ないよ」 暗に『知っているんなら教えてくれ』と訴えるレン。 BGMアウト。 * * * 本幕序盤のオウルとのやり取りで使用したシリアスBGMイン。ここから核心を切り出していくスノードロップ。 スノー 「……世界中の駒鳥を、殺して回った者がいた。それ が全てのハジマリ」 レン 「何だって?」 スノー 「なんなら遺品を見せてもあげられる。これまで殺さ れた駒鳥がどれくらいいるかも、それで解る。彼ら らの遺した赤い胸毛は」  ※ 『むなげ』は男性の胸毛を連想させないように。 ぱちん、指を鳴らすと空から駒鳥の羽毛が降り注ぐ。 スノー 「きっと軽く、貴方を頭まで埋めてしまうでしょうね」 降り注ぐ羽毛の量にぎょっとして、駒鳥の屍骸累々を想像し拒絶反応を見せるレン。 レン 「嫌《や》だ、やめて! そんなの見たくない」 スノー 「〈小さく溜息〉」 再びぱちんと指を鳴らすと、羽毛がすっと消え去る。 スノー 「これが健全な反応?」 誰に問うでもなく、ぽっと出た感想。 レン 「〈震える息をゆっくりと呑み込んで〉 駒鳥はこの国のニンゲンにこよなく愛されている、 さっきそう言ったよね。なのに、どうしてそんな惨 い事が起きるの?」 オウル 「端的に言えば、嫉妬か」 スノー 「あるいは憧憬《しょうけい》」 オウル 「そうだね。嫉妬であるなら、もっと手っ取り早い方 法があったはずだ」 スノー 「根絶やしにするまで、詠えば良かった。あの歌は駒 鳥を理不尽に殺せる魔法。でも。誰かさんはそうは しなかった」 オウル 「では、憧憬。であるなら、愛され手厚く弔われる駒 鳥が羨ましかったのだろうか、ね」 スノー 「きっと葬って欲しかったのよ。あの素敵なお葬式の 主役になりたい。皆に愛されながら消えていきたい。 だけど、詠えば駒鳥が死んでしまうから。誰かさん が主役にとって代わる隙はない」 わざと問いの形式で示唆するオウル。 オウル 「では、駒鳥の存在を消し去った上でなら。あの歌は どう展開するのだろうね?」 レン 「『Who《フー》 Killed《キルド》 Cock《クック》 Robin《ロビン》?』 は鳥達の、鳥達による、鳥達のためのお葬式だ。そ れを幾らニンゲンが憧れたって、ニンゲンのための お葬式になる訳ないのに」 スノー 「じゃあ、ニンゲンじゃないなら?」 レン 「犯人ってマザー・グースの事だろ。彼女はニンゲン じゃないか。そうでしょ、オウル?」 オウル 「言ったろう、『事態は存外こじれている』って」 レン 「……?」 オウル 「ガチョウ婆さんは伝承する。彼女の語りを聴き育っ た者が次の世代のガチョウ婆さんとなる。この繰り 返しがマザー・グースの持つ永遠性だった」 スノー 「過去形なのね」 オウル 「ホッホッ。我が主はその永遠性の在り方を革命した 先駆けとも呼ばれるお方だからね。ともあれ、マザー・ グースの必要条件は一つ、『正当なマザー・グース の語り聞かせに親しんだ者である』事」 スノー 「これに当てはまるのはニンゲンだけかしら?」 レンの頭の中で三つの台詞が甦る。 レン 「『鳥達の、鳥達による、鳥達のためのお葬式だ』」 レン 「『なら、ニンゲンじゃないなら?』」 オウル 「『昔話を語り聞かせる老婆の傍には、大抵ガチョウ の姿があった』」  ※ すべて本幕で既出の台詞。脳内再生っぽくエフェ   クトをかけて。 動揺しながら、一つ唾を飲み込んで。 レン 「まさか、グース……本当のガチョウだなんて言い出 すんじゃないだろうね」 スノー 「生憎、ジョークでも何でもない」 レン 「はっ、そりゃあ……確かに筋は通ってる。でも、何? 飼い主の老婆が歌った童歌《わらべうた》を覚える家畜? それが、 自分のお葬式を求めて駒鳥を虐殺する? それ以前 に、そのためだけにこんな大勢を巻き込んだ世界を 展開させるだなんて。……何だよ、何なんだよそれ!」 わなわなと座り込み、雪混じりの地面を叩くレン。 レン 「そんなものに駒鳥も、僕も、あの子も、何もかもを 弄ばれてただなんて、冗談じゃない!!」 BGMアウト。 スノードロップのテーマBGMイン。 スノー 「理不尽ね。いつでもそう。何処の世界でも、そう」 レン 「……」 涙を浮かべながら肩を震わすレンの前に立ち。 スノー 「多分、グースもそう。そして、彼女を母親……マザー たらしめる、あの子達も」  ※ あの子達=ハンプティ・ダンプティの事。 レン 「スノードロップ。君は、グースを知ってるの」 スノー 「知ってはいるわ。知人じゃないけど」 レン 「……」 スノー 「〈小さく溜息〉」 レンに背を向け一、二歩。 スノー 「グースは本懐を遂げてはいない。彼女の思惑は第三 者に阻害され、つまるところ、葬られたのはロビン だった。まだ、彼女はこの世界に存在してる」 オウル 「彼女の邪魔をした第三者も同じく、ね」 スノー 「さあ、レン」 スノードロップの足許から雪がふわりと舞い上がり、スノードロップの姿と共に掻き消えていく。消え様にレンの方を振り返って一言。 スノー 「貴方はこれから、どうするつもり?」 消えゆくスノードロップと空に舞い上がっていく雪を見上げながら。 レン 「僕は……」 続きを言い切る前にBGMアウト。 解説: 解説は全て台詞の中に織り込み済み。メタの次元から 世界を見守っていたオウル、スノードロップによるネ タばらし。一連の事象の犯人はマザー・グース、彼女 の思惑を阻んだのはハンプティ・ダンプティ。である という情報がリスナーに開示される。 ..第十二幕 第十二幕 -Early One Morning- 登場人物: ハンプティ ダンプティ マザー・グース キティ ジャック(スパロウ) ジル(スパイダー) 〔マザー・グースの世界:夜の畑〕 怒れる魔女のテーマBGM。  ※ パーカッションとかシンバルとか入ってそうな、   ずんずん響く激しい曲。うねるような激情。 夜の畑に仁王立ちしているマザー・グース。怒りを表すかのように周囲には鬼火が揺らめいている。  ※ 畑=マザー・グースが元々飼われていた農家を暗   示している。カントリーホーム。故郷。 グース 「赦さぬ。ユルス? ユルさぬとも。何処《いずこ》の馬の骨と も知れぬ愚昧《ぐまい》めが。この一期《いちご》の儀式に供するの言祝《ことほ》 ぎを、ようも台無しに? 詠う最期の時に、わらわが如何《いか》ほど夢馳 せたかなど知りもすまい! 駒鳥の骸《むくろ》を積み上げ設《しつら》 えた 魔法を掠め取った罪、よもやただで済ませるつもりなどなかろうな? 精々覚悟」 激情のままに吐き散らした後、口調を整えて。  ※ 本来グースは素朴な田舎者だが、魔女になってい   るという自負からわざわざ古風な喋り方をしてい   る。 グース 「わらわがここまでかけて整えてきた儀式を、待ちに 待った死出の祝福を、何処の馬の骨とも知れぬ輩め がよくも台無しにしてくれおったわ!!」 感情が昂ぶる度にぶわりと鬼火が火の粉を吐き散らす。 グース 「誰ぞ、誰ぞ出て参らぬか、使い魔共! キティ、オ ウル、ルック!! ええい、この際バット共でも構わ いはせぬ!」 第五幕同様の出現エフェクトと共にキティが姿を現す。鬼火に照らされた陰影の中から飛び立つ蝙蝠《こうもり》と共にくるりと一回転してグースの前に跪《ひざまづ》く。 キティ 「お呼びですかぁ、魔女グース」 畏《かしこ》まってはいるものの、内心ではにやにや笑い。 グース 「キティ! これはどういう事か。何故根絶やしにし たはずの駒鳥が生き残っておった。おぬし、わらわ が尋ねた時に申したはずよな。この世界から駒鳥は 消えた、と」 キティ 「それがですね、魔女グース。あれは駒鳥じゃなかっ たんですよ。元々はロビンという名の人間の子供で して」 グース 「ロビン? ……もしや、転化か?」 キティ 「そのようですねぇ。同一の呼び名を有する別個体が、 その名称を媒介として深く結び付いてしまう現象… …転化。マザー・グースはナーサリー・ライムに属 する魔法群ですから、この世界は元来『韻《いん》』の影響 力がとても強い。おまけに、駒鳥とロビンは完全韻。 スペルにしたって違いは大か小かの一点のみで、子 音までもが同じときてる。パーフェクト・ライム。 いやぁ、こりゃパーフェクト・クライムって奴です か。やられましたね」 にやりと笑うキティに苛立ちを増すグース。 グース 「やられた? ほう、おぬし、これが故意に仕組まれ た事と? なれば、すべき事があろう」 キティ 「貴方様の宿願を妨《さまた》げた不届き者を引っ立ててくる、 でしょうかぁ?」 グース 「他に何がある。わらわが計画と知っての邪魔立てで あらば、現世《うつしよ》ではお目にかかれぬような惨たらしい 制裁をくれてやる。よしんば知らずとも、その罪万 死に値するわ」 キティ 「使い魔らしく魔女様の心配をしますけど、本当に連 れて来て大丈夫なんですか?」 グース 「わらわ直々に刑を下してやらねばこの憤懣、やる方 もないわ。その様子、おぬしどうも心当たりがある ようだな。さっさと連れて参れ。儀式は邪魔者が消 えてから再構築する」 キティ 「そうじゃなくって。我輩がしてるのは魔女様御身の 心配ですよぉ」 グース 「わらわの心配だと?」 一瞬呆気にとられるが、すぐに憎々しげにキティを睨み。 グース 「たわけ! わらわはマザー・グースよ。この世界に おける唯一無二の権威。それに向かっておぬし、何 を心配すると言うのだ」 キティ 「だって、相手は偉大なる魔女グースのお目を盗んで 駒鳥の葬列を実行させたんですよ。それってぇ」 グース 「〈ぎりっと唇を噛む、あるいは歯軋りする〉」 身を屈め、グースの顔をわざわざ下から覗き込むような姿勢で。 キティ 「もしかして、貴方様と同様……それか、もっとずっ とあの子達の方がこの世界の『正統な』権利者なの かもしれませんよぉ?」 BGMアウト。 グース 「黙れッ!!」 とみせかけてスフォルツァンド。  ※ あるいは、スフォルツァンドピアノで始まる別の   BGMにシフト。(音楽用語不慣れですみません、   要は一瞬演奏を止めかけたと思いきや両手で鍵盤   をダーンッ!!と打撃するような感じの鋭角な演出   が欲しいです) 肩を竦めながらグースの射程外にひょいと飛び退り。 キティ 「あは、恐っ」 グース 「黙れ、黙れッ! 黒猫風情が、わらわがこの世界の、 マザー・グースの座に相応《ふさわ》しくないとほざくか!!」 キティ 「こう見えて黒猫は由緒あるんですよぉ。ま、そりゃ どーでも良いや。ともかく、我輩は一応忠告しまし たんで」 グース 「……失せよ。そのふざけた面、不愉快至極」 キティ 「はぁい、仰せのままに♪」 キティ消失のSE。(第五幕参照)姿を消しながら最後に一言キティの声がエコーする。 キティ 「お探しの方々はすぐお見えになりますよ。ではでは、 精々お気をつけあそばせ。あははははははっ」 高笑いは猫っぽさを創意して下さい。『にゃはは』とか別の文字になって構いません。 グース 「小馬鹿にしよる。何だというのだ」 怒り覚めやらぬまま吐き捨てたものの、一人になってふと弱気になる。  ※ 元はただの非力なガチョウだったという認識が心   の底には残っている。 グース 「……わらわは、マザー・グース。だというのに」 心細さを表すようにBGMフェードアウト。 〔マザー・グースの世界:ロビンの家の庭〕 穏やかだが無邪気な狂気を漂わせるBGM。  ※ 嵐の前の静けさ的な雰囲気を演出したい。 ネズの木の下に並んで座り込むハンプティ・ダンプティ。ぱたぱたぱた、と蝙蝠が飛んでくる。夜だが月明かりと星明りに照らされて明るい。 ハンプティ 「あら、蝙蝠さんだわ」 ダンプティ 「あれ、何か咥えてるね」 不思議そうに眺めていると、蝙蝠は二人の頭上で旋回。 二人 「「……?」」 咥えていた手紙を二人の手元目掛けてぽとりと落とし、蝙蝠は『仕事は済んだぜ、あばよ!』とでも言うように元気にキィキィ鳴きながら飛び去っていく。キャッチしたのはハンプティ、目をぱちくりさせて。 ハンプティ 「お手紙みたい」 ハンプティの手から手紙を取り上げ、しげしげと眺めながら引っ繰り返して裏を見る。 ダンプティ 「僕らに? この封蝋の印、猫の足跡……キティ?」 まだキティと喧嘩したのを引き摺っているダンプティ。横目でダンプティを見て小さく肩を竦めるハンプティ。取り成すように。 ハンプティ 「ただの義務的な連絡よ。顔を見なくて良かったじゃ ない?」 ダンプティ 「それもそうだね。開けてみようか」 ぺり、と封を剥がして紙を広げる。剥がされると同時にぽわりと封蝋が蛍火のように漂い光って手紙を照らす。手紙を読む演出として、淡く浮かび上がるようなエフェクトをキティの声にかけて。 キティ 「拝啓、魔女グースからの言伝《ことづて》を賜《たまわ》ったのでここに伝 えよう。『駒鳥の殺害、これ即ち魔女グースへの叛 意であり、魔女グースは原告としてその首謀者をた だちに起訴する』 罪を犯せしキミ達に、主は罰を 与えたもう。魔女グースはわらしべの法廷にてキミ 達を待っている。スカボローの市《いち》で愛を乞うのは、 妖精の騎士を振り向かせるほどに難しい。それでも、 Are《アー》 you《ユー》 going《ゴーイング》 Scarborough《スカーバラ》 Fair《フェア》?」  ※ 『わらしべ』は藁と童子《わらし》のダブルミーニング。最   後は歌うのではなく、真面目な問い掛けとして歌   詞を読む。『それでも、君はスカボローの市へ行   くのかい?』というニュアンス。 顔を見合わせる二人。 ダンプティ 「ねえ、ハンプティ。僕ら罪人《つみびと》なんだって」 ハンプティ 「そうみたいね、ダンプティ。でも、そんなのどうで も良い事だわ」 ダンプティ 「うん。だって、これは招待状だもの。あの人が僕ら に『来い』って言ってるんだ」 ハンプティ 「ねえ、この裏に書いてある詩はなぁに?」 手紙の最後に書き付けられた詩に目を留める。紙はダンプティが手にしている。 ダンプティ 「え、何処?」 ハンプティ 「此処よ、此処」 指差すハンプティ、ダンプティが言われるまま紙を裏返して読み上げる。 ダンプティ 「『Early《アーリィ》 one《ワン》 morning《モーニング》』?」 ハンプティ 「♪ある朝早く、太陽が昇る頃。  谷のふもとで一人の少女が歌っていた」 歌うというよりも、見知らぬ歌詞を朗読するという感じ。  ※ 『ある朝早く』というイングランド民謡。 ダンプティ 「♪『嗚呼、私を裏切らないで』」 ハンプティ 「♪『嗚呼、私を置いて行かないで』」 二人 「「♪『どうしてそんな酷い仕打ちをなさるのか』」」 詩の台詞部分の内容が丁度ハンプティ・ダンプティの気持ちに合致していたため、柔らかくくすりと笑う。 ハンプティ 「私、この歌嫌いじゃないわ」 ダンプティ 「僕もだよ。キティが贈ってきたっていうのが癪だけ どね」 BGMアウト。 * * * ジャック(雀)が飛んで来て二人を認めると、頭上から声をかける。 ジャック 「なあ、君ら」 ダンプティ 「うん?」 きょろきょろと声のした方を見渡す。ジャックはここで初めてきちんと二人の姿形を認識し、ハンプティ・ダンプティだと判断する。 ジャック 「其処の君らだよ。あの時の声、聞き違えもしない。 そうか、……双子の、ハンプティ・ダンプティか」 マザー・グースの世界らしい幻想的なBGMイン。 ハンプティ 「ええ、私達はハンプティ・ダンプティ」 ダンプティ 「そう言う君は誰だい?」 ハンプティ 「月影になってよく見えないわ。お顔を見せて?」 ばさばさっと羽根を翻して二人の前に降り立つ。一歩、二歩と歩み寄る。 ジャック 「失礼。僕はジャック。ジャック・スパロウ」 ジャック、という名に有名人でも見たかのような反応を示す二人。ジャックは誰もが知っている。 ハンプティ 「まあ。ジャック?」 ダンプティ 「名無しのジャック?」 ハンプティ 「殺しのジャック?」 ダンプティ 「おまけにスパロウだって! なら、僕らの唄に応え てくれたのも君なんだね」 ジャック 「如何《いか》にも。しかし、解せないものだね。君らのよう な稚《いとけな》い子らが駒鳥を呪うなんて」 『稚い』にはあどけないものに対する愛情も込めて。二人に対するジャックの態度は割と好意的。ジャックは殺しを愛しているが、物語《ライム》がなければ誰も殺せない。二人は殺しの機会を与えてくれた恩人とも言える。 ハンプティ 「私達、別に駒鳥が憎かった訳じゃないわ」 ジャック 「じゃあ、君らの殺意は何に由来する? 何のために 魔法を詠ったんだい。そもそも、マザー・グースで もないというのに。僕も、あの葬列も、誰もが君ら に従った。本来、一介のキャラクターに過ぎないは ずのハンプティ・ダンプティ。その名を騙る君らは」  ※ この世界で魔法を使えるのは原則マザー・グース   のみ。唄=魔法の呪文。マザー・グースが詠えば   それは魔法になるが、他の者が唄ってもただの唄   にしかならない。キティとスノードロップは別の   世界の魔法使いに連なるため例外。第四・五幕の   マルレーンの唄は現在進行している物語《ライム》をナレー   ションしているようなもので、彼女もまた操られ   る側の存在。グリムとマザー・グース両方の属性   を持っているため、どちらにも影響され易い。 ジャック 「明らかなる異端者だ」 ダンプティ 「語るも騙るも同じじゃない。それに第一、嘘でもな いんだから」 ハンプティ 「私達の性質を表すのに、こんなにぴったりの名前も ないのよ?」 ジャック 「へえ?」 以下、プロローグの謎かけの歌詞と対応。 ダンプティ 「脆く乾いた大理石のお城」 ハンプティ 「絹は破れて泉は濁り、金のリンゴは青いまま」 ダンプティ 「熟れる時を待てど暮らせど」 ハンプティ 「春は来ず」 ダンプティ 「イースター・バニーは僕らを見放したんだ」 ハンプティ 「罪作りな春告げ兎。役目を忘れて不思議の国に行っ てしまったのね」 ダンプティ 「冬は越えられない。復活祭も訪れない」 ハンプティ 「こんなに寒いのに」 二人 「「〈物憂げな溜息〉」」 BGMアウト。切望を漂わせる哀しげなBGMイン。 ダンプティ 「僕らは置き去り、起きざる者」 ハンプティ 「生まれる事のなかった命」 ダンプティ 「知っている事は一つ」 ハンプティ 「たったの一つだけ。私達には母様がいる」 ダンプティ 「母様しかいない」 すっと冷えた声音で、事実を淡々と述べる。 ハンプティ 「親鳥が存在しなければ、卵は生まれない」 ダンプティ 「卵が生まれたなら、親鳥は必ず存在する」 両手を空に伸ばすダンプティ。冷えた声音が嘘だったかのように、ぱっと喜色満面。ミュージカルじみた極端な切り替え。 ダンプティ 「僕らは逢いに行く! やっと、居場所が判ったんだ」 ハンプティ 「あの人を探すのは、途方もない不可能事だった。何 の標《しるべ》もなしに、目に見えない魂の行方を追うような もの」 ダンプティ 「来る夜も来る夜も彷徨った。帰り道はもう判らない。 まあ、あの人がいないなら帰る意味もないけどね」 ハンプティ 「だからこそ、探す以外に望みはないの」 ジャック 「まるで死者を求めて彼岸へ渡るような話だ。ないも の強請《ねだ》りに魔法の国へ、か」 何処か自分にも覚えがあるようなジャックの呟き。二人に自分を重ねて、やや自嘲の響きを帯びる。そうとは思わず、不思議そうに首を傾げるハンプティ。 ハンプティ 「あら、貴方はあるものしか欲しくならないの?」 ダンプティ 「それじゃあ、この心が割れそうな狂おしさは知らな いのかな。羨ましい」 ハンプティ 「そうでもないわ。締め上げるような恋しさこそ、愛 の証とは思わない?」 ダンプティ 「嗚呼、それもそうだね。切なささえも愛《いとお》しい、か」 ジャック 「ふふ……なるほどね」 ダンプティ 「?」 ジャック 「いやね、僕もその類《たぐい》の感情は知っていたなと思って。 行方不明の殺意を求める僕も、詰まる所は君らと同じ穴の狢」 ハンプティ 「罰が私達を招いてくれる。あの人への罪で、あの人 からの罰が買えるなら。どんな罪でも犯せるわ」 ジャック 「そう敵視しなくとも。僕は云わば実行犯、君らは僕 に指示した教唆犯《きょうさはん》だ。君らの罪は別段軽くもならな い。それに……」 沈黙。 ダンプティ 「それに?」 ジャック 「見方を変えれば僕は、殺害に使用される凶器に過ぎ ない。殺意を持たない道具は罪には問われない。大 変不本意だが。だから、君らを差し置いて僕が罰さ れる事はないよ」 ダンプティ 「……ふぅん。それなら何の用で出てきたの? 歌の 主が誰かなんて、他の誰も気にしてないのに」 ジャック 「良ければ一緒に着いて行っても良いかなって」 ハンプティ 「あの人の所へ?」 ジャック 「そう。道具としては何故使役されたかに興味もあっ てね。君らはこれからあの一件について糾弾される。 それを聴かせて貰いたいんだ」 ハンプティ 「どう思う、ダンプティ?」 ダンプティ 「〈少し考えて〉……構わないんじゃない」 ハンプティ 「そうね。凶器を持参するくらいおかしくないもの」 ダンプティ 「それに、何よりジャックというのが素敵だね」 ジャック 「同行の許可は下りたようだね」 ハンプティ 「ええ、ジャック。そうだ、ねえ。どうせなんだから 私達を抱いて行って頂戴な。その立派な両腕に!」  ※ 二人は『抱かれる』事に執着を抱いている。ある   特定の人物に抱かれる事が最大の喜びだが、そう   でなくても憧れの行為。 ダンプティ 「殺し屋の腕の中か。良いね、すごく良いよ。暖《あった》かい かな? きっと色んなものが纏わりついてて暖かい よね」 ハンプティ 「嘆きとか、恨みとか、哀しみとか」 ダンプティ 「血とか、命とか、魂とか」 ハンプティ 「一つ一つじゃ寒いでしょうけど」 ダンプティ 「一緒くたなら暖かいよね」 ジャック 「ご期待に沿えるか自信はないが。君らみたいな幼子、 抱き抱えるくらい訳はない。来たまえよ」 嬉しそうに笑いながらジャックに抱き着く二人。 ジャック 「っと、……君らは軽いな。でも、とても抱きやすい カタチをしてる」 右腕にハンプティ、左腕にダンプティを抱えるジャック ダンプティ 「当たり前だよ、僕らはそのための存在なんだから」 ハンプティ 「嗚呼、逞しい揺り籠」 ダンプティ 「鼓動の子守唄、血の温もり」 ハンプティ 「ジャックでこれなら、あの人の腕はもっと……」 腕の中で陶酔してしまいそうな二人を軽く揺すり。 ジャック 「……良いかな、動いても」 はっと我に返ったように。 ダンプティ 「嗚呼。嗚呼、良いとも。くれぐれも落とさないでね」 ハンプティ 「さあ、行きましょう。あの人が待ちくたびれてるか もしれないわ」 先程の歌を小さな声で口ずさみ。 ダンプティ 「♪『嗚呼、私を裏切らないで』」 ハンプティ 「♪『嗚呼、私を置いて行かないで』」 二人 「「♪『どうしてそんな酷い仕打ちをなさるのか』」」 うっとりと目を細めて囁く。 ダンプティ 「やっと会える」 ハンプティ 「この日を夢見てた」 双子 「「ねえ、マザー・グース」」 嬉しそうなくすくす笑いと共にBGMフェードアウト。最後に雀が飛び立つ音。 〔マザー・グースの世界:夜の丘〕 雀が飛んで行く音が遠くに聞こえて。 ジル 「……ジャック?」 寂しく風の音がひゅるり。 解説: キティ→マザー・グースへの呼称の使い分けについて。 二人称:基本:『貴方様』     特別:『魔女様』      ・皮肉、揶揄を含む 三人称:基本:『魔女グース』 第五幕の通り、マザー・グースとの会話ではない場合 は敬称は使わない。使い魔という立場を演じる上での 形式的なもの。対等、あるいはキティの方が位は上。 ただし、マザー・グースはそれを理解していない哀れ な道化なので、キティの呼び方が皮肉や揶揄だとは気 付かない。 ..第十三幕 第十三幕 -Goosey Goosy Gander- 登場人物: ハンプティ ダンプティ マザー・グース スノードロップ ラビ(白ウサギ) ジャック(スパロウ) ジル(スパイダー) ルック ガガンボ 〔マザー・グースの世界:農家の古小屋〕 夜明け頃、かつて家畜小屋だった古びた小屋。法廷のように藁を積み上げて作られた裁判官席と書記官席。右手に弁護人席、左手に原告席、中央に証言台。原告席にマザー・グース、判事席には黒いローブを目深に被った白ウサギのラビ、書記官席にカラスのルックが位置取る。  ※ ラビはスノードロップが化けた姿。声質は変えず、   はきはきした口調で初見では別人と思わせるよう   に演じて下さい。知っていて聞けば同一人物とは   判る程度に。 裁判を連想させる少々威圧的なBGM。 グース 「まだか、まだ来ぬのか。いつまで待たせおる」 かつ、かつ、かつと苛立ち混じりに机を爪で叩くマザー・グース。裁判官席のラビはクッキーの生地をこねている。 ラビ 「気を静めて下さい、原告。もう幾らもせず現れると、 監視の星々は申しています」 敬語ではなく単なる丁寧語、マザー・グースに対して敬意を示しているわけではない。視線も手元のクッキー作りに注がれており、マザー・グースの方を見ようとしない。 グース 「その星ももう消えかかっておるではないか! 夜が 明けるぞ。……裁判官。おぬしはさっきから何をし ておる」 ルック 「裁判官殿はお菓子作りでお忙しいご様子」 ラビ 「ジンジャークッキーです」 ルック 「おや、良いですね」 グース 「そんな事はどうでも良い! ここは厨房なぞではな いのだぞ。……大体、フードを被ったままというの も気に食わん。こちらばかり盗み見されているよう で不愉快だ」 ぶつぶつと呟くマザー・グース。こけこっこー、と鶏の鳴き声が遠くで響いてばんと机を叩く。 グース 「ほれ、聞いた事か! 朝が来てしまった。ふん、判 決など後で良いのだ。どうせこの手で刑罰を下して やらねば気は済まん」 ラビ 「刑が先、判決は後。そう提唱したのはキャロルです。 キャロルの法はマザー・グースの法ではありません。 逆になる事はありえても」 ルック 「白ウサギのラビ。いえ、今は裁判官のラビ殿でした。 テニスンをお忘れですか? 『陪審員も裁判官も全 て私が担当して、必ずお前を死刑にしてやる』」 悪戯っぽくにやにやと笑うルックを冷ややかな目で見るラビ。 ラビ 「犬のフューリーですか。ルック、マザー・グースが マザー・グースたる由縁をお忘れで? 多少の例外 はありますが、寄る辺なくてこそ童歌《わらべうた》は拾われ集め られ名を授かるのです。既に名のある他所の子供を、 誰が『我が子』と言えますか?」 ルック 「ふむ、それは誰にも言えないでしょうね」 ラビ 「では、テニスンの法もテニスンのものですね」 グース 「小忌々しい。ラビよ、では白ウサギであるおぬしが その裁判官の席にいるのはどういう訳だ。おぬしの 理屈なら、その様式もキャロルのものではあるまい か」 ラビ 「何の事でしょう? 私は今クッキーを焼くのに忙し いんです」 グース 「まるで三百代言《さんびゃくだいげん》の物言いよ、これが裁判官とは片腹 痛い。こやつが白ウサギでなければすぐにでも……。 ええい、もう良い、さっさと告訴状を読み上げよ! 彼奴《きゃつ》らが現れたらすぐにも刑の執行に移れるように」 外から雀の羽音が近付いてくる。  ※ マザー・グースの台詞の途中から音を被せる。 BGMフェードアウト。 ルック 「と言っている間に、どうやらご到着のようです」 グース 「〈舌打ち〉……間の悪い。どうせ遅いのなら全てが 終わった後でやって来れば良いものを」 小屋の入り口に降り立ったジャック。 母子の因縁の再会をイメージした、切なさと歓びを連想するBGMイン。  ※ 主題歌のメロディを使ったオリジナル楽曲などど   うでしょう。母子は結局心がすれ違うので、あま   り明るくはしないで下さい。 ジャック 「邪魔をする。マザー・グースの法廷はここで間違い ないか」 ルック 「いかにも。そう言う貴方は……」 召喚したハンプティ・ダンプティ以外の人物が付いて来た事に困惑するルック。 ラビ 「被告人と、……?」 誰も自分を犯人と認める者がいない事に、薄々解ってはいたものの落胆するジャック。 ジャック 「ジャック・スパロウだ。そちらのお嬢さんの言う通 り、僕の腕の中にいるのが」 ハンプティ 「被告人、ハンプティ」 ダンプティ 「ダンプティ」  ※ 『ハンプティ・ダンプティ』と繋げて言う時の    イントネーションで。二人で一つの台詞を分割し   ているものとして。 両腕に抱いていたハンプティ・ダンプティを下ろし。 ダンプティ 「キャスティングありがとう」 ハンプティ 「おかげでやっと、ここに来れたわ」 真顔に薄ら笑みを張り付けて一同を眺め回す。 ルック 「ジャックでスパロウというと、おやおやおや……。 被告人を弁護するつもりでしょうか?」 何か思い当たったようでにやりとするルック。  ※ ジャックからすると、やっと多少は気持ちが通じ   そうな相手が見つかったといったところ。ルック   としては、最終的に何か美味しいおこぼれが貰え   そうならこっそり肩を待つのもやぶさかではない。   立ち振る舞いは紳士でも本質は、悪食。 ジャック 「いいや。同席させて貰いたいだけだ」 グース 「邪魔だ、引っ込んでおれ。おぬしの出る幕なぞない」 ルック 「まあ、そう仰らず」 会話を遮って。 ラビ 「ふむ、傍聴という事でしたら是非もありません」 ふむ、というか、うん、というか、ちょっと可愛い感じ。 グース 「〈あぁ?と睨め付けるようにラビを見る〉」 ジャック 「……と仰るこの方が裁判官のようだけど?」 グース 「……勝手にせい!」 ここまでの会話の間はハンプティ・ダンプティは声は出さず、こそこそ顔を見合わせたり両手を口許に当てて込み上げてくる笑みの表情を隠したりしながら一同の様子を眺めている。会話が途切れたため、空気を読む事を止めて無邪気に証言台へ駆け寄るハンプティ。  ※ この辺りにBGMの盛り上がりを持ってきたい。 ハンプティ 「うふふ、あははっ。ここが裁きの間なのね? 藁で できた立派な法廷!」 揶揄などではなく、純粋に素敵な場所にやって来たという気持ちのハンプティ。マザー・グースのいる場所=素敵な場所。後ろからゆっくり歩いて来るダンプティ、辺りを見回しながら。 ダンプティ 「フードを被っているのが、白ウサギの裁判官。書記 はミヤマガラス。弁護人の姿はなし。それでもって」 ハンプティ 「左に座っているのが、私達を起訴したお方」 ダンプティ 「貴女なんだね、マザー。グース」  ※ ここでの『マザー』は『母様』の意。プロローグ   でハンプティの台詞に一度だけ同じ使い方をして   いる『マザー』があるので、それを意識して。 やっと見つけた恋しい母親を見る目。マザー・グースはハンプティ・ダンプティが自分の子供であるとは知らないため、その視線にぞっとする。  ※ 卵を孵した覚えもなければ孵す気もなかったため、   そもそも自分が母親であるという認識自体ない。 グース 「何だ、その目は……」 ルック 「緋色交じりの黄金《こがね》の瞳に、粥《かゆ》のような粘り気のある 視線。溢れ出る執着感が堪りませんね。新鮮味に欠 けるのがまさに玉に瑕《きず》ですが。大変に、私好みの劣 情です」 ルックにはハンプティ・ダンプティの正体である干乾びた卵が見えている。瞳の描写は生卵の中身、新鮮味や玉に瑕という言葉遣いは卵を意識。 グース 「おぞましいな」×おぞましい ハンプティ・ダンプティには聞こえないくらいの小声で呟くマザー・グース。正体不明の感情を向けられて嫌悪も露わ。 ダンプティ 「劣情?」 ルック 「本能的な欲望の事ですよ」 ラビ 「また随分と広義的な解釈を使うこと」 ルック 「私は本質的だと思うのですけれども? ふふ、まあ 良いでしょう」 ちらりと舌で唇を舐めながら、小声で。ただし、わざとマザー・グースには聞こえるように。 ルック 「嗚呼、食べてしまいたい」 その呟きを聞いて良い事を思い付いたとほくそ笑み、こちらもルックにだけ聞こえるような声で囁く。 グース 「はっ、悪食《あくじき》カラスの感性は解らん。しかし、わらわ にはこの小娘小僧の方が解らんわ。おぬしが好みと 言うならくれてやるのも一興か? ふふ、良かろう」 木槌の代わりにクッキーを練っていた麺棒でたんたんと机を叩き開廷を告げるラビ。 BGMアウト。 摩訶不思議な裁判のBGMイン。 ラビ 「これより裁判を開始します。まずは告訴状を読み上 げる訳ですが。その前に、書記官殿。このクッキー をさくっと焼き上げて頂けますか」 ルック 「お安い御用で」 ぱちん、と指を鳴らすとごぉっと炎が巻き上がる。炎が消えた時には既にクッキーは焼き上がり香ばしい匂いが満ちている。 ハンプティ 「まあ、とても良い匂いね。真冬の暖炉から香る温も りみたい」 ルック 「こんなもので如何でしょう?」 ラビ 「有難う御座います。〈咳払い〉 それでは」 * * * 服の内ポケットから告訴状を取り出して広げ、ロニエット(取っ手のある眼鏡、虫眼鏡の双眼版のようなもの)を使って目を細めて告訴状の字を睨むラビ。  ※ 片目の視力がかなり悪く、ついでに同じ側の耳も   ほとんど聞こえません。 ラビ 「『原告マザー・グースは駒鳥を殺生《せっしょう》せしめたる者を 罪に問う』 調べましたところ、一軒の農家の軒先 に生えているネズの木の下に、真新しい駒鳥の墓を 発見しました。ここにいる書記官のルックはその葬 儀で牧師を務めたと証言しています」 ルック 「駒鳥は殺害された瞬間を目撃され、その後速やかに 式が執り行われました。棺が墓に入ったのは、死亡 当日の黄昏《たそがれ》時です」 ラビ 「目撃者のフライとは接触が取れていないのですが、 ちなみに目撃者証言を最初に聞いたのはどなたです?」 調書のメモを時折ぱらぱら捲る音、適度に挿入。 ルック 「フィッシュです。その後、順にビートル、オウル、 私とラークにリネット。それから、ダヴ、カイト、 レン、トラッシュ、最後にブルフィ」 ラビ 「なるほど、確かに『Who《フー》 Killed《キルド》 Cock《クック》 Robin《ロビン》?』の唄の通りです。では、犯人ジャッ クは雀のスパロウなのでしょう」 頬杖をついてつまらなそうに耳を傾けていたマザー・グースがひらりと手を挙げる。 グース 「わらわは殺害に使われた『駒』を起訴するつもりは 毛頭ない。問題は『誰が』その唄を歌ったか、駒鳥 の殺害を企てたのは『誰か』だ。意思なき殺戮者な ど現象に過ぎん。魔法が具現するための現象、魔法 現象だ。嵐で死者が出たからと、誰が嵐を断罪する? する訳なかろう。だが、嵐を意図的に操り対象を殺 害した者がいるなら、そやつは真に犯罪者たり得る」 ラビ 「原告は殺意こそが罪であるという主義主張をお持ち な訳で?」 グース 「まさか。殺意の在《あ》り処《か》など些事《さじ》に過ぎん。わらわの 世界でそのような俗物的な罪を審判するなら、それ こそナンセンスの極みよ。魔法とは魔なる法律、こ れを統べるのがわらわ。わらわには、わらわの『法』 の侵害者を誅《ちゅう》する権利がある」 ラビ 「要約すると」 ちらとルックに視線を流す。 ルック 「魔女殿は被告人殿に勝手に法を揮《ふる》われた事にご立腹 でおいでのようです」 ひそひそと囁き合うハンプティ・ダンプティ。 ハンプティ 「マザーは怒っているの?」 ダンプティ 「」 ふむ、と何やら思案しながら別の調書を取り出し。 ラビ 「墓の建てられていたネズの木に聴取」 解説: ..エピローグ エピローグ -Old Mother Goose- 登場人物: 解説: .二次創作 ..みかつる単騎演練 ― 某日・演練場にて ―  鶴丸国永   刀装:重騎兵 重騎兵 盾兵   騎馬:小雲雀  三日月宗近   刀装:重騎兵 重騎兵 重騎兵   騎馬:望月  演錬の編成指示が滞ったり、作戦行動により人手を割けない状況にあったり。事情はまちまちだが、手隙の者が演錬に単騎で向かわされる事は何もそう珍しい例ではない。後進の本丸にはまだまだ錬度の低い付喪神も多く、高錬度の先達の技を直に感じる機会は重宝された。正しく編成された精鋭部隊と当たった時は何とも申し訳なく、また自身も肝の冷える思いをさせられたりもした。最高錬度の打刀達に寄って集って投石の集中砲火を浴びせらるのも始めは折れそうなくらい恐ろしかったし、銃と弓で完全武装した手練れの脇差、短刀達に視界の外から付け狙われるのは今でもまんじりともしない。一度間合いに入ったが最後、大太刀の圧倒的な力で薙ぎ払われればどれほど刀装を詰んでいようとひとたまりもなかった。三名槍を相手にしぶとく立ち回っていたら、何としてもその日は勝利が欲しかった連中に結果滅多刺しにされた事もある。  あれは実に惨かった。どちらにとっても不運だったとしか言い様がない。機動のある日本号の大身槍が躱せず腿を貫通されそのまま地面に縫い止められて、追撃する御手杵の更に大きな穂先が心の臓に一直線に迫るのを間一髪で身を捻り胸に受けたのだが、それが悪かった。そこで破壊判定となっていたなら、蜻蛉切の最後の一撃は入らなかったのだから。碌に身動きもとれない血塗れの痩身はそれでもまだ生存していて、相手とてとどめを刺さないという選択肢はない。それまでの戦闘の勢いのままに、身幅のある笹穂が背後から今度こそ脳天を貫いて視界は完全に赤一色に塗り籠められた。  参った、参った。今回も散々な負けっぷりだ。これじゃあ全身赤一色でとても鶴には見えっこない。  あの絵面を目の当たりにした相手の審神者は、顔面蒼白で声も出ない様子だった。こちらが実体を解いて一度刀に還った後でそれだったから、あの瞬間はもっと酷かったのではないだろうか。嗚呼、まあそれは凄絶な光景だったろう。あちらの本丸にも己と同じ刀が迎えられていたのだとしたら、それはきっと尚の事。  今日も我が本丸は検非違使対策と幕末京都の保守作戦で忙しい。手入れ部屋は稼動しっ放し。演錬も欠席するよりは単騎であろうが誰か出しておいた方が角が立たない。  木枯らしの吹く師走の演練場に真白の騎馬武者が降り立った。軽やかな手綱捌きでくるりと馬首を廻らし周囲を見渡すと、白装束の上でしゃらしゃらと鈴を転がすような音で金鎖が鳴く。  すらりとしなやかな肉付きの黒鹿毛は如何にも名馬といった風体で、豊かな黄糸の面懸に紅糸を撚った手綱が何とも華やかである。しっとりと艶めく赤褐色の毛並みは真白をより一層引き立てながらも、その一騎の佇まいに何処か地に足の着いた現実味を与えていた。  腰に佩かれた刀の拵えは実戦を旨とする厳物造だが、彼自身の装いは戦装束と呼ぶには些か儚い。藍鉄の上、白に白を重ねてともすれば経帷子とも揶揄される。草摺以外に甲冑らしき備えもなく、ひらひらと風に遊ばれる頭巾羽織。これより秋の名残を掃討に向かう雪の精霊であるとその口がのたまったとしても、然したる違和もないだろう。  脚絆の上でふっくらとたゆんだ袴、そこから伸びるほっそりとした脚は彼が常日頃その身に重ねる瑞鳥を想起させる。  鶴。  越冬のため北の海を渡ってくるあの鳥も、そういえば冬の使いであった。  しかし、一途なまでの単色の下でその生身を覆っているのは尚武の色だ。褐色(かちいろ)とは古くは濃く染められた藍色を指す言葉であり、縁起を好む武士はこれを「勝ち色」と呼び表したという。時代がその意味をどう変遷させたかは定かではないが、真白の下に藍を敷き赤褐色の馬に跨る洒脱さはいかにも目出度く小粋。渡り歩いてきた刃生を随所に垣間見せる平安末期の古刀は、正しくその存在そのものに永き時を刻んでいた。  馬上の付喪神は冬の容貌で原野に歩みを進ませる。背負う空は静謐な天色、遠く山際まで広がる草地は冷たい風に晒され乾いた草ずれの音を奏でていた。 ---(フィールド描写追加)---  なだらかな傾斜を下った先に一本松。年季の入った老樹の幹に寄り添って、これまた一頭の軍馬が麗しい貴人を乗せてひたとこちらを見据えていた。  艶やかな青毛の額に浮かぶ白斑はさながら夜天が戴く月の如し、その名も望月と呼ばれるこれまた名馬である。こちらの黒鹿毛――小雲雀と比べれば幾分立派な体躯をしているが、たっぷりとした睫毛の下、つぶらな瞳がその面差しを柔和に見せている。  馬は乗り手に似るのだろうか。あるいは、乗り手が己に似た馬を好むのだろうか。望月の鞍の上には、同じく月の名を冠する付喪神が怜悧な美しさを湛えて泰然と座している。紺青の艶やかな狩衣に縫い上げられた三日月紋。  真白の付喪神――鶴丸国永は期待を宿した笑みを口の端に上らせた。 「三日月宗近」  対峙する天下五剣が一振りは、鶴丸が口を開くのを待っていたように小さく首を傾いだ。藍色がかった射干玉の髪は宵闇めいて、さらりと頬にかかる。 「はて、鶴が群れからはぐれたか」  落ち着き払った様子の三日月と距離を保ったまま、鶴丸は短く手綱を引く。ひたと歩を止めた小雲雀の耳が辺りを警戒するように小刻みに揺れた。  弓の間合いに茂みはない。埋伏しているならば銃兵くらいか。 ---(ここフィールド描写に合わせて変える)---  琥珀の瞳が素早く背後に走るのを見て取ったか、三日月が目許を緩める。 「案ずる事はない、俺はこの通り一振りよ」  鶴丸の口から苦笑と共に白い吐息が零れた。 「まあ、君みたいなのが物見とは思い難いな。見付けて下さいと言わんばかりだ。こっちに遠戦の備えがあったら今頃どうなっていただろうな」 「はっはっは。それはそなたとて同じではないか」  何が可笑しいのか、戦場にはそぐわぬ朗らかな声で三日月もまた笑う。眼差しから鋭さが削がれ、ころころと袖口で口許を隠し肩を揺する様子でさえ玲瓏だ。可笑しい、というよりも嬉しげにすら見えるのはどういう事か。 「俺と同じで単騎なのだろう。鶴は禁制ゆえ、乱獲はされずとも密漁は後を断たたん。少しは隠れる事を覚えた方が長生きできる」 「晴天に昇るお月様がそれをおっしゃるのは嫌味だぜ」  雲隠れせずとも、地上に蠢く有象無象になど捕らわれる事はないとでも思っているのならば。  三日月はゆるやかな動作で抜刀した。その白刃の閃きを合図に、片や鶴丸国永も己を鞘から抜き放ち鋭く鐙を蹴った。いかにも疾風の如く駆け出す小雲雀。迎え討つ三日月宗近は手綱を僅かに左に引き、小雲雀の直線進路からその身を逸らしつつ馬腹を軽く小突くようにして助走を開始した。  互いの表情すら曖昧だった距離が瞬く間に詰まる。交錯の刹那目掛けて、駆ける勢いのままに鶴丸国永が太刀を翳した。あわよくば腕の一本を斬り落とすつもりで振り下ろした刃は、重い衝撃に弾かれ空を薙ぐ。琥珀色の瞳が好戦的な熱を帯びて  ほとんど力任せに半ば横薙ぎに打ち払い、すかさず望月の首を返す。 ..みかつる馬上手合わせ  現世と異界の狭間、五箇伝から備前の名を戴いたそのあわいは穏やかな秋の気配に包まれていた。空は高く、戦装束を解いた軍馬達もうららかな風薫る丘で機嫌良く尾を揺らしながら草を食んでいる。 「長閑よな」  本丸を見下ろす丘陵地に設けられた放牧場。そこに佇む人――もとい、ヒトガタの付喪神の本性が刀であると、誰がこの光景から思い至るだろうか。理想の平穏と豊穣に満ちたこの丘は、鍔迫り合いや断末魔の折り重なる戦場とはあまりにかけ離れている。  ――本当にそうなのだろうか。いや、実のところはそうではないのかもしれない。  三日月宗近は、艶めく秋を愛しんでいた。  人の手より生み落とされながら、その存在が研ぎ澄まされるのはただ人を殺めるため。造り主を神と呼ぶならば刀にとっての神とは人であり、持ち主を何より敬うならばやはり刀にとっての神とは人以外の何物でもない。それでも、刀は太古より尊きものとして人に崇められた。敵を退け、病を祓い、果ては人智を超えた妖かしすらも調伏する。人は己の手に負えぬ災いと相対する時、絶対的な力を欲した。たとえば。  ただの一振りで命を摘み取る、抗いようのない力。暴力と呼ぶには洗練され過ぎていて、美しい、力を。  争いとは奪う者と守る者とのせめぎ合いだった。始めは奪うものといえば糧であり、結果として奪われてきたのは命であった。それがいつしか、より複雑な利権、地位、矜持へと変わっていった。必然、刀が斬り捨ててゆくものの姿も変化していく。しかし、本質をただせば彼らは命を奪う一方で、また異なる命を守るために存在していた。  諍いのない秋は尊い。豊かな実りを享受する人々の姿はどれほど心を満たしただろう。血に塗れた刃であれども。血に塗れた刃であるからこそ。この秋を愛しいと、どうして思わずにいられようか。  程好く腹が満ちたか、青毛の駒は顔を上げると傍らの一振り鮮やかな藍色の作務衣を纏った麗人は、傍らで顔を上げた青毛の駒がすりと額を寄せる仕草に目を細めた。長い睫毛に彩られた重たげな瞼は、当人のおっとりとした言動とも相まって穏和で雅やかな印象を抱かせる。その下の瞳は塗り籠められた深藍、瞳孔に寄り添うようにして弧を描く淡い三日月はよくよく覗き込まねば判るまい。一方、三日月の眼差しの先にある駒もまた彼と同じく月を戴く名馬の御魂であった。宵闇のように艶やかな黒紅の毛並み、額に描かれた白磁の模様は夜空の満月のように存在を主張している。  三日月なる刀と、望月なる馬。微笑ましくも優美なその光景にもう一振りの付喪神は小さく溜息を吐いた。 「あまり望月を虜にしてくれるなよ」  それは、嘆息だった。たてがみを梳いていた鶴丸の手が止まったのに抗議して、月毛の駒が不満げに鼻を鳴らす。嗚呼、すまん。詫びながら毛櫛を動かす鶴丸は初めの頃こそこの馬番の仕事をやれトンチキだと揶揄していたが、そこは幾度も戦場を共に駆けた縁が実を結び、今ではこうして馬のお強請りにも調子良く絆されてやるくらいには順応していた。 「うん? 仲良きことは良いことだろう。なあ、望月」  ゆるりと首を傾げる三日月は顕現してからこの方、戦の相方は常にこの望月を宛がわれている。本丸に集う刀剣達の中では極めて遅参で、そのため練度もまだ他の者からすれば浅い。 天下五剣と称されるだけあって地力は十分なのだが、戦は素養だけでどうにかなるものではない。無名の数打ちとて、場数を踏み修羅場をくぐればそれだけ戦場の空気が身に染みるものだ。 咄嗟の判断、踏み込みの間合い、機動力に優れていれば先手を取れるというのは幻想である。いかに三日月宗近が名刀であろうと、歴戦の兵と轡を並べるには名馬の力添えが必要だった。  とはいえ、望月は三日月だけの駒ではない。三日月が出陣しなければ他の者がその手綱を握る訳だし、最近では新たにまた日本号という槍の付喪神がこの本丸に降りている。そろそろ他の馬に鞍替えする事にも慣れて貰いたいのだが……。  こちらの言葉が解っているのだろうか、望月がつぶらな瞳でじとりと